蜂蜜博物誌

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舞台『Take Me Out 2018』(2018年)_感想

Take Me Out 2018

2018年思い入れの深い作品は多々あったけれどもカタルシスを得られた観劇は『Take Me Out』だけだったかもしれない。2016年の初演は私生活が慌ただしく機会を得られなかった。春先にようやく観ることのできた再演は最高だった。芝居・演出・音楽・脚本、どれをとっても質が高い。先日あらためてDVDで鑑賞したが、ブロードウェイにおける初演が2003年と知って驚いた。この間上演の契機が訪れなかったと言えばそれまでかもしれないが、たとえ条件に恵まれていたとしても、日本の観客の多くが「自分ごと」として捉えるためには10年以上の歳月が必要だったのかもしれないとも思う。

いち当事者としてLGBTQ・あるいはセクシャルマイノリティを巡る作品にそれほど多く触れてきたつもりはない。ジェンダーに動機を見出すことのできる「花の24年組」の少女漫画群、シスターフッドが心地よい百合、そしてボーイズラブ。これらはそれぞれに表現としての意義だったり愉悦だったりを備えているが、決して「LGBTQ・セクシャルマイノリティ」そのものを描いてはいないし、それ自体を巡る社会的なポリティクス(駆け引き)に焦点を当てるものではない。愛はすでにそこにあるものとしてだれにも否定されず、あるいは周囲の抑圧は愛を盛り上げるために存在する。その一方で「LGBTセクシャルマイノリティ」を「エグみ」として利用する作品やメディアも多々ある。昔の作品は同性愛やトランスジェンダーをグロテスクな味わいとして演出した。今でもマンガ・アニメ・バラエティにおける「オカマキャラ」「オネエキャラ」といえば、ピエロあるいは超越的な役割を期待されてるキワモノであって、それは一見似ているドラァグのエンパワメントと真逆の文脈を持っているように見える。まぎれもない当事者は番組づくりの中でキワモノとして演出され再構築されていた。断言するが、日本人として自然に触れることのできるカルチャーに「LGBTQ・セクシャルマイノリティ」はほとんどいなかった。

2016年『オフブロードウェイミュージカル bare』(原題:Bare:A Pop Opera)を観劇して目から鱗が落ちた。カミングアウトを巡る社会とのポリティクスを描くこの作品は、2012年アメリカで上演されている。自分自身の経験と重ね合わせて憑き物が落ちたような体験をした。

アリストテレスの所説は頻々と誤解を蒙っているようだが、要するに、演劇の機能が、感情を浄化して、怖れと憐みを克服することにあるというものである。だからオレステスオイディプスと自分とを一体化している観客は、その一体化から解放され、また精神的に昂揚された結果、宿命の盲滅的な働きを意に介しなくなる。生活上のさまざまな絆は、一時的ながら捨て去られる。なぜなら芸術が、現実とは異なった手立てでもって観衆を「魅惑」しているからである。そしてこの楽しい、つかの間の魅惑こそは、あの「愉悦」、すなわち悲劇作品からでさえもえられるあの喜びの特質なのである。―――『芸術はなぜ必要か』エルンスト・フィッシャー著(河野徹訳・法政大学出版局) 

 『Take Me Out』も同様に人々のカタルシスに訴えかける戯曲だった。あからさまな差別や連発されるFワード。観劇後はとにかく感動した覚えしかないのに、見返してみると台詞じたいは(現実にありふれている)ひどいものばかりで首を傾げた。ダレンと恋仲になるユダヤ人会計士・メイソンは最後に呟く。「本当に、悲劇だった」と。

芸術はなぜ必要か (1967年) (叢書・ウニベルシタス)

芸術はなぜ必要か (1967年) (叢書・ウニベルシタス)

 

DDD青山クロスシアターは地下の劇場らしく客席がステージを見下ろすかたちになっている。ステージは客席と客席の中央に位置する。それはスタジアムによく似ている。ただし、望むのは競技場ではない。ロッカールームを模した硬質な舞台装置で、密室の会話も、試合も、夜更けのバーも表現される。正面の観客の姿が常に視界にチラつくものの、「我々が彼らを覗き見ている」連帯と背徳感さえある。

ダレン・レミングはいわゆるパワーゲイの条件を満たした存在だが、周囲も自分自身も、彼がパワーゲイであることを許さなかった。白人の父親と黒人の母親から生まれたダレンはこれまで人種差別の対象になることはなかった。ダレンの性格は自己肯定力に満ちていて自分自身の能力や人格にぜったいの自信を持っていた。「自分がカミングアウトをしたところで自分が差別の対象になることはない。何故なら自分はダレン・レミングだからだ」―――一見傲岸不遜にも思えるセリフだが、ダレンは決して周囲の反応を予感していなかったわけではないだろうと思う。「カミングアウトをしたところで自分が差別の対象になっていいはずがない。何故なら自分は自分という人間だからだ」―――彼は何も間違っていない。ダレン・レミングはデイビー・バトルの言葉を受け、社会正義を信じて、祈るようにカミングアウトを決意したのだろう。

カミングアウト (朝日新書)

カミングアウト (朝日新書)

 

けれども当事者が考え、悩み、分析し、紡ぎだした哲学の蓄積に、世の中はおもしろいほどに追いつけない。アメリカ南部出身の白人であるシェーン・マンギッドが悪意なく有色人種を貶めたように、人間は自然に生きるなかで触れてきた価値観以上の視点を持つことができない。ダレンがリーグの最中「あえて」カミングアウトを決行したように、どこかのだれかが「あえて」議題設定を講じない限り、群衆には言葉も思いも届きやしない。チームメイトの無理解にダレンはあくまで正論を突き返していくのだが、これまで同性愛について真摯に考えたことのないトッディは、いまいち飲み込めないようで言葉のキャッチボールは成立しないのだった。

『Take Me Out』にあふれている差別的言動や振る舞いは、いずれかの差別に関心のある者であればどれも覚えのある典型だろう。ダレンのよき理解者に思えたキッピー・サンダーストームはシェーンの差別的言動を謝罪する「代筆」を行った。それは不遇な環境から学ぶ機会を得られなかったシェーンに対する同情だったかもしれない。裏を返せばキッピーはシェーンにこそシンパシーを感じて行動に移したが、一方で同性愛差別に関しては少なからず矮小化していたと思えてならない。賢く、優しく、ダレンに友愛を抱く彼でさえ、差別にまつわる社会関係への知見は疎かだった。群衆にとって同情されやすい特徴や美辞麗句をもって加害者は庇われやすく、対照的に被害者の困難は矮小化されやすい。同性愛差別に限らず、女性差別、障害者差別でもよく見かける典型だ。

思えばメイソン・マーゼックは不思議な存在だった。ダレンのカミングアウトに感銘を受けたゲイのひとりであり、ユダヤ人会計士というある種ステレオタイプな肩書を背負う彼は、ダレンの止まり木としての役割が与えられた。ホモソーシャルの権化のようなチームメイトたちと違って、メイソンは中性的なたおやかさがあって、知識欲に富みつつ、可憐で無邪気だった。これを「ヒロイン」と呼んでしまうのはジェンダーロールへの追従が過ぎるかもしれない。

劇中、ダレンのほかにはほとんど交流がないメイソンは、まるでダレン・レミングにだけ見えている妖精のようだ。『RENT』のドラァグ・エンジェルが仲間たちを結びつける「天使」であったならば、メイソンはメジャーリーグに関わるすべてをまなざした「預言者」だったのかもしれない。不遜なダレンは自分自身を神と呼んだけれども、預言者はきっとメイソンだった。野球における数字の符号を語る彼に、カバラ数秘術を想起するのは容易い。映像版でも抜き出された玉置玲央の表情は圧巻で、同時に謎も残した。愛し合うふたりが結ばれることはハッピー・エンドに違いない。それでもメイソンの慄くような余韻が、蠱惑的な悲劇がこれからも続いていく予感を抱かせる。