蜂蜜博物誌

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舞台『BLUE/ORANGE』(2019年)_感想

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『Take me out』(2018年)以来の青山DDDクロスシアターだったが、この『BLUE/ORANGE』に足を運んでやっと「はさみ舞台」の視覚効果としての意義を理解できたように思う。オフホワイトの空間の中心には鮮烈なオレンジ。照明を落とす演出には青い光。ウォーターサーバーのてっぺんの青いボトル。果実の飾られたボウルさえ硝子は青みがかっている。色彩を極限まで絞り込んだ書き割りのないステージの明かりを一切消すと、奥行きのある空間がオレンジを中心にギュッと絞られて、視界が暗転する平面的な圧迫感とも違う立体的な体感があった。くぼみに白い長方形を敷いたような「板」の上でやりとりされる光景はまるで眼前の幻のようだった。作品のキーである青と橙の補色は、私にとってファン・ゴッホの「夜のカフェテラス」を想起させる。自らの耳を切り落として後世には統合失調症を疑われている画家の存在が本作の主題とオーバーラップする。

研修医ブルース(成河)は境界性パーソナリティ障害の診断を受けた担当患者・クリス(章平)の病態を統合失調症のそれであると疑い、退院を明日に控える中、自らのスーパーバイザーである医師・ロバート(千葉哲也)に彼の病状にまつわる助言を求めた。私自身、所持資格は社会福祉士*1のため、中盤まではかなり深刻にそれぞれの意見の妥当性を思案していたし、無言で会議に参加しているような感覚さえあった。

率直に言って、自傷・他害行為がないにも関わらず本人が同意しない措置入院を長引かせようとするブルースが「異端である」のはロバートの言うとおりに思える。「若い正義感」で済ませるには大切な手順を失念している。同時に、年配医師の、クリスの退院後の適切な診断やケアにさも無関心であるかのような物言いもおかしい。患者であるクリスも含め、『BLUE/ORANGE』の登場人物は、一方で正論を吐きながら、一方では決定的な何かを欠いている。

日本の精神科入院の歴史構造: 社会防衛・治療・社会福祉

日本の精神科入院の歴史構造: 社会防衛・治療・社会福祉

 

退院間際になってクリスを統合失調症ではないかと疑い、再診断を提案・退院後の生活に懸念を抱いている研修医ブルース。入院の延長は本人のQOL・制度・ベッドコントロールの観点から同意しない医師ロバート。病識・適切な現状認識に欠け、そのことに一切不安を覚えていないようにみえる患者クリス。はじめはクリス一人が「狂気」を抱えているようにみえるが、ブルースやロバートもまた、積み重なった人生の鬱屈や、性質と環境の取り合わせ、急性的なストレスによって、やがて「正気」とは思えない言動や行動に走るようになる。さらに中盤を超えると、三者三様に「狂気」と「正気」の混在した乱痴気騒ぎを繰り広げ、「冷静」な人物は消え失せて、各々のエゴにすべてが帰結する。『BLUE/ORANGE』は現に信じられている人と人との「境界」を疑う戯曲である。

正直なところ、本作を紹介する記事で「狂気」や「正気」などという言葉があまりに軽々しく扱われているようにみえて、現実の精神疾患を扱う作品としてのスタンスに若干の不安を覚えていた。序盤にブルースがクリスの「きちがい」発言を咎め、「精神分裂病」が「統合失調症」へと名称変更になった経緯―――翻訳元は2000年以前の執筆なので、ブルースが当時二十代後半であるなら学生時代にDSM-Ⅳの改訂を最新のものとして学んだ世代だ―――を説明しているが、彼の語る理由とほぼ同じ動機といってよい。なぜなら、我々には、原因や表出の異なる精神疾患発達障害をすべて一緒くたにして、ケアを怠り、非人道的な私宅監置・長期収容・ヘイトクライム・手術や「治療」を行ってきた歴史がある。それを支えたのが「きちがい」や「狂気」という乱暴な言葉および人々の無理解だった。

だからこそ、エクスキュース*2の伺えない表出は実害を生ずる。以前とあるライトノベル作家が「言葉狩り」の文脈で「きちがいが使えなくなるのはおかしい、言葉が貧しくなる」と述べているのを見かけたが、現実から生まれた言葉にはそれなりの歴史の重みがあって、ファンタジーではなく、決して娯楽作品の道具ではないことを理解しないようでは、あまりにクリエイターとしての誠実さや教養に欠けるのではないか? 一方で、『BLUE/ORANGE』の「狂気と正気」にはどんな印象を受けたか。

【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況

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身も蓋もないことを言えば「狂気と正気」とはあくまでわかりやすく文学的な用法であって、よくある乱暴で軽薄な動機に基づくものではなかったものの、作品の主題を厳密に表現するなら「病理化されるものと病理化されないもの」だろうか。「他者を判断するに際しての妥当性と恣意性の境界」と言い換えてもいい。医学は様々な事物を病理と位置づけてきたものの、その権威の下に暴力的な扱いが横行した事例をあげれば枚挙に暇がない。乱痴気騒ぎを繰り広げた研修医と医者を「診断」しようと思えばいくらでもできるのに、クリス一人が治療すべき対象と位置づけられる。スーパーバイザーであるロバートに嫌われたブルースは研修医としての正当性を剥ぎ取られ、そのパーソナリティは精神分析に値するものと見做される。個人にせよ、社会にせよ、さまざまな権威が「治療の対象」を決定し、彼らの在り様を病理化する。

もちろんそれをもって「精神疾患は恣意的な基準だ」とは言わない。本作の主題も精神医学そのものを疑う話ではないだろう。一方で、歴史的に医学が「病気」と見做したさまざまな在り方は、当事者たちによる運動や研究の進展を経て「脱病理化」の対象となってきた。こうした医学の過ちを踏まえると、ロバートの「脱西欧中心主義」はまっとうなポスト・コロニアルの視点にさえ思えてくる。

それでも、ロバートの思想はどこかおかしい。「脱西欧主義」の用語は社会的な観点からすると至極まっとうな言葉なのだが*3、彼の論調は根本からズレているように思う。多様性に基づく思考とは、たとえばロバートのような健常者かつ異性愛者の白人男性中心ではなく、その他の人々にとっても心地よい世界を示唆するものであるはずなのに、彼はアフリカをルーツに持つ人々の属性を他でもない「白人男性であるロバート自身が」分析・決定しようとしている。そこに当事者たちの入り込む余地はない。

一方的に彼らを研究対象とし、スティグマを与える行為は、帝国主義的かつ植民地主義的な態度に過ぎないのに、何故かこれを「黒人である彼らへの理解」と勘違いしている。それを治療に持ち込むなど、医学の名のもとに女性を曲解してさまざまな自由を制限した19世紀*4の二の舞だ。措置入院からの退院についても、倫理的なガイドラインの点からまっとうな意見を述べているようにみえて、退院後のクリスの利益については歯牙にもかけていないところがゾッとしない。

彼の話を聞いていると、どうやら彼は現場仕事に倦み、コンプレックスを抱え、華やかな(と彼が思っている)教授職に舵を切りたいようだった。それ故にロバートは研究テーマをでっちあげたい。目の前のものをすべて自分の理解できる、思考しやすい物事として捻じ曲げて、医師としての適切なアセスメントを忘れている。これはいわゆる「無意識」の行いかもしれない。少なくとも彼は多くを学んで医者になったはずなのだから。

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

 

すでに述べたように、研修医ブルースが措置入院の延長を求めているのは教科書的な倫理観からすれば異例の事態だと思う。少なくとも2019年の現在、患者の長期収容が問題化されている日本においてさえ、本人の意思に基づかない措置入院には厳格なガイドラインがある。ベッドコントロールや地域移行後のケアへの無関心を除けば、ここに対してはロバートが「正論」を述べている。ブルースの「問題を起こさないうちに隔離をして治療すれば本人の利益になる」と言わんばかりの考え方は「傲慢で支配的」のそしりを免れない。そもそも―――退院間際になって診断の変更の必要性に気づいた時点で、一旦退院させる意外に道はないと思う。クリスが反発するのも当たり前だ。にも拘わらず、ブルースはまるで彼を、聞き分けのない子どものように扱っていなかったか?

原則として、生命・安全を脅かす切羽詰まった状況でない限り、本人の合意は何よりも優先される。そもそも、統合失調症の疑いがあるからといって、当人の望まない隔離を続ける必要性はない。どんな疾患を抱えていても、本人が望む限り、望む場所で生きる権利はあるし、それをサポートするためにイギリスでは地域福祉が発展したのだから、「クリスにいちばん必要なのは医療ではない」と判断して他職種に依頼をかけてもよかったのだ。それをしない独りよがりは「若い研修医」だからでは済まないだろう。もし、生活を維持するのが難しい状況に陥った場合―――たとえば、クリスが入院するきっかけになったのはマーケットでの性的逸脱行為だったが、そうした反社会的な行動によって繰り返し逮捕されるなどの不適応が生じた場合―――再び入院による治療が必要になる可能性もあるだろうが、ただ「統合失調症である」というだけで行動を抑制することに意味はない。通院治療や服薬をなんとか続けてもらえるよう、コミュニティソーシャルワーカーなどが地道に関わりをもっていくしか手立てはないのだ。

ブルースは終盤になって統合失調症に対する極端な「予後予測」を開陳してクリスを恫喝するが、もしかしたら、はじめから、退院後の生活への心配ではなく、疾患に対する社会防衛主義的な差別だったのかもしれないと疑ってしまう。けれどもそれはあまりにも悲しい。彼は自分自身が追い詰められていたがゆえに、クライエントに対して被害者ぶってしまっただけなのかもしれない。「こんなに頑張ってるのに、患者は、クリスは、ブルースの気持ちのいいように動いてはくれないどころか、自分に不利益を与えるのだ」と。医師と患者の権力勾配も忘れて。子どものように。

患者はコントロールの対象ではないし、肌の色の異なる他者は「自分とは違う」研究対象ではない。*5ブルースは専門職倫理をよくわかっていたはずなのに、わかっていなかった。同じくロバートもさも倫理的なことを語りながら、倫理面において圧倒的に欠けていた。この二面性は不思議なようにみえて、クライエントと密に関わる職種では珍しくない光景に思える。感情労働を伴いながら他者の利益にエネルギーを割く私たちは、ときにひどく被害者ぶる。一部の支援者に至ってはクライエントに「振り回されている」と感じることがある。いずれも対象が意思をもった人間であることを忘れて接しているから、相手の本音や指摘にドキリとする。

相手の言葉尻を拡大解釈する傾向にあったクリスだけれども、はたして本当にクリスの数々の認識は「誤解」だったのだろうか? クリスは初めからブルースを信頼していなかった。たった一か月間の担当医にも拘わらず、馴れ馴れしくされて、きわどいジョークを言われて、子ども相手のように誤魔化されて、気分がいいはずないだろうと思う。自分自身の行動・言動がすべて精神医学のフレームに嵌められようとするのを、ほかでもないクリスがいちばん鋭敏に感じ取っていたのではないか。

まるで追い立てられるように青い世界へ「解放」されたクリスの行方を、あんなにも熱心だったブルースが見届けることはない。病識のない彼の、不安げなまなざしに答えるものを、結局彼らが提供することはなく、ただ自分たちの「問題」について語り合う。青い世界はクリスの見えるままの世界だろう。それは医師たちが見ることのない世界であり、彼の病院外での生活であり、おそろしい「隣人」の群れであり、自由でもある。

ポスター ゴッホ/夜のカフェテラス TX-1848

ポスター ゴッホ/夜のカフェテラス TX-1848

 

*1:ただし、日本の場合、世界的には同じ職種であるはずのソーシャルワーカーはふたつの職能として分割されている。広範な相談援助を行う社会福祉士と、コメディカルである精神保健福祉士と、それぞれが取得要件の異なる国家資格だ。そのため私が精神保健福祉の世界に明るいわけではない。

*2:「差別は差別として描く」のが表現上のエクスキュースだろう。よくある勘違いが、表現から「悪」を消し去るのが批判者の目的である、という理解で、批判の対象になっているのが「自身の内面化している価値観に対して無批判なクリエイターが、それを創作物として適切な加工を施さずに開陳してしまっている怠慢」であることをわかっていない。

*3:2014年に採択された『ソーシャルワーク専門職のグローバル定義』には「ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。」とある。

*4:医学が女性にどのような不適切なアプローチを施してきたかは花伝社のコミック『禁断の果実』がユーモラスに描いている。

*5:「多様性の尊重」とは相手を自分と同じ尊厳ある人間であると認めることであって、「非寛容」とは自分と相手をまるで違う生き物かのように扱い共感性を持たないことである。「みんなちがってどうでもいい」キャッチーなフレーズが多様性を表現しているように語られることもままあるが、あらゆる差別は相手を「どうでもいい」と切り捨てて、極端な無関心と無感動でもって接した結果、彼らが自分にとって不都合な行動をしたときに怒りを生ずるものだと考えられる。