蜂蜜博物誌

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映画『お嬢さん』(2016年)_感想

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サラ・ウォーターズ『茨の城』を原作に、1939年・大日本帝国植民地時代の朝鮮半島を舞台にした、女性同士の性愛を描くガールズ・ムービーである。

舞台設定を含めて『お嬢さん』は重層的な支配からの解放を示唆している。日本人の令嬢である秀子は5歳で朝鮮半島に引き取られて以来、日本の官能小説を好事家の男たちの前で朗読させられる性的虐待を受けていた。(和綴じの官能小説には春画が挿絵として用いられている。劇中では稀覯本とされているため江戸時代発行の黄表紙と思われるが、内容は現代語のオリジナルストーリーのため実在するものではない)

秀子にそれを強いた叔父の上月は生まれも育ちも朝鮮だが日本人女性と結婚してからはあくまで日本人として振舞っている。また、秀子に結婚詐欺を持ち掛ける藤原男爵も、朝鮮半島における被差別地域から日本の爵位を手に入れてのし上がった詐欺師。男と女のあいだにある支配。日本と朝鮮半島のあいだにある支配。そして朝鮮人でありながら支配者である「日本」を装うことで支配者と一体化する男たち。彼らは秀子を利用し、支配する。

そんな彼女の愛はただ正直にお金持ちになりたいだけの少女・盗賊一味のスッキに向けられていた。藤原伯爵の口車に乗り、女中として秀子の元へやってきたスッキだったが、やがて彼女の周囲の男たちに怒りと嫉妬すら覚えていくのだった。

設定だけならば朝鮮人の貧しい娘と日本人の華族令嬢が手に手を取って支配者かぶれの男たちをこらしめるシスター・フッドの物語である。ただし、秀子を演じるのはキム・ミニ。日本人役でありながら韓国の女優である彼女は、メタ的に見れば植民地支配時代に「日本人」とされ日本語を強制された朝鮮半島の人々に重なる。

一方で、支配者である日帝に擦り寄る上月や藤原の姿は一見すると不思議な光景に見える。しかしアメリカとの諸問題を抱える私達の社会を思い浮かべればその心理は想像に難くない。ジレンマを解消したい一心で自らを傷つける対象に積極的に好意を寄せる「捻れ」の防衛機制。ストレス忌避に根ざした心の動きのため「その振る舞いはおかしい」とも断罪し難いのが厄介だ。(もちろんそのために加害をしているのだから無色透明ではあり得ない)

ところで、新鮮だったのが「春画」の扱いだった。同じく韓国映画『哭声(コクソン)』でも小道具としての春画は演出の中でおどろおどろしいイメージを掻き立てる。国内における春画のパブリックイメージは「明るい変態」のため(そうした手放しの賞賛には忌避感情を持っているが)そのギャップにショックがないわけではない。

「支配からの脱出」がテーマの本作だが、それ自体は重々しいものではない。支配にすり寄る側をあくまで滑稽に描写することで少女たちの瑞々しさが際立つ。加えてふたりのセックスシーンはとても楽しそう・かつ官能的で「男性器抜きでもセックスは成立するしちゃんとエロい」仕上がりにはいち女性として勇気付けられるものがあった。大笑いした好きな台詞はスッキの「天性の才ですね!?」