蜂蜜博物誌

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舞台『トンダカラ 2nd flight』(2019年)_感想

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第一回公演が海と死と夢の物語なら、第二回公演にあたる本作は「あたらしい家族」の物語だった。それもまた夢の話かもしれない。私だって、どこかの女性のパートナーになって子育てをしたい。異性と結婚をする未来絵図よりも胸が高鳴るし、私の妄想メーターは振り切れて、目の前のことを忘れてしまう。そうして余韻のまま二丁目のビアンバーに足を運んだが、ちょっとのロマンスだけ味わって収穫はなかった。物語は赤ん坊ぎらいの青年・ダニーが、下宿先の主・タイラの預かる乳児、アンナの扱いに戸惑うところからはじまる。

乾燥した欧州の日照りすら感じた第一回公演からずいぶん遠くに来た。お互いの意図や本心を知らないまま同じ時間を過ごしたふたりの男が、死に至る病と、ある女性への想い―――ひとりにとっては片想いの恋人で、ひとりにとっては妹だったが―――を共有しながら、夢のような死を迎える物語。それまでの人生がどんなに孤独でも、たとえお互いの真実や、自分自身の真実さえ知らなくても、最期の日々を彼らは共に生きた。閉鎖的な病院と、彼らの語る海への行道。想像に拠る戯曲の、さらに入れ子のような空想の数々に幻惑されたのをよく覚えている。

第二回公演は抒情的な前作と毛色の異なるハートフルコメディで、脚本・演出も前作の登米祐一氏がお休みしての高木凜氏だったが、詩的で幻惑的な雰囲気はそのままトンダカラの魅力として定着したのだと感じた。幕のない一枚の板の上、客入れから鮮やかに物語へ転換される瞬間は、繰り返して味わいたいほど演劇の面白みが詰まっている。時代はおそらく20世紀中頃の欧州。テナウ山にある木に囲まれた教会。ふたりの男と運命的なひとりの女。ダニーとタイラとモーラ。前作のキーを用いながらもあたらしく、幻想の海で死んだはずのダニーやタイラはたしかに遠くに来たのだと思った。ひとりの女性を巡るふたりの男が、今度は「死にはしないさ」と笑っている。

アンナの泣き声がピアノなのがいい。よその子どもの泣き声は相好を崩すほど大好物なのだが、不安を掻き立てる旋律は、子どもぎらいだったり、育児に疲れたひとにとって、赤ちゃんの泣き声はきっとこんな風に聞こえるのかもしれない。

原田優一演じるタイラはエキセントリックで可愛らしい。消えた恋人を探す鯨井康介演じるダニーの話から「妄想メーター」をフル稼働させた彼は、ウィッグを被り、彼の恋人の女優、ソフィア・テイラーを空想のままに演じる。愛らしくも滑稽な「ソフィア・テイラー」はダニーの恋人であるその人ではない。それでも演劇空間では彼のコミカルな芝居が回想として成立するのだった。そもそもダニーを介して思い出として語られる彼女はすでに彼女そのものではないが、さらにフェイクとしての「ソフィア・テイラー」が重なったとき、モーラ・クニットの本名を持つ幻の女性は、彼女を演じる俳優としての身体を持たないにも関わらず、架空と実在の狭間の地位を獲得した。ふたりの知るひとりの女性はすでにこの世になく、観客がモーラの姿を知ることはない。

妊娠したモーラは子どもぎらいのダニーの前から真実を告げることなく消える。それは笑えない男女の現実かもしれない。それでもモーラは血縁に拠らず子どもを慈しむことのできるタイラと出会えた。タイラがアンナを「同僚の子」と偽った背景にはシングルの経済難があった。これもシングル家庭の貧困率が50%に至る私たちの社会そのものかもしれない。それでもアンナは性愛に拠らない関係から成るふたりの父親を得た。

物語は現実のやりきれなさを軽やかに飛び越えて、夢のような瑞々しい世界をみせてくれる。ダニーは自分の子どもと知らずにアンナを愛する。彼らは子どもを介して「あたらしい家族」になった。いまの現実では夢のような話だけれども、あの光景は、いつかどこかで見れたらいい、胸のすくような未来だった。現実の悩みを置き去りにせず、それでも悩みを飛び越えていく、やわらかい救いのようなお話に、忘れていた妄想メーターがフル稼働する。

 

ふたり芝居といえば、いつかふたり芝居で観れたらいいな、と空想している映画がある。ポール・ダノダニエル・ラドクリフの『スイス・アーミー・マン』。本作とはあまり関係ないけど、ナラティブで攪乱するこれまでのトンダカラの雰囲気が好きなひとはきっと好きだろうと思うのでおすすめさせてください。