蜂蜜博物誌

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舞台『まっ透明なAsoべんきょ~』(2018年)_感想

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※物語核心のネタバレを含みます。

〈まっ透明な世界〉からやってきた「透明人間」たちは目に見える人間のふりをして人間世界へ「社会勉強」に訪れる。ある夫婦が営む喫茶店へ「社会勉強」にやってきたのはキノコという女の子だった。一か月、この喫茶店で働くことになったキノコは、元・小学校教師である梨子や彼女の夫であるコージから、遊びや勉強・料理や掃除など、さまざまなことを教わりながら成長していく。とりわけ梨子は〈Asoべんきょ~〉という遊びの要素を取り入れたアイデアでキノコの勉強を支えていた。

茶店の馴染みの顔ぶれや、キノコのサポートにやってきた〈まっ透明な世界〉の住人たち。彼らの賑やかな生活の中心にはいつも梨子の〈Asoべんきょ~〉があった。

ところが、無事に一か月が過ぎようとしていたある日、喫茶店の常連たちはキノコたちが「透明人間」であることを突き止めてしまう……。

 

『キノコの物語』から『梨子の物語』へ

 「キノコの一か月の社会勉強」からはじまった物語は終盤に「梨子の最期の一か月」であることが判明する。ひとりの子どもが大人たちから学び育っていく傍ら、教える側であった大人も、たったひとつのかけがえのない人生の主役であったことに気づかされる。序盤と終盤、物語の意味の鮮やかな反転だ。

梨子はキノコの母親であったが、決して「母であり娘だから」という血縁由来のイデオロギーに陥らない脚本は心地よい。梨子はキノコが自分の娘であることを知らなかった。そこにあったのは、愛され、守られ、尊重され、健やかに育つことが保障される、子どもという存在に対する彼女の博愛だったのかもしれない。梨子は「親のいない子ども」であるキノコを里親のように愛した。キノコにとっても梨子やコージは「両親」ではあったけれども「お母さん・お父さん」と呼び掛けることはしなかった。ふたりは両親である以前に、大切な他者でもある。「家族だから」という物語に付随しがちなパターナリズム、あるいは自己犠牲を離れ、「親子であると同時に違う人生を歩む大切な他者である」心地よい自立は、家族愛がテーマの作品にはなかなか見られない瑞々しさだった。

なかでも梨子(釈由美子)の溌溂さ・透明感がこの舞台のガラス玉のような印象を支えている。舞台のために身体づくりをしていたらしい釈の「健康的な儚さ」には眼を見張る。明るく、活発で、爽やかで、長身で、仕事もプライベートでも頼りになりそうな印象にもかかわらず、白い袖から伸びる腕はびっくりするほど細い。はた目にはわからない疾患を抱えていると言われたら、思わず納得してしまいそうな儚さがある。(梨子が大人の女性らしいサロペットなのに対し、キノコがジーンズのカジュアルなオーバーオールである衣装の対比が、ふたりの親子関係を仄めかしているようで切ない)

梨子は舞台に出ずっぱりというわけではない。風邪を引いて寝込んでいる、というシーンが重なるに従い、観客も予感を抱くようになる。「キノコの社会勉強」というふれこみではじまった物語はやがて「梨子の人生の総括」として現れる。それまで本人や周囲の人間たちが明かしていなかった―――観客の目には透明だった―――梨子の物語は、ピータンたちが自らの正体を語ると同時に可視化されたのだった。それはひとつの人生を駆け抜けた女性の締めくくりであり、これを見つめた周囲の人々の、新しい生活の幕あけでもある。

 

〈まっ透明な世界〉の住人はどんな人たち?

観劇も回数を重ねると細かいとこが気になってくる。〈まっ透明な世界〉の住人たちは、一体いつ頃宿った命で、どんな社会を営んでいるのだろう?

キノコよりずっと先に「社会勉強」を経験したピータン・おいなりさん・サーモン。彼らが親のもとで学んだ「遊び」はそこそこレトロだ。釣り・将棋・お手玉……そもそも梨子がたまたま若くして亡くなる運命だったからこそわずか9歳のキノコが「社会勉強」に訪れたのだったが、それはほんの一握りのケースだろう。親が亡くなる頃には〈まっ透明な世界〉の住人たちもほとんどがシニアといって差し支えない年齢になっているはずだ。

だから、〈まっ透明な世界〉の住人たちは個体差こそあれ、ある程度で成長が止まるのかもしれない。おいなりさんやサーモンもあれでけっこうシルバー世代なのかもしれないし、ヴィシソワーズは成長が止まるのが遅かっただけで、もしかしたらおいなりさんやサーモンより年下だったりするのかもしれない。遥川の店で仕事に励むピータンに代わってキノコを支える彼らは〈まっ透明な世界〉でも「大人」ポジション、いやOJTのエルダーみたいなもので、そう考えると無邪気で子どもっぽく見える彼らがふいに「お兄さんお姉さん」の顔になるのも納得がいくのではないか。

 

世界観のファンタジーとリアリティ

コージや〈まっ透明な世界〉の住人が、梨子の意志を継いでNPO法人のような活動を始めたエンディングにとてもわくわくした。自分が福祉分野の人間だからなおさら学習支援のボランティアと重ねて「こんな団体があったらいいなあ」と思ってしまう。

実際、家庭や経済的な事情を抱える子どもたちへの学習支援は、主にNPO法人が主体となって(ときに自治体の委託事業というかたちで)行われている。学生時代の知り合いは不登校の子ども向けの私塾を開いてまさに〈Asoべんきょ~〉のような活動をしている。彼は「遊んでいるうちに不思議と成績が伸びる」のだと言っていて、そのときは「胡散臭い」と思ったりしたものだが、今から思えばもっとまじめに話を聞いておけばよかったかもしれない。

残念ながら日本はさまざまな要因から経済環境が学習環境へ直結してしまう社会だ。しかも、そのための格差是正は、国ではなく、市民による福祉的な活動によって支えられている。一方で、個人個人のそうした活動を政治家が視察することで、政策に反映され、現在当たり前になっている環境が生まれていく……というのが今日までの歴史の流れでもある。福祉を学ぶと歴史が国政のトップダウンからは生まれないことがよくわかる。

梨子にとって自分の人生は「道半ば」だったのかもしれない。病気のために教師としての役割をまっとうすることができず、労働者ではなくボランティアとしての学習支援の夢を抱いたが、「間に合わないかもしれない」予感と共にその一生を終えた。それでも梨子のかけがえのない人生から生まれた想いがキノコに影響を与えて未来へと繋がった。

「歴史」や「未来」という言葉は大仰かもしれない。けれども、そうした個人の想いのために、良い方向へ変わってきた歴史を、〈面白くなった世界〉を、現に私たちは生きている。まだまだ面白くない部分もあるけれど、キノコたちのように、好奇心を持って楽しく勉強していけば、世界はもっと面白くなるのだろう。

 

まっ透明な水子供養リプロダクティブライツ/ヘルスを救うのか

「さまざまな事情で生まれてくることができなかった子どもたち」がどこか別世界で生きていると考える世界観。それは水子供養の考えをファンタジーとして再構築したものだろうが、私がこの舞台をただカタルシスを享受するものとして楽しめない理由は、「中絶を経験したあの子やこの子が観たらとても辛く感じるのではないか」という一点だ。

劇中ではぼかされていたが梨子は流産だった。けれども、もしかしたら、手術と中絶を天秤にかけなければいけない事態が訪れたかもしれない。(ちなみに健康な母体でも流産の確率は10%から15%。子どもを授かり無事に生むことはそれ自体が奇跡だ)

現実の女性である私たちは、中絶を余儀なくされたとき、その責任を背負うのは(社会から背負わされるのは)母体である自分たちであることを知っている。「この脚本は中絶する女性を責めるものになっていないか?」初回観劇時はそれが気がかりで感情を乗せることはできなかった。

妊娠・出産・中絶において、当事者であるはずの男性はなぜか透明になる。女ひとりで妊娠はできないのに。学生時代、恋人がまるでコミュニケーションのように求めてくるセックスだって、どんな避妊も確実でないことを知っている私にとってはいつも不安と隣り合わせだった。この社会が若年出産や一人親にとって厳しいものだと知っているから。母体になり得る身体を持って生まれたために陥るリスクを、女は日々目にする様々なニュースから学び、適応し、無意識の緊張を余儀なくされる日々を送ってきたから。

それでも中絶を選択せざるを得ない状況は訪れる。女として生まれて中絶の経験がないのは、運がよかっただけだと思う。男性がセックスへの無邪気な興味を語る一方、妊娠という出来事に対して透明でいる限り、望まない妊娠は起こり続けるのだろうと思う。ようするに、観客の女性に、中絶を経験した人はいるだろうし、それに関わる医療従事者もいただろうという当たり前の想像力が、作り手の人々にはあったのだろうかと考えてしまうのだ。

結論から言えば脚本にはなんら瑕疵はない。ただ水子供養も提唱するような世界観をファンタジーに焼き直しているだけだ。それでも観客が「優しい世界だった」「あたたかい物語だった」「泣けた」とカタルシスを表す感想を述べる、それと同じ立ち位置に作り手がいるのだとしたら大きな間違いだと考えたりもする。ファンタジーな世界に焼き直されてはいるが、センシティブな問題を扱っていることには変わりがない。水子供養は求められて与えられる世界観だが観劇は蓋を開けてみないとわからない。プリミティブな感情に訴える手法の物語だけに観る者の経験を呼び起こさずにはいられない。私は中絶を経験した友人たちに、この舞台を積極的に勧めたいとは思わない。救いになるのか、傷を広げてしまうのか、それは当人にしかわからないから。

 

ここがもったいなかったなあという点

物語構成や舞台美術・あらゆる演出がとにかく凝っており、驚くほど完成度の高い舞台だったのだが、それだけに「感性が古い」セリフが浮いてしまう。具体的に言うと「これ、おじさんが面白いつもりで書いたんだろうなあ……」と思わずあきれてしまうようなやりとりだ。

そのひとつがまつながひろこさん演じるアスカぽんへの「ババア」呼ばわりだった。言うまでもないが、女性の年齢・容姿・体型をこき下ろす「笑い」は、たとえ容姿をウリにしていない女芸人に対してであっても現在は顰蹙の的になっている。女性相手でなくても「だれかをバカにする笑い」はいわゆる「昭和的な遺物」として価値観をアップデートした視聴者からあきれられている。少なくとも可視範囲では。

初日のみだったが、勇真っちょさえ彼女を「ババア」と呼ぶシーンがあった。同い年の彼氏にそんな暴言吐かれたら私だったら即別れるわ。そしておいなりさんの「ババア」発言。これは完全に個人的な解釈だが〈常識〉を知らない〈まっ透明な住人〉とはいえ、服装がファンキーだったり言葉遣いがおかしかったりあほの子だったり、いわゆる「文化が違う」だけで、他人をバカにするほど空気が読めないわけではない。だからこそ毒の強いセリフに驚いた。しかも彼はアスカぽんと普通に友達として仲良くしてたにも関わらず、その言い草はないだろう。私が友達だったら翌日から口きかない。

「なんでアスカぽんだけ年増扱いなのかしら?」とモヤモヤしていのだが、どうやら演じているまつながひろこさんは88年生まれだそうだ。とはいえ劇の世界だから大人が子どもを演じることなどざらにある。しかしながら勇真&アスカが中学生に見えないことは事実なので、あそこのセリフは「あたしがそんな老けてみえるっていうのかよ」ではなく「あたしらがそんなに老けてみえるっていうのかよ」にしてほしかったのが正直なところだ。そもそも彼らが「中学生に見えない」のは変形学生服を着ているからであって、演者の容姿は関係がない。笑いを取るのなら他にいくらでもやりようあったはずだとも思う。

おいなりさんが梨子とコージのあいだに子どもがいないことに言及する場面にもざらざらとした違和感があった。まっ透明な住人たちは彼らの家庭の事情を知ってキノコを連れてきたはずだ。百歩譲ってキノコに関係することしか知らなかったとしても、かなりセンシティブな話題だ。他人の家族計画ほどプライベートなものはないし、聞く人がいるとすれば無遠慮な親戚くらいのものだろう。単なる「空気が読めない」発言にしては生々しさが残る。観客にとってはこのセリフをきっかけにして梨子たちの状況がわかる構成になっているからこそ、個人としては伏線の道具以上に受け止められず、やりとりは不可解な「余剰」となってしまった。

その後の勇真っちょ&アスカぽんカップルに子どもを「期待」する発言も驚くほど生々しい。相手が中学生なのは演劇のため百歩譲っても、自分がそれを言われたらどんな気持ちだろう?むしろ、カップルが周囲に言われるとしたら、かなりえげつない部類の性的いやがらせだ。

最大限好意的に考えると、これは母親に「わたし妹がほしー!」と言っちゃえる子どものようなおいなりさん「らしい」台詞として受け止めることもできるかもしれない。しかし、結論から言えば、このやりとりはナレーションの真実に繋がる伏線だったのだ。梨子・コージ夫婦に子どもがいないとわかった途端、いきなり関係のない勇真っちょたちに矛先が向いていた不自然が、ラストになってようやく判明する。せめて勇真っちょが「父ちゃん」の孫(梨子の甥)であれば、ひ孫を期待する父ちゃんの発言として(気持ち悪いまでも)「爺さんそういうとこあるよな」でまだ納得がいくのだが……まるで親戚から受けるセクハラのような会話だった。

とはいえ、どんな作品であれコメディは難しい。上記以外はとてもバランスのとれた「笑い」で好ましかった。物語の雰囲気から、ドッと湧くような笑いを狙った強い言葉よりも、言葉の妙やシチュエーションや演出の合わせ技でジワジワ責めるものが個人的には好きだった。「愛おしさ」すら感じる笑いを演出できるのは生身の人間による表現の特権だろう。繰り返したいほどお気に入りのフレーズやまぶたの裏に浮かぶような面白いやりとりがたくさんある。生き生きしたキャラクターは誰一人として見劣りすることはない。それだけに物語に水を差すような欠点に口惜しさを感じてしまう。訴えかけるような感動や緻密な構成で観客を圧倒するだけのパワー、それらが既に備わっているからこそ、あと一歩の「バリとり」だけで見違えると確信が持てるのだから。