蜂蜜博物誌

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舞台『となりのホールスター』(2019年)_感想

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トリプルコラボ公演 第6弾 舞台《となりのホールスター》 | 合同会社シザーブリッツ・公式BLOG

演劇集団イヌッコロさんとのコラボ企画を初めて見たのは9月公演の『スペーストラベロイド』でした。ごまかしや勘違いによってもたらされる誤解の連鎖。「嘘」を守るために右往左往する主人公。追い詰められて凶行に及ぶメインキャラクター(未遂)。いくつか重なる部分もありながら、『となりのホールスター』はワンシチュエーションコメディを打ち出した前者より、じっくりと羽仁修さんのテクニカルなコメディを堪能できたように思えます。言葉は悪いのですが、スペトラでは「笑い」に対して欲をかいたように見えて、せっかくの優れた勘違いコメディを味わうには雑味が多かった印象でした。一方で本作は比較的抑えが効いていたのでとても見易かったです。パンフレットのスタッフ座談会で、羽仁さんはとなスタを「笑いのシステムが細かすぎちゃうから、分かりづらいんですよね」と語っていましたが、だからこそ観客への信頼を感じて心地よく感じる部分も大きかったかもしれません。もちろん、それも演出家さんや俳優さんたちのテンポよく仕上げる努力あってのものだと思います。

初日Aキャストを見た直後(公式ではキャスト違いを☆/★で表現していましたが、わかりづらいので便宜的にA/Bとして後述します)「何も考えずに楽しめる、なんていい作品なんだろう!」とか「古谷大和がやばい」とか「某舞台で古谷大和のブロマイドが完売したあの伝説の意味を理解した」とか「古谷大和………」とか、だいたいそんな感じの脳天気な感想で頭がいっぱいだったのですが、翌日Bキャストを観劇してそのあまりの違いに打ちのめされる想いがしました。演劇の面白さを丸裸にして突きつけられたような、そんな衝撃。

   ※

好きな漫画の2.5次元舞台から観劇の習慣ができた自分にとって、演劇の文化であるWキャストはいまいち腑に落ちない存在でした。過去には「Wキャストってなんのためにあるの?俳優さんが休憩するため?」なんて、今から思えば変な質問を友達に投げかけていたのをよく覚えています。(もちろんそういった理由での起用もあるでしょうが) 舞台の味わいのためだったり、俳優の休憩のためだったり、集客に繋げるためだったり、新人のチャンスの場だったり、起用俳優の仕事の事情だったり、さまざまな理由からWキャストによる公演が行われますが、観客いち個人としては正直なところ面白さと戸惑いが同居するシステムです。

何故なら「比べてしまう」から。メインキャラクターであれサブキャラクターであれ、よっぽどでない限りWキャスト双方それぞれの面白さや魅力があるに決まっています。それでも半強制的に比べることを強いられるんです。受け手としての感性があり、好みがある以上、「○○はAのほうがよかったな」とか「○○はBのほうがよかった」とか。ふたつを観劇すれば比較しないでいるほうが難しい。シンプルに「一粒で二度おいしい」と思えるほど気持ちが前向きであればよかったんだけど、どちらにも魅力を感じてなお、そんな心持ちにさせられるのは胸が苦しい。同じ「比べる」行為を伴うものでも、縦軸のキャスト変更と横軸のWキャストでは心構えがぜんぜん違う。自分にとってWキャストシステムは感情の持って行きどころがわからない存在です。

それでも『となりのホールスター』は個人的にとてもおめでたいWキャストでした。特に大見拓土さんに対しては、2.5次元舞台のDVDや事務所イベントの即興劇(劇…?)のお芝居は見たことあるけれど、生の舞台を拝見するのは初めての体験になるので、本当にもうワクワク。きっとふたりの猿渡はお互いを食い合う勢いでやってくれるはず、とか。でもそうしたら私はあの可愛いふたりを比べちゃうのかな、とか。キャストへの期待と、自分自身への不安を行ったり来たりしながら。

話題を戻します。A公演とB公演、あまりの違いに打ちのめされました。
ふ、古谷大和~~~~~~!!!!!(敬称略)

事前に仄めかされていた情報で彼がほうぼうから「セルフWキャスト」と呼ばれていたのに初日まで首を傾げていました。初観劇後購入したパンフレットを読んで、「ああ、八島猿渡と大見猿渡でキャラが違うから、古谷さんもキャラを変える試みをしているのね? なるほど」といちおうは理解したものの、今から思えば軽く考えていたことは否めません。B公演初日、古谷さん演じる馬場の登場シーン。

えっ 昨日と別人がでてきたんだけど。酔っぱら……え~~~~~~~?????

   ※

もちろん八島猿渡と大見猿渡も別人です。お兄さんたちにどつかれて、かまってもらうのが似合うようなお調子者の八島猿渡と、最年少なんだけれど参謀的な趣のある、どこか潔癖ふうの大見猿渡。同じセリフなのにまったく別々のパーソナリティが見えてくるのが本当に不思議で面白い。パンフレットの「Q.ご自身の役と似ているところ」、ふたりとも人物像に対する着眼点が180度違う。たとえWキャストでも演じ方や技量の違いだけの、目立った差異のない登場人物も世の中には数いる中で、ここまで性格の異なる仕上がりもなかなか珍しいんじゃないかしら。

そんな猿渡が毛嫌いしているのが、古谷さん演じる馬場。八島猿渡のいるA公演では「ニーチェを読むお高く止まった嫌味な男」、大見猿渡のいるB公演では「いつでも酔っ払ってるへらへらしたいい加減な男」として立ち現れました。ふたりの猿渡と同じように、同じセリフを言いながら真逆のパーソナリティを演じる、ただそれだけでもおもしろいのですが、この馬場は、まるでそれぞれの猿渡のためだけに存在しているかのように思えました。だって、違和感なく「八島猿渡が嫌いな馬場」と「大見猿渡が嫌いな馬場」として成立しているんです。

八島猿渡がヘラヘラ酔っ払っている馬場をあんなに毛嫌いするかしら? どちらかというとわりと面倒を見てしまう気がする。大見猿渡がニーチェを読む馬場を毛嫌いするかしら? むしろお互い感じ入るところがある気がする。

たとえ馬場Aと馬場Bが入れ替わっていても物語として違和感なく受け止めてしまえるとは思うけれど、自分にとってこれは説得力のある組み合わせのように見えました。キャラクターのバランスを整えるために「明るい八島猿渡にクールな馬場」と「冷静な大見猿渡にヘラヘラうるさい馬場」にしたのだ、と言われてしまえばそれまでなんですが、猿渡が馬場を嫌いな理由のほとんどを占めると思われる一種の生理的嫌悪感の根拠として、馬場のキャラクターの違いが存在すると捉えたほうがよっぽど楽しい。「自分主義だ!」と責め立てながら、結局猿渡が馬場を嫌いな理由って、倫理観とか正義感じゃなくて、「なんかこいつヤダ」っていう子どもっぽい(誰にでもある)わがままだと思うから。大好きな行きつけのカフェレストランなのに、チラチラ見かけるオーナーの息子はどうも生理的に気に食わなくて、小さなときからずっとずっと「なんかこいつヤダ」って思い続けて、でも大好きな犬飼さんたちが構うから我慢して、なんかやだな~なんかやだな~って思い続けて、とうとう爆発しちゃったんだね、猿渡くん。でも馬場さんはずっと察してたと思うよ。以上、妄想でした。

この組み合わせが功を奏して、演劇の文化である「Wキャスト」がメタ的な認識を超えた「パワレルワールド」として成立したんだと思います。彼らにとって重要な人物を演じるキャストがキャラクターを激変させたからこそ生まれた効果じゃないかしら。例えば馬場もセルフじゃないWキャストで、ふたりの猿渡並に性格を変えてきたら、それでもパラレルとして成立したと思うけれど、やっぱり演者ひとりによる試みには及ばない。なんていうか、エモさが段違い。古谷大和がエモい。

   ※

ふたりの猿渡の印象。

八島猿渡はたとえるなら年長者をアニキアニキと慕うマイルドヤンキーの舎弟のようなお調子者。犬飼さんたちへの大好きを隠せなくて、人懐っこくて、杏奈さんを犬飼のカノジョに仕立てたのはおバカゆえの善意だし、ドラゴンを焚き付けたのは票を獲得するためのもあるけれど、気持ちとしてはきっと甘えるみたいなイタズラ心。今回の票獲得戦もお遊び感覚であまり真剣には考えてなさそう、というか「みんなレストラン続ける方向選んでくれるよね~」くらい楽観視してそう。そしてお高く止まってる馬場が嫌い。だって犬飼たちとワイワイしてるところに水をさしてくるから。「邪魔すんなお前なんか嫌いだ」っていつも思ってる(言わないけど)

大見猿渡はアホな年長者たちが愛しい参謀的な弟分。真面目で潔癖だけど、その真面目さを例えるなら「万引きするなら完璧に」。杏奈さんを犬飼のカノジョに仕立てたのは歪んだ善意。ドラゴンを焚き付けたのは票を獲得するための頭脳戦。票獲得戦に対してはマジ。そしてヘラヘラしてるだけの甘えた馬場が嫌い。犬飼たちとの和を乱すとか許せない。「中途半端なことするならはじめからいなけりゃいいのに」っていつも思ってる(言わないけど)

猿渡が子ども時代を語るシーン。八島猿渡はエモーショナルに訴えかけるお芝居であれを泣きどころに仕上げた一方で、大見猿渡はぎゅっと濃縮された緊張感で馬場への糾弾に繋げていた。あそこ、ふたりのお芝居の方向性がはっきり分かれて面白いと思いました。私は馬場Aを嫌いになる気持ちのわからない人間なので、共感性を引き出すような八島猿渡のお芝居を見たときは「なにもそこまで言わなくても~どうしたんだいいきなり~~(つられ泣きしながら)」って感じだったんですよね。ところが八つ当たりのような大見猿渡の馬場への糾弾を見て「あっ猿渡はとにかく馬場が気に食わないんだ」とやっと腑に落ちたんです。今まで正論を言ってるように見えた大見猿渡が、いきなり難癖のように馬場を責めはじめたので余計にわかりやすかったのかもしれません。「いつだって自分主義だ」と馬場を責めながら、大見猿渡には無意識に屁理屈を捏ねている感じがあって。対して八島猿渡はそもそも仲間に対する情愛がヤンキーめいてるからあれはきっと心の底からそうと信じている言葉だった。同じセリフ、同じ脚本でも、演者と受け手の交感性によって、受け取ることのできる情報には振れ幅があるのだと感じた瞬間でした。だから、猿渡→馬場の感情のわかりやすさも、私とは真逆の感想をもつ観客だって当然いたと思います。

前置きでいろいろ書きましたが、結局、私はふたりを比べています。でも、不思議と今までのようなモヤモヤはありません。やっと観客としてWキャストのシステムの醍醐味を理解できたと思うからです。それを贔屓にしてるふたりのWキャストをきっかけに気づけたのはうれしいなと。ほんのちょっとの罪悪感より、その喜びのほうが勝っています。

   ※

「Wキャストでありながらそれを超えた別人」「Wキャストを支えるように世界観をガラリと変えたセルフWキャスト」 この二点の試みからわかったのは、「脚本だけじゃ芝居は成立しない」当たり前の事実でした。

演劇鑑賞初心者である私にとっていちばん感想を言語化しやすい対象が脚本です。複合的な空間芸術である舞台のなかで、演技や演出や美術は言語化するのに訓練の必要なものだと感じています。それとも、そう思うのは自分が文芸に馴染みが深いからかしら? そのため、今までのブログもシナリオに言及するものがほとんどでした。

でも、今から思うと、あれらは本当に「脚本」からもたらされた感想だったんだろうか? できることなら、もう少し感性を研ぎ澄ませたい。そう思いました。

 

 

 

 

大河さんにコテンパンにされる馬場さん、AとBで反撃できる回数すら違うのめちゃんこカワイイ。すごい。エモい。お読みいただきありがとうございました。

舞台『SORAは青い The Sky's The Limit』(2019年)_感想

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ここのところ小劇場の観劇が続いていたので久しぶりの中規模の舞台はとても贅沢に思えた。惜しみなく照らされるライトに加えてBGM・SEの多用も豪勢な感じがしたし、衣装もキャストの骨格に似合うものが選ばれていて衣装スタッフの腕のよさが伝わる。「お金がかかっている」と言うとひどく俗な表現になるが、趣向を凝らして観客を楽しませる努力がよくされていたように思う。

メジャーデビューを目指している同じ児童養護施設出身の三人組バンドが意図せず過去へと飛ばされ、実在した悲劇の少女・駒姫の運命を変える―――という筋書きだが、史実のチョイスがよかった。「最上家は有名だよ!」とは歴史好きの談だが、戦国時代はおおまかな流れしか知らない自分にとって彼女のエピソードは初耳だった。この時代、妻や子どもは、あくまで家を継いだ男の所有物でしかなかったのだろう。太閤秀吉の悪逆を象徴するものとしては朝鮮出兵における耳塚が教科書に載るほど有名だが、駒姫たちの処刑も惨烈をきわめる。

平松可奈子さん演じる駒姫は世界観が提供し得る最高のかわいらしいお姫さまだったと思う。活舌よく、鈴を転がしたような高い声は、まるでアニメを見ているようで歴史ファンタジーの世界観によく馴染んだ。未来からきた主人公の音楽を物珍しいと賞賛したり、異性の前で着替えをしてしまえる無邪気さは、いわゆる典型的Manic Pixie Dream GirlやBorn Sexy Yesterdayに相当するキャラクター像である。これらは主に映画に描かれる女性像に対する批判的な文脈で用いられることの多い言葉だが、少し前の少年漫画らしい作品なので、駒姫のヒロイン像として違和感なく魅力的だったと思う。少女としての可愛らしさと凛としたお姫さまとしてのバランスにとても艶があった。

駒姫で唯一惜しかったのは衣装が中村誠治郎さん演じる悪役・ウルジに負けていたことだろう。髪飾りは素晴らしかったのだが、ウルジのスワロフスキーを散らした(いちばんの歌舞伎者はお前だと言いたい)毒々しい華やかさを前にしてしまうと、着物の安っぽさが目立つ。衣装替えの多い役どころなのできちんとした和装は難しいと思うが、ウルジと対照的に伝統的な着こなしにすればいくらか印象が違ったのではないかと思う。古典柄の浴衣に帯揚げ・帯締め帯留めを着脱しやすいようにセットして、打掛でも羽織ればじゅうぶん「お姫さま」にみえたはずだ。ちなみに手元の日本史の便覧によれば安土桃山時代の女性の装いは小紋が中心だったそうである。

特殊な状況下におかれた主人公が「未来人」ゆえにその世界でもてはやされ、しかも歴史上の有名人の生まれ変わり(?)で、ほかでもない自分の得意分野でヒロインを救うという物語は、娯楽作品における類型的な題材だが、前述のように駒姫という史実のチョイスがよかったために大筋の陳腐を免れている。しかも、役者がいい。ウルジ役の中村誠治郎さん・弁慶役の星智也さん・又吉役の丸川敬之さんは紛れもない実力派で、ファンタジーの世界観に安心感を与えていた。

八島諒さん演じるタケルと弁慶のやりとりが可愛らしくてよかった。公演を追うごとに例の距離が縮まっていくので、千秋楽にはいったいどうなってしまうのかとヒヤヒヤしながら楽しめた。ヒーローヒロインより絡みがセクシーなのはどうかと思う。ごちそうさまでした。

義経だけではなく、タケルも道真も名前の由来になった歴史・神話上の人物の生まれ変わりなのだろうか? タケルはともかく道真が覚醒したら雷操る系ラスボスになるような気がする。また、安土桃山時代とは一転して、未来の世界のウルジこと漆間が貧乏くじを引いているオチはおかしみがあった。転生モノのおいしさを詰め込んだようなエピソードだった。

物語の大筋の着眼点は本当によかったし、コメディ・シリアス問わず、細かいシーンひとつひとつが面白かった。俳優陣の厚みにも助けられて全体的に飽きの来ない出来栄えだったと思うが、一方でシナリオが洗練されていたかと言うと疑問が残る。

たとえば、児童養護施設出身と一口に言ってもさまざまな経緯があるにも関わらず、作者が持っている「施設」にまつわるぼんやりとしたイメージが大前提にされているために、受け手は義経の具体的な背景を一切知らないまま終わってしまう。これでは共感のしようがないし、いきなり「恋愛に臆病なおれ」の話をされても唐突で困ってしまう。

保育士資格を取得する際は児童養護施設(あるいは障害児施設)で実習を受けることが義務付けられているので、観客にもそのあたりに詳しいものは相当数いたと思う。保育士ではないが、私も施設で一か月近く実習をした。その経験から「施設=親に捨てられた子どもが集まるところ」はフィクションをもとにした偏見的な言い回しに思えたし、実際にそこで暮らしていたはずの義経がそうした認識を持つことに違和感を覚える。児童養護施設は「さまざまな事情で親と暮らせない子どもが養育を受ける場所」であり、義経は乳幼児の頃に実親のもとを離れたがゆえに「自分は捨てられた」と認識している―――のであれば、彼の生い立ちもよくわかるのだが、そうした説明が一切ないために、義経まわりの心理描写は「雰囲気で察してくれ」と言わんばかりになってしまった。

ついでに意地悪を言えば、もしもThe Sky's The Limitの3人が名付けられないうちから実親の手を離れたのであれば行先はまず乳児院だし、名づけは施設長じゃなくて自治体の役割だし、究極のところ児童養護施設は国と自治体から措置費を受けて運営されているので資金繰り云々でつぶれることはありません。だってそうじゃなきゃ子どもが安心して暮らせないでしょ。

そのあたりはフィクションなのでいいとして。

現実に即した描写を、という話ではなく、世界観のためのエクスキュースが圧倒的に不足していたと思う。「施設とはこういうもので(偏見)こういうイメージのつきまとうものだから(主観)それでキャラクターの背景は説明されたものとする」と言わんばかりのシナリオでは観客を置いてけぼりにしてしまう。これは作品のキーフレーズである「たまらなく空は青い」にも言える。"The sky's the limit" が副題にも使われている以上、この台詞には「あなたに限界はない(あるいは「だから希望をもって」)」の意味が込められていると推測するのは難しくない。けれども、恋愛に臆病だと語った直後に「大丈夫。たまらなく空は青い」と慰めのように言われても唐突感が凄まじい。もう少し台詞と構成の兼ね合いを吟味してほしかったのが正直なところである。

義経たちはセーラームーンのほたるちゃんみたいに死後何らかのすげえパワーで赤ちゃんに生まれ変わって未来に送られて園長先生に拾われた存在だからそもそも親がいなかったみたいな設定を予想してるんだけどどうなんでしょうね。

あらすじが発表されたとき真っ先に萩尾望都『あぶない壇之浦』が思い浮かんだ。タイムスリップものは歴史ものよりもわかりやすく、ちょっとした教養的楽しみもあるところが魅力的だ。事前放送では次回作を見据えているような話もあったので、ブラッシュアップされた物語を期待したい。

 

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あぶない丘の家 (小学館文庫)

あぶない丘の家 (小学館文庫)

 

 

 

 

映画『お嬢さん』(2016年)_感想

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サラ・ウォーターズ『茨の城』を原作に、1939年・大日本帝国植民地時代の朝鮮半島を舞台にした、女性同士の性愛を描くガールズ・ムービーである。

舞台設定を含めて『お嬢さん』は重層的な支配からの解放を示唆している。日本人の令嬢である秀子は5歳で朝鮮半島に引き取られて以来、日本の官能小説を好事家の男たちの前で朗読させられる性的虐待を受けていた。(和綴じの官能小説には春画が挿絵として用いられている。劇中では稀覯本とされているため江戸時代発行の黄表紙と思われるが、内容は現代語のオリジナルストーリーのため実在するものではない)

秀子にそれを強いた叔父の上月は生まれも育ちも朝鮮だが日本人女性と結婚してからはあくまで日本人として振舞っている。また、秀子に結婚詐欺を持ち掛ける藤原男爵も、朝鮮半島における被差別地域から日本の爵位を手に入れてのし上がった詐欺師。男と女のあいだにある支配。日本と朝鮮半島のあいだにある支配。そして朝鮮人でありながら支配者である「日本」を装うことで支配者と一体化する男たち。彼らは秀子を利用し、支配する。

そんな彼女の愛はただ正直にお金持ちになりたいだけの少女・盗賊一味のスッキに向けられていた。藤原伯爵の口車に乗り、女中として秀子の元へやってきたスッキだったが、やがて彼女の周囲の男たちに怒りと嫉妬すら覚えていくのだった。

設定だけならば朝鮮人の貧しい娘と日本人の華族令嬢が手に手を取って支配者かぶれの男たちをこらしめるシスター・フッドの物語である。ただし、秀子を演じるのはキム・ミニ。日本人役でありながら韓国の女優である彼女は、メタ的に見れば植民地支配時代に「日本人」とされ日本語を強制された朝鮮半島の人々に重なる。

一方で、支配者である日帝に擦り寄る上月や藤原の姿は一見すると不思議な光景に見える。しかしアメリカとの諸問題を抱える私達の社会を思い浮かべればその心理は想像に難くない。ジレンマを解消したい一心で自らを傷つける対象に積極的に好意を寄せる「捻れ」の防衛機制。ストレス忌避に根ざした心の動きのため「その振る舞いはおかしい」とも断罪し難いのが厄介だ。(もちろんそのために加害をしているのだから無色透明ではあり得ない)

ところで、新鮮だったのが「春画」の扱いだった。同じく韓国映画『哭声(コクソン)』でも小道具としての春画は演出の中でおどろおどろしいイメージを掻き立てる。国内における春画のパブリックイメージは「明るい変態」のため(そうした手放しの賞賛には忌避感情を持っているが)そのギャップにショックがないわけではない。

「支配からの脱出」がテーマの本作だが、それ自体は重々しいものではない。支配にすり寄る側をあくまで滑稽に描写することで少女たちの瑞々しさが際立つ。加えてふたりのセックスシーンはとても楽しそう・かつ官能的で「男性器抜きでもセックスは成立するしちゃんとエロい」仕上がりにはいち女性として勇気付けられるものがあった。大笑いした好きな台詞はスッキの「天性の才ですね!?」

映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(2016年)_感想

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原題の直訳は「釜山行き」 娘を別居中の妻の元に連れていくため、日本の新幹線にあたる高速列車に乗ったファンドマネージャーのソグ。自らの利益や一人娘のためならば何を切り捨てても構わないと考える徹底的な合理主義者だった彼は、周囲が次々とゾンビと化すパンデミックの惨状の中、次第に柔和な父親としての顔を取り戻す。

極限の環境の最中、利己主義と利他的行為のはざまで揺れる人間ドラマとしての見応えは、ゾンビ映画の緊張と焦燥に何一つ陰りを落とさない。一方で、徴兵制を基盤に頼もしい武力を持つ自国が、状況次第では非武装の自分たちにも銃口を向けるだろうリアリズムにも容赦がない。前日譚にあたるアニメーション『ソウルステーション/パンデミック』にもその警告は込められている。たった30年前まで軍事政権下にあった韓国。それはシビリアン・コントロールに対する疑いや不安かもしれない。劇中でヨンソクが「感染しているかもしれない」ソグたちを自らの車両に入れることを拒んだように、社会防衛の大義名分さえあれば、ひとは容易に他者を排斥できるのだから。

スアンが父親に聞かせたくて練習したはずのアロハ・オエは彼女自身の生きている証として自らの命を救った。「一歩間違えていたら」国家を背後にした人間の手により、罪のない子どもと妊産婦が殺されていたのかもしれないと考えると背筋が凍る。生き延びた喜びと残酷なIFが同居する終わりは不思議と美しいと思った。

映画『チョコレートドーナツ』(2012年)_感想

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1909年に第1回「要保護児童に関するホワイトハウス会議」を開催したアメリカは「緊急やむを得ない限り児童を家庭生活から引き離してはならない」方針を定めた。これは「子どもの権利」がまだ社会的に認知されておらず、大人と同様に働かせてしまえるような社会において為された、子どもの権利擁護においてはじめての法的効力を伴う宣言だった。以降、アメリカは「児童を家庭から引き離さずに養育する」ことを子どもの権利と認め、社会的養護においても家庭的な場の提供に努めることになる。それが里親による子どもの養育である。

社会的養護とは
社会的養護とは、保護者のない児童や、保護者に監護させることが適当でない児童を、公的責任で社会的に養育し、保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援を行うことです。
社会的養護は、「子どもの最善の利益のために」と「社会全体で子どもを育む」を理念として行われています。

社会的養護 |厚生労働省

一方、日本では2011年「里親委託ガイドライン」を施行するなどの取り組みを行っているものの、4万人から5万人近くいる社会的養護を必要とする子どもたちのうち大半は大舎型の施設で暮らしている。もちろん専門職によるケアを受けられるなど施設養護のメリットもさまざまだが、それを考慮してもなおパーマネンシー(子どもの育つ環境の安定性と永住性)には欠ける事実がある。肉親という社会的に想定された保護者の手を離れた子どもたちの、養護施設を卒業したあとの人生に後ろ盾は少ない。自らの幸福のために子ども自信ができることは少なく、彼らが社会的弱者であることは言うまでもない。

映画『チョコレートドーナツ』はそんな子どもの養育環境を巡る大人たちの奮闘、あるいは攻防であり、「理不尽な偏見が彼らを引き離した」物語だが、悲劇的な結末についてはゲイへの偏見ばかりが原因とも言い難い。マルコの結末は「子どもの最善の利益」を理解していない判事たちが引き起こした重大事故のようにもみえるからだ。たとえゲイへの偏見があったとしてもマルコの意思を尊重する判断はできたはずし、養育に適さない実母のもとへ帰すことなどなかったはずだ。現に、マルコの担任教師や、聞き取り調査を担当したソーシャルワーカーにとって、最善策は自明の理だった。それは実母のもとに帰すことでも、心ない里親のあいだをたらいまわしにすることでも、彼に向き合わない施設の生活でもない。継続的かつ個人的な関係を得ることのできる、ルディたちの家庭に他ならない。おそらく判事たちは、知的な発達の遅れのあるマルコの意思を想定していなかった。はじめから「判断能力を欠く」と決めつけて、自分たちの価値観をもって彼を振り回したのだろうと思う。

偏見は絵空事から生まれるのではなく、その人の経験、あるいはそこから生まれる推測によってもたらされる。現代からすれば「ゲイカップルは子どもの養育に悪影響」などあまりに古典的でまじめに取り合うのもくだらないかもしれない。しかし、偏見というのは当人たちにとってはどこまでも「事実」に過ぎない。それを語るべき正当性や切実な想いが自分たちにはあるとたしかに信じている。判事たちは「子どもの権利」のためと信じて「監護権における正当な手続きを踏まなかった」「聞き分けのない」ルディたちをいかにマルコから引き離すか必死だったのだろう。当事者がどうしたいのか、どのような想いで暮らしているのか、そうした視点もなく、ただ教条的な「正論」を振りかざして、実態とかけ離れた言葉を振りかざす。あらゆる差別や偏見の共通項だ。

目を曇らせた相手にはどんな誠実な語りかけすらも通じない。そうして抗う言葉すら奪われたマイノリティはきっと歌うことしかできない。プリミティブに情動に訴えかけるものだけが相手に伝わることもある。自分たちの真実をみろ、と。ただあたり前の日々を生きている同じ人間なのだ、と。

 

参考文献

子ども家庭福祉[第2版] (新・基礎からの社会福祉)

児童や家庭に対する支援と児童・家庭福祉制度 (社会福祉士シリーズ)

 

舞台『サンドイッチの作り方』(2018年)_感想

記事の表題がいつも無味乾燥な「タイトル_感想」なのでそろそろキャッチーなサブタイトルをつけたほうが親切なんじゃないかと考えたりもするのですが、そのあたりに割けるセンスがない以上に、少なからず、なんでもかんでも読解の助けになるような副題をつけてしまう傾向に違和感を覚えるので悩ましい。(海外映画の邦題がすこぶる長い、みたいな)

ときに世の中では「わかりやすさ」がもてはやされて、ものごとの複雑な、あるいは絡み合ってほどけない美しさとか醜さとか、そうした重層的な事物がないがしろにされる傾向も多々あるけれど、「料理に込められたメッセージ」なんて、作り手と受け手の双方に感受性の奥行がなければとてもじゃないけど成立しないものなんじゃないかしら。《メッセージを届ける側も頑張らないといけないけど想いを受け取る側も努力が必要なんです》それはきっと、料理も、歌も、舞台も、日頃の些細な会話でさえ共通するものだろうと思います。

物語も演出もすごく好きだったけど、土日の4公演を通して何一つ飽きなかったのは、主演の西園みすずさんが小松恵美として一瞬一瞬ナマの喜怒哀楽をみせてくれたからだと思います。毎公演同じ場面でも「持ってくる感情」に違いがあるように見えました。「ああ今日はここで圭ちゃんにときめいたな」とか、「これは思わず泣いちゃったんだな」とか、「おお今日はがんばってこらえたな」とか、感情の波打ちが4公演すべてに別個のそれを感じました。うまく言えないけれど「同じ物語を繰り返し演じてる」というよりは「繰り返し同じ状況に立ち会った恵美の、そのときどきの感情」に立ち会った気分。恋人役の八島諒さんもとても似ている演じ方だったように思いました。圭介が食べているパスタを吹いたり、食べるはずのシチューが足りなくてカツカツカツカツ一生懸命搔き集めてたり(笑) そのたびに恵美の「あ~もう圭ちゃんなにやってるの~~~(好き)」みたいな気持ちが滲みでてる愛しげな苦笑い。よく彼の肩をパンパン叩いてたのがとてもお芝居には見えなくて。どのカップルもすてきだったけど、お互いに対する感情の高めあい方に、つくりものじゃない気持ちが滲みでる主演カップルが私は大好きでした。

公演が発表になったとき「現代日本の男女恋愛ものかあ。修羅場? うーんどんなもんだろう……」程度の反応だったんですけれど、まさかこんなに大好きな作品になるとは思いもよりませんでした。恋愛ものって下手すると〈記号〉の連続。「OL」がいて、「かっこいい先輩」がいて、「浮気」があって、「片思い」があって、「壁ドン」で女の子は恋に落ちて、「浮気は男の甲斐性」で、「女の嫉妬はおそろしい」みたいな。世間に流通してるイメージやカテゴライズを組み合わせて「ほらドキドキしたでしょう?」みたいな。そんな記号遊びも楽しいことには楽しいけど、言ってしまえば固定観念とか偏見とかを捏ね繰り回してるだけだと思うし、決して生きた人間の感情を描くものではないと思うんです。

『サンドイッチの作り方』も「売れないミュージシャンと支える恋人」「片思い」「修羅場」「幼馴染」「束縛彼氏とできる女」と、並べたら随分キャッチーな記号を並べ立ててるように見えるけど、そこには単純なカテゴライズに収まりきらないそれぞれの人生や価値観があって、何よりお互いを想う誠実さと優しさがありました。公演前、キャストの皆さんが「登場人物みんないい人ばかり」と言ってた理由がよくわかった!! だれも吾朗さんの浮気未遂を庇わないし、吾朗さんもちゃんと「我に返って」反省してる。そこに変な見栄はないの。気のない女の子に好かれた佐々木くんも、言ってしまえば一方的に好かれただけなのに、想いを向けてくれたことにきちんと心を寄せてる。そりゃ自分も咲江さんに片想いをしてるからっていうのもあるかもしれないけど、「困ったなあ」で終わらせない。えらい。すごい。みんな誠実なひとばかり。

ワンシチュエーションの会話劇かと思いきやダンスミュージカル風のポップな演出がとても軽やかですてきでした。音楽の使い方もとても好き。それぞれのカップルが背中合わせにスポットライトを浴びるあのシーンもすごく好き。「料理にこめられたメッセージ」を解読するのは難しい、と思ってしまうかもしれないけど、日常の会話だってみんないつも何かしらを期待しながら言葉を交わしてるんですよね。伝える気のない人が「察してよ」と言ったり、逆に想いを受け取る気のない人が「言わなきゃわかんないよ」と言ったり、そういうはなからシャットダウンする気満々のいじわるにうんざりすることも多いけど、自分も含めて、もう少しだけ、優しい世界を信じてがんばろう、と思います。

アンドロメダ瞬が女の子になったこととかついでに考えたこととか

聖闘士星矢が NetflixでフルCGアニメーションとして復活すると発表され、連載当時のそれとは異なる原作に忠実なアニメになるのでは?と期待を寄せるファンも多かったようだが、これまで公開された情報によればキャラクターの名前等変更箇所もそれなりにあるらしい。

なかでも話題になったのは主要登場人物であるアンドロメダ座の聖闘士・瞬の性別が男性から女性に変わるというものだった。この件も含めてメインシナリオライターであるEugene Son氏は原作からの改変の理由を丁寧に説明している。詳細は該当ツイートのツリーや有志による翻訳を参照。(2018年12月11日現在、Eugene Son氏の一連のツイートは削除されている)

現に2014年に公開された劇場版『聖闘士星矢 Legend of Sanctuary』でも敵対する黄金聖闘士の一人は女性に変更されている。もっとも、本作のキャラクターメイキングは、原作や連載時のアニメから特徴の一部を借りたオリジナルの要素が強いため、今回の性別変更とはいささか毛色が異なる。蠍座のミロ姉さんかっこいいのでぜひ見てください。あと双子座ジェミニ山寺宏一

なるほど性格や扱いや展開さえ変わらなければ身体的性別が変わったところで問題はないだろう。女性になったからといって扱いが変わるようであれば氏も上記のような説明はしないはずだ。女性キャラクターがジェンダーバイアスの中に閉じ込められ、多様性に満ちたひとりの人間として描かれない事実は依然として存在する。「男の子を女の子」にすることで時代柄描けなかった女性キャラクター表象を獲得することは手段として有効だとさえ思う。

一方で、ファンとして不思議に思う。「なんで選ばれたのが瞬なの?」

聖闘士星矢』における瞬のキャラクターメイク

原作における作画は性別にこだわらず平均して顔がかわいいのだが、アンドロメダ瞬はまぎれもない「かわいい」男の子として描写されている。同じくかわいい顔をしているようにみえる魚座アフロディーテは「まるで少女のような顔」と彼の容貌を評していた。

さらに、守護星座であるアンドロメダ座の逸話を背負う瞬は、戦いそのものを好まない優しい性格として描かれている。戦いにおいては兄の一輝が助けに入ることもしばしばあった。そんな彼は、命のやりとりを当然と捉えている登場人物の中でも異色の存在だったかもしれない。

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師の仇である魚座アフロディーテとたったひとりで対決する覚悟を決めた瞬。アフロディーテの美しさに思わず「あれが男かよ」と口走った星矢に対する返答がこれ(文庫版7巻)

今の時代であれば「男とか女とか決めつけんじゃねえ」「自分は自分でしょ」という結論になるだろうが、男女二元論的な「男らしさの美学」を信奉している作風のためジェンダーバイアスからの脱却には至らない。それでも瞬はどこかマチズモに浸りきれない立ち位置を確立していたのだった。

こうして美学として演出された過剰なまでのジェンダーロールから一歩引いたキャラクターとして描かれていた瞬を「女性キャラクター」としてリメイクしたのが今回のNetflix版だった。これに対しては異論が噴出した。

ファン :オリジナルシリーズのなかで瞬はしばしば『囚われの姫君』として一輝に護られてきました。『彼』が『彼女』になるにあたって、少なくない女子はジェンダーステレオタイプが強化されることを恐れています。

ライター:仰るとおり、我々はシェーン(Netflix版瞬の名前)を『囚われの姫君』にするつもりはありません。ご意見感謝します。

いちファンとして「青銅聖闘士の一人を女性キャラとしてメイキングする」発想自体は面白いと思う。自分自身がリアルタイム世代ではないため、好きになったときには既に『聖闘士星矢』には様々な派生作品が存在した。連載当時のTVシリーズでさえ原作に比較するとキャラクターの性格・振る舞い・選択にあきらかな差異が認められる。一人の作者の描いた物語作品の枠組みを超えて、神話のように語り継がれる懐が『聖闘士星矢』にはあると信じている。これまでのメディア展開から原作者も自身の作風を越えた挑戦に対して意欲的にみえるし、ビッグコンテンツにはビッグコンテンツなりのマーケティングの必要があるとも思う。

Eugene Son氏の語った動機それ自体に思うことはない。しかし、決定の経緯とその結果に座りの悪さを感じてしまう。彼が「青銅聖闘士の一人を女性キャラとしてメイキングする」と決めたとき、はたして他のキャラクターの顔を一人でも思い浮かべたのだろうか? 「少女のような顔をした」「心優しい」瞬だからこそ彼に白羽の矢を立てたとしたら? あるいは「男の目から見てそのまま女にスライドできそうなのが瞬だった」……結局そんなジェンダーバイアスの結果なのではないか? それは本人のツイートからは読み取ることはできない。

蓋を開けてみなければわからないが、これまでの娯楽作品における女性表象に批判的であればこそ、シェーンはアンドロメダ瞬と同じく「ジェンダーに縛られない一人の人間」として描かれなければならないだろう。ところがEugene Son氏は一連の説明のなかで「瞬を女性にすることで面白くなる展開がある」と述べている。(おそらく冥界編のあれのことだろう) それは要するに女性を人間として描くことではなく、フェティッシュなヒロインの量産に繋がるのではないか。性別の変更が成功するとしたらそれは視聴者が「なんだ、女になったところで何もかわらないじゃん」と拍子抜けしたときだろう。もともと色眼鏡だらけの世界、いくらクリエイターが頑張ったところできっとむずかしいだろうけれど。

とはいえ『聖闘士星矢』を原作のまんま再生産するのは厳しい気がする。たとえば「仮面の掟」

キャラクターの性別変更はさておき、ジェンダーバイアスにまつわる『聖闘士星矢』のテコ入れはそれ自体相当難しいのではないか。古めかしいセクシズムは世界観の根幹や台詞にしばしば垣間見えるので、特定の設定はパージして再構成しなければ、とてもじゃないが現代的な倫理観に対応できないとすら思う。物事が問題提起されていなかった時代の原作それ自体ではなく、現在に生きる人間が手掛ける「新しい作品」として世の中に発表するのであれば、表象における「価値観の再生産」の責任から逃れられるものではないだろう。大勢の人間が製作に関わるコンテンツならなおさらだ。

たとえば、自分が聖闘士星矢にハマったのは高校生のときだったが、批評性のかけらもなく濫読していた頃でさえ「仮面の掟」には気持ち悪さを感じてしまった。社会的な視点がまるでなかった子どものときだって少年漫画のセクシズムくらいうすぼんやりと理解できる。それでも好きになったものは仕方がないから、物語の価値観を内面化したり、あるいは目を瞑ったり、めちゃくちゃ深読みして自分にとって納得いく解釈を編み出したり、好きになったものを好きでいるための努力は考え方の変化の大きい二十歳前後の歳月において少なからず必要だった。今はもういい大人なので「無理なとこは無理だけど好き」と批評性をもって愛している。

とはいえ後年あたらしい派生作品が次々と生まれるなか、そのあたりをフラットに魅せる努力は絶え間なく続けられてたように思う。

聖闘士星矢Ω 3 [DVD]

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2012年に放映された『聖闘士星矢Ω』は展開上「仮面の掟」に向き合わざるを得なかったが、やはり手を焼いていた印象がある。主要登場人物である青銅聖闘士の一人に女の子を加えるにあたり、「聖闘士になるために女は仮面を被って女を捨てなければならない」という「女は顔が命だろう?」と言わんばかりの設定は障壁だった。結果、鷲座の聖闘士であるユナは「自分は自分」と仮面を外すことを選んだのだが、それはあくまで彼女個人の選択であり「仮面の掟」そのものへの批判には至らなかった。『聖闘士星矢Ω』シーズン1は馬越作画でほんとうにすてきなのでぜひ見てください。

すでに紹介した『聖闘士星矢 Legend of Sanctuary』では「仮面の掟」に触れることはなかった。原作における女性聖闘士の仮面は異なる演出に活用され、そもそも性別に関わりなく聖闘士の装着する鎧(聖衣)はすべてマスクのあるデザインに変更されていた。本作がオリジナリティの高い構成だったため可能だったことかもしれない。

そして2013年『セインティア翔』において「仮面の掟」はそのままに「女性のまま戦う女性戦士」の概念があらたに誕生した。これは原作者である車田正美がかねてよりあたためていた構想らしい。「聖処女であるアテナの身辺を守る少女・聖闘少女(セインティア)」たちがじつは『聖闘士星矢』の裏舞台で活躍していたのだ―――という物語は、かつてのホモソーシャル一辺倒な『聖闘士星矢』像を一転させるに相応しいものだった。

ほかにも漫画『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』では鶴座のユズリハという少女が「わずらわしい」という理由でほとんど仮面を外して過ごしている。このように派生作品ではすでにゆるやかに回避されている設定だが、Netflix版のシェーンについて「仮面はどうなるの?」と問い正すファンが絶えないほど『聖闘士星矢』にとって印象深い要素であることは事実だ。自分の顔をはじめてみたペガサス星矢に恋をする蛇遣い座のシャイナが魅力的だったこともそうした愛着の理由のひとつだろう。余談だが、「男らしさの美学」が根底にある車田作品の女性キャラはときに男性の手に負えない凶悪さを兼ね備えている。これは原作者のフェティシズムの賜物だと考えたりもする。

 

こうしてあらゆるアイデアを用いて現代的にアレンジされ、また原作の魅力や魂を抽出することに心血を注がれてきた『聖闘士星矢』派生シリーズだからこそ、今回のNetflix版に期待する気持ちはある。蓋を開けてみて「なんだ、いろんな心配は杞憂だったなあ」と言いたい。自分は山内重保監督の手掛けた劇場版が好きで、過去には『聖闘士星矢Ω』のために毎週早朝を楽しみにしていて、改変にも慣れ切ったファンだから、原作に忠実な『聖闘士星矢』を望んでいる仲間と分かち合えるものは少ないかもしれない。でもどうせなら、どんな作風であれ、どこかのだれかが新しい『聖闘士星矢』を好きになれる、そんな作品になってほしいよね、という気持ちは同じだろうと思う。

 ジェンダーの話が多かったので入門になりそうな文献や記事を載せとくね
ジェンダー (図解雑学)

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