蜂蜜博物誌

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舞台『骨と十字架』(2019年)_感想

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Twitterでの評判とタイトルに惹かれて初めて新国立劇場の小劇場を訪れました。ロビーの壁面に飾られた原人から新人までの歩みや、ゴシック調が美しいフライヤーの原画は、いずれも引き算の舞台美術を補完するような装飾性の高いデザインで、着席前から観客を世界観に引き込もうとする意欲に満ちてわくわくしました。ただ、キリスト教的ロマンのある哲学的な作品を観るつもりでいた私としては、ゆる~いマンガ絵による相関図やTwitterの宣伝のノリはあまり好きになれなかったのですが…(あと何回か観てオタク目線でハマれていたらとても楽しかったと思う)

舞台は1900年初頭。教父にして考古学者である主人公・テイヤールは信仰と学問のはざまで葛藤するのですが、はじめこそ教会組織による外圧というかたちであらわれていた折り合いの難しさは、一幕の引き際、彼自らミッシング・リンクを埋める原人の人骨を発見したことで己の内側からもたらされる苦悩へと変貌します。一見、信仰と学問の相剋のようにみえますが、私にはそうと思われませんでした。なぜならテイヤールは外圧に抗っていたときでさえ、科学的妥当性を無視できない研究者のようでありながら、それ以上に神の存在を信じる宗教家だったからです。

 旧約聖書による人類誕生の物語を考古学的知見から否定しても「聖書の記述はあくまで比喩だが進化の過程に神は介在していた」というのが彼の主張でした。検邪聖省に属するラグランジュが彼を「異端」と呼ぶのもあながち暴言ではないかもしれません。公会議を重ねた末に統一見解を固めたキリスト教の世界において「持論への逸脱」は実態的な例外はあるにせよ形式上は警戒すべき対象になるでしょう。遠藤周作『沈黙』に描かれた「人たる弱さ、あるいは優しさ故の棄教」を赦す神の描写さえ、イエスの気高さを崇敬するが故に殉教を美徳として喧伝してきたカトリック教会からの反発を招きました。その点、科学という聖書を逸脱せざるを得ない分野に手を染めながら、決定的な否定を招くほど生物学の研究に邁進することはなかったリサンは、無信心の観客と同じくキリスト教的世界観と実証主義の相容れなさをよくよく理解していたと思います。一方で、双方の乖離を理解できないほど神を信仰していたテイヤールはそのリスクに頓着する様子がありません。

第二幕、目の前の考古学的証拠に神の不在を察したとき、テイヤールは独自の神の在り方を模索しはじめました。「進化の過程に神が介在する余地はない」と察した彼は苦悶ののち、自らの宗教体験や独自の解釈によって「人は自らの足で神に近づいていく」啓示を得たのです。私はそれにほんの少しずるさを感じてしまいました。進化も神の赦した人の子の姿であると信じれば今後どんな研究成果が現れても「神が認めた」ことにできるし、自分は神を信じていると固い意志を持っていれば周囲からどんなに異端を責められても「自分は信念を持っているのだ」と誇りを手放さずにいることができるからです。

沈黙 (新潮文庫)

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テイヤールは自分がキリスト教的枠組みから外れて独自宗教へと入り込んでしまったことに気づいていません。それを新しい神学と呼べば聞こえがいいのかもしれませんが、宗教と科学の合体は、本来価値判断を挟むべきではない厳然たる事実に特定の思想を付与してしまうという意味で悪魔的に思えます。もちろんキリスト教保守が教条的に教育すらも牛耳るような社会において神の不在を前提にするような学問がいかにマイノリティでありラディカルな扱いだったかは想像にかたくありませんし、劇中はそうした社会の空気に満ちていますから、彼をずるいと言い立てるのも不公平だと思います。けれども歴史を知っている私達にとって、ただでさえ優生思想の根拠として利用されがちな進化論を「神に近づくため」と位置づけるのを感動的に受け止めることはできません。宗教による教条主義も、宗教的価値観の恣意的利用も、害悪でいえば五十歩百歩に思えます。ですから、最初から最後まで、私はテイヤールの哲学にラグランジュと同じかそれ以上の警戒心を抱いていました。

この感想はモデルになったテイヤール・ド・シャルダンの生涯や著作を調べないまま書いているものですから、現実の彼の評価や影響についてどんな功罪があったのか現時点ではわかりません。ただ、この作品を通したテイヤールという人は普遍性のために学問を追求したというよりは、自らの信じるところの美しいものの根拠のために学問をしていたという印象で、悪く言えば牽強付会だし、よく言えば自身の精神世界のために苦難の道を歩んだ人でもある。その意味で『骨と十字架』に主人公を肯定的に評価する故の感動というものは一切なかったのですが、他の誰にもなりえない孤独な個人が、純粋さを保ったまま孤独に信念を貫いていく―――美しいような、不気味なような、ひどく共感し得るような―――姿に、火口見たさに妹を火山に連れて行った少年時代の彼が重なって、賛否の介入する余地のない、ひとの精神性の恐ろしさを感じました。

NHKスペシャル 人類誕生 大逆転!  奇跡の人類史

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