蜂蜜博物誌

映画や舞台や読んだ本。たまに思ったこと

オフブロードウェイミュージカル『bare』(2016年)_感想

この記事は2016年7月にprivetterに掲載した感想に多少の修正を加えたものです。当時ありがたいことにTwitterのフォロワーさんをはじめ舞台のファン、「舞台は観ていないけど記事に共感した」という方から様々な反響をいただきました。今から思えば拙い点も多々あるのですができる限り当時のまま掲載しています。生まれてはじめて書いた観劇レポとして思い入れの深い文章です。(2018年11月)

-----------------------------------------

ameblo.jp

bareすごく面白かった!すばらしかった!ほとんど予備知識なく観劇したあとに公式ブログやパンフレットを読みました。2000年にアメリカで上演された『bare』が現地の学校でも上演されていることを知って、LGBTQの自殺率がきちんと問題化されているアメリカだからこそ、生々しいほどに真摯に当事者を描いた作品が生まれたのかなあと思いました。

ところでわたしはバイセクシャルです。

ここで「なんでいきなりカミングアウトしてんの?なにアピールなの???」と思ったひとはぜひ最後まで読んでくださいね。

さて、せっかくカミングアウトしたのはいいんですが、バイは「半分ヘテロじゃん」とあまり当事者扱いしてもらえません。しかも「バイならいいじゃん」みたいに思ったひとぜったいいるでしょ。読んでるひとのなかに。いやバイで「いい」んですけど!そういう問題じゃなくて!

でも、たしかに、「社会的に想定されている」異性愛も選択できる以上、世の中から爪弾きにされている感覚は、ゲイやレズビアンよりもやわらかなもので済んでいると思います。

それでも現実問題、バイセクシャルとして同性を好きになったとしても、なにもわからない他人からみれば、そんなことは関係ない「レズビアン」です。わたし自身、バイセクシャルというよりは「自分はレズビアンでありヘテロセクシャルである」という自認で生きています。加えて「どちらの性別の相手を好きになっても毎度なにかを騙している気分に苛まれる」おそらくわたし固有の不快感もあります。バイセク自認になるまでけっこう右往左往したし……それはいいとして……

『bare』のおおきなトピックはセクシャルマイノリティです。

けれども、根っこにあるのは、青少年のアイデンティティにまつわる葛藤や、それらと接する大人たちの人間模様です。ゲイであるジェイソンとピーターのみならず、すべての登場人物がそれぞれに生きているがための障壁を感じています。

それでも、セクシャルマイノリティだからこそ問題になる「固有の悩みの文脈」は、作品のなかでていねいすぎるほど描かれていました。それがほんとうにすごい。生々しい。勘弁してくれ。

こういう感想って、なんらかの近しいものがバックボーンにないと抱けないと思うので、せっかくだから、それについて解説を加えながら、個人的な読解を記していこうと思います。

初日、一回ポッキリの鑑賞でした。記憶違いがあったらご容赦ください。

-----------------------------------------

目次
1.ジェイソンが恐れた「アウティング
2. 苦痛を否認する大人たち
3.「クローズド」ジェイソンと「オープン」を目指すピーター
4.ぜんぶ世の中が悪い
5.「赦す」こと
6.BLとしての『bare』
7.登場人物それぞれと、俳優さんについて
8.『bare』には関係のない補足

-----------------------------------------

1.ジェイソンが恐れた「アウティング

カミングアウトと結果は似通っているようでいて、まるで意味が異なるものに「アウティング」があります。アウティングとは「ゲイやレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーLGBT)などに対して、本人の了解を得ずに、公にしていない性的指向性自認を暴露する行動のこと。(wikipedia)」です。

たとえば、レズビアンであることを打ち明けられた友人が、ほかの友人に「◯◯ちゃんレズなんだって~」と伝えてしまうこと。あるいは、性同一性障害のため社会的に男性として生活していたひとが、戸籍変更の手続きをしていないため、職場の書類で「女性」だと記載されている――――のを、公の目に触れるような場所に置かれてしまうこと、等です。

本編中でマットが周囲にピーターとジェイソンの関係を暴露したのは立派な「アウティング」です。ピーターがマットにジェイソンとの関係を打ち明けてしまったのも、ジェイソンの同意を得ないうちに行われた「アウティング」ということになります。本人の意思決定によるカミングアウトが当事者の尊厳の結果なら、アウティングは(たとえ本人がいずれカミングアウトをするつもりでいたにしろ)当事者に不信や絶望感を与えるには十分すぎるほどです。

だって、周囲が自分を見る目がいっさい変わってしまうんだから。

たとえるなら、小学生や、中学生の子どものとき、からかいの延長で、好きな人を友達に暴露されてしまったとか、そういうときの、どうしようもない気分。好きな人をバラされてから、まわりに「◯◯が好きなんだろ!」とはやしたてられるようになったときの羞恥心や、気まずさや、生活が一変してしまったことへの悲しさとか、そういうもの。

ジェイソンはカミングアウトを熱望するピーターに〈このときだけじゃない、永遠のものなんだよ〉と反論して、自分の評価が崩されることをひどく恐怖します。

「つまりセクシャルマイノリティに限らず、バラされたくないことをバラされるのは、怖気立つほどイヤなんだって話だよね!」という感想はきっと正しいです。共感をもつためには、人間普遍の心理として、思いを馳せてもらえるのがいちばんだなあと思います。

それと同時に、こういう問題に対して、まるで属性は関係のない事案であるかのように対処しようとする態度は、文脈によっては当事者の否定になってしまいます。たとえば先の感想が「バラされたくないことをバラすのはだれだってイヤなんだから、セクシャルマイノリティだからってそれが特別なわけじゃない」というような論旨にすり替わってしまった場合です。これは「社会的要因を無視した問題意識の否定」です。

なぜなら、どんなことでも、当事者が受ける打撃には、多かれ少なかれ社会の環境が関わっています。その塩梅によって「社会問題」は「社会問題」として取り沙汰され、個人対個人のそれを超えた議論の対象となっています。

この場合、同性愛が社会において「マイノリティ※」だからこそ生まれてしまう苦痛があるのは明らかです。それでも、こういう議論があるとしばしば社会的な側面をスポイルして問題を無化しようとする言論もしばしばでてきます。

(※「マイノリティ」とは単なる少数者という意味ではなく、社会構造を踏まえた上での言葉です。だから世の中で「マイノリティ」と呼ばれているものには、呼ばれるなりの社会的な合意があるので、自分たちの恣意的な感情から弱者アピールをしているわけではないことはご留意ください。)

  ■■■

じゃあ具体的にどんなのが問題ある環境だってのよっていうお話です。

ほとんどのセクシャルマイノリティは共通して「無理解」「差別」「存在を想定されずに構築された社会」に囲まれています。

んで、めんどくさいことにだれよりも正確に現状を認識しています。

「おおげさだな悲劇の主人公気取りかよ、みんなつらいなか生きてるんだよ」と言ってくるひとたちもいますが、どんなに周囲が否定しても、大小具体例をあげればキリがないくらいの事実が、そこにはあります。こういうことにアンテナを巡らせていれば自然にわかることなので、具体例については割愛します。

このなかでアウティングされてしまう恐怖は「存在を(人生や生命を)脅かし得る恐怖」です。

ある日まわりがみんな自分をしらけた顔で見るようになったら? 好奇の目を向け始めたら? 「へえ……◯◯ってゲイなんだ! うふふ!」みたいなね。身に覚えあるひともいるかもわかりません。

ジェイソンはそれらにひどく怯えていました。〈我慢が大切〉とものわかりのいいふりをしてピーターを説得し、だれもが憧れるふるまいで周囲を魅了しながら、はじめからだれよりも怯えていたのは、ほかでもないジェイソンです。

いっぽうでピーターは、人生の今後や、自分の意志において、ジェイソンよりも自覚的な立場にあったのですが、それは後述します。

2.苦痛を否認する大人たち

「同性愛差別」がいまいちピンと来ないどころか、『bare』の「マットによるアウティング→みんながドン引き」シーンからのジェイソンのダメージに思いを馳せるのがむずかしかったひとも、なかにはいるんじゃないかしらと想像しました。

もちろんそれが悪いという話ではなくて、自殺に向かう負のエネルギーを前にすると、「なんでそれくらいで死んじゃうの!?!?(;_;)」と、当事者の苦しみを「否認」する心理も、あたり前の気持ちとしてあるだろうと思うからです。

ピーターのお母さん。それから、神父も、当事者の苦しみを否認した「あたり前の人々」でした。

ぶっちゃけ、いきなりカミングアウトされても、どう反応していいか困ると思います。だって、そんなこと言われても、打ち明けられた個人は「なにをすることもできない」んですから。

ところで、わたしがバイセクシャルであると書きましたが、フォロワーさんは率直に、どう思いました? そんなこと言わずに感想書いたらいいのにって、思いました? 特になにも思わずスルーしました? あと、知ってたわ〜〜とか。いろいろ思うか、べつになんとも思わなかったか、それぞれにあると思います。

もし日常の場面でカミングアウトされて、戸惑ったとしても、それはふつうの感覚だと思います。

そりゃあカミングアウトされたところで、聞いたひとはセクシャルマイノリティが受け入れられる社会にできるわけでもないし。応援するっていったって他人の恋路だったりするからラブイデオロギー鬱陶しいなって思うだろうし。

あるいは「解決できないのにそんな話を振られても困る」と思うのかもしれません。「アドバイスを求めてないのになんで悩み相談なんてするの?」案件と根っこは同じかもしれません。「わたしにどうしろっていうの? いきなり理解者ヅラしろって?」

人間は自分のストレスを回避するために「打ち明けられた苦しみを否認」します。

「望まない妊娠」の加害者になり、はてにはゲイであることをアウティングされ、追いつめられたジェイソンの告解を受けた神父は〈人はそういうとき解決を私に求める〉と自らの思うところを語りはじめました。

結論から言えば、神父は「ジェイソンが自分に解決を求めている」と感じ、かまえてしまったんだと思います。ただでさえ苦痛にボロボロの姿をみたら「なんとかしてあげなきゃ」と思ってしまうのは、人情として、当然ですよね。

でも、「なんとかする」ための言葉は単なる「指導」です。〈君は若い。未来がある〉〈卒業までは耐えろ〉と神父はジェイソンに「指導」します。これはジェイソンのような立場の人間のことを、これまで考えたことのない神父ができる、唯一の「助言」でした。

なんの解決にもなっていないことを、さも解決策であるかのように。

ジェイソンはそこで「シャットダウンされた」と感じたんだろうなあと思います。すがりついた壁にはなんの手がかりもなくって、つるつる滑るばっかりで。あとは真っ逆さまに落ちるだけ。

ならどうしたらよかったの?
神父はああいうしかなかったよね?
なにが不満だったの?
結果的にジェイソンは自死をしてしまったから神父が悪いことになったけど、わたしが神父だったらああ言う以外なかったと思う!

あんまり神父を責めていると、こんなふうに、逆張り論陣大好きマンのわたしが出てきて、勝手に脳内バトルをはじめちゃうんですが。

思い出してほしいのは、自らの黒人であるバックボーンに寄せて、ゲイであるピーターに心からの共感を示して、〈わたしはあなたの味方〉とはっきり宣言してくれたシスター・シャンテル。あるいは〈わかんないけどとにかくパパには言わないわ〉とジェイソンを抱きしめたナディア。そんなふたりと比較すれば、彼がなにを欠いていたのか、わかると思います。

それでも、神父が冷徹だったわけでも、とりたて悪人だったわけでもないと思います。ピーターのお母さんも同じです。

神父はキリスト教の教義において同性愛が罪である「原則的な」価値観で生きてきた人だろうし、あたりさわりのない言葉を口にすることだけが、彼の経験からできる「ふつう」の行動だったと思います。

また、ピーターのお母さんも、冒頭で、まるで偏見のようなゲイへのイメージを語っていました。(シングルマザーだから子どもがゲイになってしまったと言いたげな持論や、そのほか諸々)それは彼女にとっての「ふつう」だったと思います。

――――神父にとってあのときのジェイソンは苦しむ若い友人ではなく「罪の香りをさせた対処できない異物」でしかなかったのだろうし、母親にとってピーターのセクシュアリティは、「愛する息子にベッタリくっついた得体のしれない不可解」でしかなかったのだろうと思います。

それはひどくふつうで、当たり前で、常識の範疇で、悪人とは呼べません。

彼らは、ふつうに生きてきたなかで、あたらしい常識や良識や教養を、自ら学びに行くことなく、ふつうに得られるだけの価値観をもって、他者の苦痛を否認する、あたり前の感覚をもったひとたちでした。

3.「クローズド」ジェイソンと「オープン」を目指すピーター

ゲイであるジェイソンは生きている限り、いつヘイトクライムや排除を受けるかわからない恐怖のなかで揺らいでいました。

彼の動揺はピーターがカミングアウトを熱望したことにより徐々にあらわれましたが、ジェイソンはもともと自己に対して抑圧的で「自分がどう生きていたいか」という欲求には人並みに鈍感だったように思います。成績優秀で才能に恵まれて、愛する恋人ともいちゃいちゃしていたジェイソンは、父親の期待については複雑な気持ちを抱えつつも、現状に対して大きな不満は持っていなかったと思います。

ただし、それは「ゲイである自分を切り離した」なかでの順風満帆です。

だからこそピーターの希望により、カミングアウト後の社会との関係を想像することを迫られ、ひどく動揺したんだろうと、思っています。

いっぽうで、ピーターは「やんわりと自分を否定する母親」がつねに頭の片隅にありました。

母子家庭のピーターは母親を愛していたし、母親も自分を愛しているのを知っているけど、自分がゲイであることだけは受け入れてもらっていない。セクシュアリティはピーターの一部でしかないけれども、それを否定され切り落とされている事実に、母親を愛しているからこその葛藤があったと思います。

〈ママ、愛しているよ〉と母親の愛を何度も何度も問い直しながら、きっといつか受け入れてくれるはずだと、ピーターは折れそうになる意志を必死に繋いでいました。

ピーターは母を代表する他者と自分の未来に対して罪悪感を持ちたくなかった。だから追い詰められたジェイソンが「ふたりで逃げよう」と持ちかけても、彼は悲しそうな顔をして、断固として応じなかったんだと思いました。

-----------------------------------------

そういえば、前半が終わった休憩のとき、近くの客席から「ピーター落ち着いて!黙ってようよ!って思ったんだけど…」というような感想が聞こえてきたんですね。ピーターのカミングアウトの熱望は、一見すると聞き分けのない子どものように見えるのかもしれません。

わたしも実際、序盤にはそんな感想を抱きました。だってアウティングギリギリだったし、ジェイソンもかわいそうに、あからさまなくらいビビッてたし。「勘弁してあげてよ~!(笑)」みたいな反応、すごくよくわかる。言ってた人がゲイをオープンにできない気持ちに寄り添っていたのならすごくよくわかる。

でも、そうじゃなくて、「ゲイであることを黙っているのが大人」みたいな、マジョリティの立場からだったとしたら……?

それはやんわりとした抑圧にほかならないと思いました。厳しいこと言うと「差別」でよくある文脈だなあと思いました。

ピーターは他者や自分に対して誠実でありたかっただけなのに、それもわがままのように受け止められてしまったのだとしたら、現実のレインボープライドは、どんなふうに映るのかしら。ねえ、ゲイパレードみて、これを読んでる方は、どう思います?

-----------------------------------------

もちろんカミングアウトが必ずしも「正しい」わけではありません。

「クローズド」という生き方も、選択肢のひとつです。たとえ社会が遠回しにクローズドを強要するようなものであったとしても、「身を守る生き方」は肯定されてしかるべきです。本人の意思決定の結果であれば、尊重されてあたり前。

ピーターがカミングアウトを熱望しているのを察して、クローズドでいたい意志を伝えたジェイソンですが、ピーターにもピーターなりの「カミングアウトしなければいけない理由」があります。ピーターの存在や、未来にとって、それは乗り越えなければいけないことだったから。でもジェイソンはそれを受け入れません。

ジェイソンはそこで「クローズドである自分たちの未来」をきちんと伝えなければいけなかったんだと思います。将来設計みたいなもの。ピーターにとって、クローズドでいることは自己肯定の結果ではない。神さまはぜんぶ知っているのに、それでも黙り続けてることに、罪悪感ばかりが募って、悪夢ばかり見てしまう。黒人のマリアさまだって応援してくれるはずなのに!だから勇気を持って未来への布石を打ちたい。

しかし、ジェイソンが叫んだのは未来への展望や、クローズトを肯定する言葉どころか、〈言ってみろよ。君のママがオレの父親に電話して、父親はオレを殴って勘当して病院に入れる〉という強迫じみた反論でした。

彼はその強迫から、恐怖から、ほんとうの望みを見失い、周囲を傷つけて、アイヴィに対する決定的な「加害者」になりました。

ジェイソンがピーター以上に怯えていたのは、社会を通して、教条的で権威主義的な父親の陰を見ていたからだと思います。

彼は生まれたときから「自分を絶対的に否定する人間」のそばにいました。家族とはだれにとっても、いちばん最初にコミュニケーションの方法を学ぶ基礎的な集団です。

「人間関係における否定」をジェイソンは絶対的な父親からヒシヒシと感じていたんだと思います。

ジェイソンにとって社会は「理想的に振る舞えば認められて、そうじゃなければ徹底的に否定する」父親のようなものだったのかもしれない。遠回しに拒絶されながらも母親の愛を確信していたピーターほど、希望を持つためのエネルギーを、育むことができなかったのかもしれない。

得体のしれない強迫観念に振り回されて、罪を背負って、絶望して、理性がすべて意味のない境地に至ったとき、ジェイソンはやっと〈bare〉の安寧を得ました。

4.ぜんぶ世の中が悪い

公演終了後、ぼちぼち「ジェイソン被害者ヅラしてるけどいちばん可哀想なのアイヴィだよね……」というため息がちらほら聞かれました。すごくわかる。恋の代償にはあまりに重い。女体はしんどい。ジェイソンが日和ったばっかりに。なぜか避妊しなかったばっかりに。このやろう。

とはいえやっぱり、ジェイソンは加害者だけど、だから同情してはいけないなんてことはなくて、結局「世の中が悪い」と思います。

社会とか、世の中っていうのは、自分も含めたぜんぶ。「相手にとっての社会を形成している自分」という当事者意識がないために、他人を無意識に傷つけてる自分。無神経なことばっかり言ってしまう自分。相手に寄り添えない自分。ゲイであるその人が社会から与えられている苦しみを、まるで他人事のように語る自分。

目の前の人を「わたしの世界」の住人としか語れない自分。「いきなりレズバレしてくるってなんなの?どうしてほしいの?そんなこと言われても困るんだけど(苦笑)」みたいな態度の、常識人さま。ガチヘテロさま。

世の中が彼らの存在を想定したものであったとしたら、ピーターはうっかりアウティングに走ってしまわずに済んだし、ジェイソンは自分の愛を曲げて加害者になって死んだりしなかっただろうし、アイヴィだってただの切ない片想いで終われたんだろうと思います。

存在を肯定されないから、ロールモデルがないから、だれも正しい道を教えてくれないから、手探りで自分を律していくしかなくて、世間の価値観に動揺して、流されて、好きな人を傷つけて、笑いながら自分の気持ちに嘘ついて、斜め上の行動に走って、また世間の評価で嗤われる。

物語の文脈で「世の中が悪い」のは必然のような装置です。そういうオチの物語を、みんなが消費しています。
 
じゃあ、現実はどうかってお話です。
わたしや、ほかの人も含めて、現実社会だって、ジェイソンを殺すには十分な世界だって思ってます。これは制度の問題ではありません。

いつだか「同性婚が認められると切ないBLができなくなる」という発言が炎上したことがありました。

このとき、主流は「こういう馬鹿げた発言は内側から潰しておかねば未来のためにならねえ」というものでしたが、その話題が盛り上がるなかで、こういう体験談や持論、たくさん見かけました。

 「でも実際、同性愛者は自分たちのことを特別と思っている感じが鼻につく」
 「ファッションレズにこんな目に遭わされたことがある。メンヘラが多いのをわたしは知ってる」
 「同じように人間を愛してるだけなのに同性ってことでアピールしてくるのがわけわからない。同じものだって言えばいいのに」
 「カミングアウトされて悩みを聞いてあげたのに逆ギレされた。トラウマ」
 「あのときレズって言ってた子、結局結婚したんだよね~笑」
 「恋人のいない私たちよりリア充してるセクマイのほうが恵まれているんだから同性婚なんて敵に塩を送るようなもの」
 「子どももできない同性愛者が結婚で保障を得たいとか図々しいにもほどがない?」
 「同性愛者が生理的に無理なわたしを否定しないでほしい。逆差別だ」

うん!(笑)

えっと、こういう経験談や価値観について、否定するつもりはありません。そういうことがあったのなら、それが現実なんだろうなあと思いますし、そういう価値観なら、なんかもう感性とか良識とか教養とか法的感覚とか、そういう根本から違うんだなってことで、お互いにお近づきにならないほうがしあわせかなって思います……。

でも、それぞれへの感想はさておき、これがわたしの見えてる世界です。
そしてこんなことを言ってる人たちは、それぞれが大真面目に、あるいは無神経に、これを放言しています。つよい。

一点だけ反論するなら、人権やそういうレイヤーの話に「個人的体験」や「国への貢献」や「経済効果」ほど馴染まないものはない、ということです。

こういう人たちはおそらく自分たちが「事実」をフラットに話していると信じ込んでいますが、それは「偏見」というものが、絵空事から生まれるものではなく、個人的体験の積み重ねによるものであることを、きっと知らないまま生きてるんだろうな、と思いました。

なにより、その偏見に一縷の事実が含まれていたとしても、「人権を認められるのに人格は関係ない」のに、どうしてわざわざそんな話を、この流れで、持ち出すのかしら。なんの意図があって?

現実ってこんなもんなんですよ。

 

同性愛差別にいまいちピンと来なかったり。

ホモやレズという言葉は蔑称だと言われても「そんなつもりないし……」としか言えなかったり。

BL作品で「オレはホモじゃないけどおまえが好きなんだ」と言わせてみたり。

「キャラをホモにするのはキャラへの侮辱だ」と言ってみたり。

BLという言葉がまず先にあって作られた「NL」の単語をフラットだと言い張ったり。

 

そういうオタク界隈も、すごく「ふつう」だと思います。

ふつうで、現実で、そういうものだなあって思います。いきなり差別とか人権とか言われても、先生にいきなり杓子定規なこと言われたみたいな気分になるの、ふつうだなあって思います。あるいはそういうこと言ってるのはジンケン派で、リベサヨで、フェミで、PTAで、意識高い系、みたいな認識。でも日本にはそんなに差別はないって信じてるひとの、認識。世界観。みえてる世の中。ふつうの世の中。

アメリカが舞台の『bare』ですが、ついでに日本の与党が出してるLGBTについての見解がこちら。(http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/132489_2.pdf

ジェンダーフリーについてが、某極右団体のサイトにあるデマ記述の流用でびっくらこいたこと以外は、ふつうすぎるほどふつうです(極右団体は日◯会議で検索だ!)
 
どこがふつうかっていうと、「ついていけないなあ~じゃないよ!!!!どこ向け案内だよ!!あくまでパンピーさま目線かよ!!!カミングアウトという自己決定の側面はスポイルか~~~~!!!!」っていうあたりです。

でもこれってすごくふつう。国を運営してくれてる政府のふつう。国から大衆まで、これが当たり前。異物扱いのまま、まあアリなんじゃない、国際的にはそうだしね、みたいな態度。

『bare』も同じように、こんなふつうの世の中の物語です。特別悲劇的な世界観でも、なんでもない。ジェイソンを哀れみ、同情をよせる、ほかでもない観客のあなたがこの悲劇を生んだパズルのピースです。

5.「赦す」こと

ここまで書いて「そんなふうに世の中を僻んでるからセクマイさまが認められないんじゃないの(笑)」という仮想敵の声が聞こえてきました。いや、じっさいよくみかけるんですこういうの……あながち被害妄想じゃないの……。

でも、生きていく以上は、そういう世界を、自分が死なない程度に赦しながら、それなりに関係を繋いでいかなければいけないのは、ちゃんと知ってます。

ピーターは母親からやんわりと拒絶され続けました。これは「コミットしないことによる消極的な否定」です。ジェイソンはカミングアウトを望むピーターを〈夢でもみてるのか〉と怒りますが、まったく逆で、ピーターは「現実」を知った上で、これからのためにカミングアウトが必要であると確信していました。

そんなピーターを理解していたのはシスター・シャンテルです。

彼女は〈正義をおろそかにしちゃだめ!〉と歌います。キリスト教の福音でこそ同性愛は否定されていますが、いまは当たり前の「天賦人権論」はほかでもないキリスト教的発想の賜物です。神さまが与えてくれた人権という正義に基づく立場を明確にし、カミングアウトの欲求じたいをひたすら否定されてきたピーターに寄り添ってくれたシスターシャンテル。彼女は神さまによって与えられてるはずの黒人という属性を否定されてきたのだろうと思います。

愛する母親でさえ、ピーターの神さまから与えられた属性を(セクシュアリティ)をすんなり受け止めてはくれない。

でも、たしかに母子の愛情はあって、母親は決して自分を「切る」存在ではないと信じたい。

たとえゲイに対する理解はなくても、友達だし家族なのに変わりない。
それが自分たちを傷つけるものと同一であったとしても、愛も加害も紙一重で、人間どうしは生きていかなきゃいけない。

〈無言と 無音と 無情の 向こうは 心つなぐ 愛 そして 光 真実 響く 生の声〉とジェイソンを喪ったピーターが歌います。

終盤は、すごく残酷な筋書きにも見えます。けれども、あんなに怯えて自分を見失っていたジェイソンが、理性を喪ってやっと、〈偽りだらけの世界で見つけた本物〉であるピーターを素直に求められたこと。愛とかしあわせとか、そういうすべてを彼に託して、眠れたことは、うつくしい終わりだと、そう思いました。

6.BLとしての『bare』

大真面目なセクシャルマイノリティの話として『bare』を語って来ましたが、『bare』はBL作品としてもすごく楽しめるしセクシーだし、ドキドキすると思います。(すごくドキドキした)

なんでこんなことを書いたかっていうと、こういう話をしていると、同性愛作品をBLとして消費することに罪悪感を覚えたり、責められてるんじゃないかと感じる人もいるんじゃないかしらと思うからです。

細かいことはそろそろ書くのがしんどい感じなんですけど(徹夜でこれ書いてます)少なくともわたしにそれを責める意図はないです。

だけど、同性愛をBLだけで受け止めるのは、個人の自由だけど、ちょっと寂しいかなって思います。

セクシャルマイノリティに限らず、自分とはちがう視点で世界をみてるひともいて、 自分とはちがう、助けのいる、そういう人が、どんなふうに見えて、傷ついたり、絶望したり、自分を見失ったりするのか、『bare』にはたくさん、その手がかりが散らばってると思ったので、それぞれの感受性で受け止めても、すごく豊かな物語が得られるんじゃないかって、そういう意味で、味わう手がかりになってくれたら、もう、勢いでぜんぶぶちまけた甲斐もあるってやつ……。

7.登場人物それぞれと、俳優さんについて

■ジェイソン/鯨井 康介

登場した途端ぱっと視線を引く日本人離れしたフィジカルに、なんて華やかな役者さんだろうと打ちのめされる心地がしました。さすがジェイソン!そこにシビれるあこがれるゥ!されてる姿の、どんなにか似合うこと似合うこと……。お顔立ちは化粧映えする歌舞伎役者みたいだって思っていたんですけれど、はじめてこんなに間近で観て(TDCHの上階客席からしか拝見したことなかったのよ)、あのびっくりするほどスラッと長い手足と骨っぽい胴に小さな顔が乗ってるの。何頭身あるんですか。遠近歪むわ。

鯨井さんの伏せ目+流し目のコンボが最高にうつくしいと思うんですね。それで田村ピーターを背中から甘くホールドしちゃって、やんわりじっとりママとの電話を邪魔しちゃうの。キスで黙らせるのもお上手ですこと。なんだこれ洋ドラでも観てるみたい。いや洋モノだけど。えっちでした。

セクシーなのはもちろん、内面の部分、器用で人気者でコミュ力の高いと見せかけて、根っこは繊細で真面目な青少年が、ほんとうに板についてる。手嶋純太もね、そんな感じで演じてくださいましたね。加えてジェイソンには、揺らぐ気持ちのストレスから、男性的な傲慢さや横暴さを感じたんですけど、カミングアウトをあきらめないピーターに〈言えばいい!〉と声を高くしたり、妊娠のことを告げたいアイヴィを、しつこいと言わんばかりにうんざり振り払うの、いかにも「イラついてる男性」の怖い感じがあふれてて、いちいち客席でビクビクしてしまった。あ~……デキる男のこういう我の通し方すごく想像つく……。すごくわかる……。

ルーカスからデリバリーされたドラッグでトランスのうちに、いままでの見栄も、背伸びも、社会性も、ぜんぶなかったみたいに、ピーターに甘えて、愛しい気持ちでいっぱいになって、生涯をとじたジェイソン。あれだけ彼に対してイニシアチブを取りたがっていたのが嘘みたいに、ピーターに縋って、いまとなっては素気なくされて(だってほかでもないジェイソンがピーターにそういう態度を取りつづけていたのだから)、それでも、唯一の真実だった、彼への愛だけを残した、まるで純度の高いかたまりになって、世界が終わるの。

流れ落ちるみたいな終盤のそれを、痛みの蓄積を感じさせながら空気をじんわりやわらかくして、変化していくジェイソンに、照明じゃなくて舞台の色が変わったみたい。

そういえば、死後、真っ白い服を着てあらわれたジェイソンに、2012年版映画の『レ・ミゼラブル』のラストを思い出しました。今際のきわのジャン・ヴァルジャンのもとに、ずっと昔に亡くなった、アン・ハサウェイ演じるファンティーヌが、やっぱり白い服で迎えにくるの。鯨井さんがアン・ハサウェイになった…………って感じ入ったんですけど文章にするとよくわからない。

■ピーター/田村 良太

罪の意識を感じれば感じるほど「なんとかしなきゃ!!!!」っていうポジティブさがあふれてくる芯のつよい子。ジェイソンとは異なる意味で真面目で、夢想家で。きっと想像力が高くて空想に心をあずけられるタイプの少年だったから、現実の材料からじゃどう考えても絶望的な未来さえ、ふわっと羽ばたいて求めることができたのかもしれないなって思いました。

お顔立ちといい(鯨井さんと比べた)身体つきといい、歌声だって少年めいてかわいいんですけど、筋がピシッと通ってる印象が頼もしいくらい。ジェイソンが理性型だけど揺らぎやすい感情を抱えているなら、ピーターは直感型だけど向かうべき真理を本能ですっかり理解している感じ。家族や周囲を騙しながら生きている罪悪感と、それでも自分自身のこの魂が、なんら恥じるものではないと確信しているから、パワフルなマリアさまに熱く励まされる夢だって見ちゃう。それはおそらくジェイソンが自慢の恋人で、ピーター自身のぜんぶを賭けて「大好き」だって言えるようなひとだったから、「隠すなんてこんなおかしい話はない」と思う気持ちもあったのかもしれないね。

ところがどっこい、彼は先見の明があり過ぎたんだと思っています。カミングアウトにはいろんな動機があるけれど、当事者じゃない人にとって、カミングアウトはほとんど「自己PR」と理解されるんじゃないかしら。「わたしをわかって!」みたいな。でも、ピーターの場合は個人的なそれを越えて、「社会への還元」という使命感もあったと思います。どういうことかというと、自分自身が周囲に認知されるよう働きかけることが、ひいては社会のあらゆるひとや、同胞や、大切な恋人のためになるという信念。駆け落ちを提案するジェイソンに対して静かに〈隠してなんか生きていけない〉と言ったのも、自分が暗数となることがすなわち、社会的正義の不履行状態を先延ばしにすることに繋がると、なんとな~く理解していたのかもしれません。

とにかく賢さと迂闊さのハイブリッドみたいなたくましいピュアボーイだと考えたんですけど、めげずにカミングアウトを渇望できる姿に、だいぶ尊敬とか理想化したい気持ちを詰め込んでしまってるので、もう一度観たらまたべつの印象になるのかも……(しかし観れない)

■アイヴィ/ 増田 有華

皆本麻帆版アイヴィがぱっと見、ゆるふわセクシーな女の子なら、増田有華アイヴィはまあ~~~気位の高そうで気も強そうで男の子たちなんかみんなアッシーにしてるんだろうな!!!!くらいのツンと澄ますのがいかにも似合いそうなお嬢さんなのに中身えらいぴゅあっぴゅあやんけ。踊りに誘うマットにやんわり〈次の曲でね〉と断るやりとり、いくら想い人のジェイソンに心を傾けてウットリしていた最中とはいえ、ふつうにやわらかくて可愛くないですか。ビッチなんて周りに言われてるけど、女豹的なガッツキはいっさい感じられなくて、どちらかといえば自己承認欲求の結果として男が絶えないだけなんじゃ……と思っていたら、アイヴィはだれよりも「子ども」である自分を背伸びで隠してる、ただの歳相応の女の子でした。

少女漫画脳なのでてっきりマットとくっつくと思っていたんですよ。〈二番手〉の彼だけど、アイヴィを真実に愛しているのはマットだった!不毛に愛するより、健気に愛されるうちにエロスではないアガペーとしての愛情をマットに抱きはじめるアイヴィ……!まで妄想していたんですがマットがジェイソンとピーターのアウティングに走りやがったのでその空想はぜんぶおじゃんになりました。

でもナディアとのケンカ百合っぷるも同時進行していたのでなにも困ることはなかったです。ひどい男に恋しちゃって、ただの片想いに見合わない代償を払ってしまったアイヴィだから、もしもジェイソンの子どもを産むことに決めたのだったら、腐れ縁で親友のナディアとふたりでたくましく赤ちゃん育ててほしいなって思いました。そして、現れる不穏な陰――――アイヴィから子どもを奪おうと画策するのは、息子を喪い「代わり」を求めるジェイソンの父親だった!ナディアはアイヴィとその子どもを、愛するパパから護ることができるのか!?!?みたいな続編は脳内で妄想しとくね。

ところで、ジェイソンが避妊をしていなかったのは、ピーターとセーフセックスの習慣がなかったからかなあと思いました。あるいは、精神的に不安定だったからすっかり頭から抜けていたか、「アイヴィはビッチだからピル飲んでる」と偏見を抱いていたのか、まさか一回でそうなるとは思っていなかったのか。好きな人といい感じになったと信じてセックスしたらまさか避妊されてなくてリプロダクティブ・ライツ/ヘルスを犯された挙句に相手にその気がないとわかったアイヴィどれだけ可哀想だよ。つらいよ。やっぱりナディアとしあわせになるべき。

■ナディア/ 谷口 ゆうな

青少年である登場人物のなかでいちばん「悩みを過去においていくらか悟った段階にあるひと」。もちろん、ナディアだってコンプレックスの胸のチリチリから逃れられたわけではないんですけど、神さまがあたえた理不尽をまともに背負い込むステップは過ぎて、どうにかガス抜きできているような状態。谷口さんがこれまたパワフルですてきでいちいち笑わせにかかってくれるんですけど、これは笑わないとナディアに対して失礼だという気持ちと、笑ってしまうには根っこの重たさをヒシヒシ感じてしまって、いや結局笑っちゃうんですけど、「ギャグとして面白かったから」というよりも「彼女の存在が切なくて愛しいから」笑っちゃうような、とてもふくざつな気持ちにさせてくれました。

腐れ縁のアイヴィはナディアにとって愛すべき仮想敵だったと思うんです。自分が滑稽をウリにした女であるために、アイヴィはお高く止まっていけ好かない、それはそれはかわいいビッチであるべきだった。なのにアイヴィは女の不幸を背負い込んで、いつまでもナディアの仮想敵のままでいてくれない。

とはいえナディアは自慢の兄の古女房のようなポジションのおかげで、ささやかな心の安寧を得ていたと思うんです。だから、その兄すらもアイヴィに奪われたときは、さすがに傷ついてしまった。

それでもナディアはきっと、アイヴィの不幸な姿を見るくらいなら、自分が傷つくだけの未来のほうがよかったって、そう願うようなやさしい子だったと思います。だれよりも賢くてやさしいからあきらめだって早くって、自分の悩みだってたくさんあるのに、ちゃんと笑って友達や兄を抱きしめてあげられる子。

■シスター・シャンテル/ 入絵 加奈子

子供の頃に観ていた大好きなアニメ『ビックリマン2000』に声優として出演されていたのが入絵加奈子さんなんですね。個人的にはそんな感じで、入絵加奈子さんの生演技を観れたのがほんとうに感激でした。『bare』は鯨井さんが出ているからチェックしていたけど、よし観たい!!!!とまで気持ちを持ってこれたのは、入絵さんがご出演されていたから。そしてじっさいに、歌って踊っておどけて演じている入絵さんを目の前にして、そのパワフルさと「観客を楽しませてくれる」圧倒的なかんぺきさに、女神さまはここにいたんだって心震えるくらい。女神さまというかマリアさまだね。

シスター・シャンテルもマリアさまもピーターを導き鼓舞する存在です。現実の演劇指導においてはピーターを認め、幻想の夢のなかにおいてはピーターの迷いを晴らしてくれます。脚本のトリックとしては、まず「なぜかシスターに似てるマリアさまが夢に出てくる」ところからはじまり、その不思議はそのままに物語は進行して、「現実のシスターもまたピーターの味方である」と明かされて、ハイコンテクストにおいて夢と現実がリンクするきれいなオチ。これだけじゃなくて『bare』の脚本のなかには対人関係ごとにそれぞれ物語が用意されていて、それらが平行して進んでいくような印象を受けました。構成としてきれい。

すでに書きましたが、シスターが〈すべては神にとって必要なもの〉と説き、それが〈おろそかにしてはいけない正義〉と語るのは、既存の言葉を使うと「天賦人権論」にあたります。ひとがひととして受容されなくてはいけない「人権」の根拠は、なにかの役に立つからでも、なにかしらに優れているからでもなく、ただ「それが神に与えられた命」であるからです。

いまいち浮世離れしているみたいな論拠ですが、損得勘定や偏愛を伴わない、純粋な博愛とか、ひたすらにきれいなものは、決して人間の理屈ではつくれないものなのかもしれません。でも人間にはきれいなものが必要だし、それがなければ生きていけないから、キリスト教の信仰がなくたって、まるで現実には存在し得ないイデアを、大真面目な顔で、渇仰してもいいんじゃないかしらと思います。

 

8.『bare』には関係のない補足

※同性愛の話題になると定期的に「レズはメンヘラばっかり」「レズにこんな目に遭わされた」というツイートを見かけますがほんとうに御愁傷様です。彼女、ジェイソンみたいに自分を見失ってたのかもしれないよ。ぶっちゃけ正直わたしにも身に覚えがある。

※こうしてネットには書いてますけど、わたしがバイセクシュアルであることは家族にはぜったい言えないです。正確にいえば、十代の頃、母親になんとな~く「わたし女の子が好きかも…」と言ったら(当時はほぼほぼ付き合ってる女の子がいました)「思春期の気の迷いだよ^^」とバッサリ切られてしまったので、それ以降はお口チャックです。思えばたったささいな一言ですが、人生において決して口にしてはいけないことを思い知ったような気分だったし、こんなにネットで騒いでるいまでさえ、同性愛を自らの心体に関わるものとして、家族に発信する勇気はないです。たとえ打ち明けて否定されなかったとしても、その理解はきっと偏見を帯びたものであるだろうし、そんなことを考えると、とてもピーターのように「理解」を求めていく気力はない。活動家を揶揄する当事者、とても多いけれど、フリーライダーでいるからには先陣を切ってくれる人たちをバカにしちゃいけないよ。ピンクウォッシュについての批判はともかくね。

※カミングアウトされたらどうすればいいのって話があると思うんですけど、人それぞれとしか言いようがないなかで、踏まえておきたいのは「必ずしも自己PRが動機ではないよ」ということかしら……。「なにアピールなの???」とか思ってしまったら、それはもうフィルターがガッツリかかってる状態じゃないかと思うので、色眼鏡を外して目の前のひとの真意を汲んであげてください。やけっぱちとかその場のノリとか酒のいきおいで口に出しちゃうひともいると思うから。(ちなみにわたしが冒頭でカミングアウトしたのはこの記事を書くために必要だった、それ以上でもそれ以下でもないですからね)

※それからカミングアウトまで至るようなだいたいの人は「セクシャルマイノリティであること自体を悩んでるわけではない」どころか、自分なりの自認を持って生きてると思います。だから、一方的にカミングアウトしといて、わがままかもしれないけど、あんまりセクシャルマイノリティに対する自分の考察というか価値判断は挟まないで、等身大で受け答えをすればいいんじゃないかしらと思います。あらゆる自己開示を受けるときにも共通してるけど、人間それぞれの事情で生きてるのに対して、生半可に評論家ぶるのがね、いちばん相手を傷つけるから。とにかくうなずいて、聞き役に徹すればいい話。センシティブな打ち明け話はみんなそういうもんじゃないかしら。