蜂蜜博物誌

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舞台『グーテンバーグ!ザ・ミュージカル!』(2019年)_感想

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2名の役者が限られたセットの中さまざまな役をこなすコメディであること以外、何も前情報を入れないまま足を運んだのですが、作品における劇中劇が印刷機を発明した実在の人物ヨハネス・グーテンベルクを扱ったものだったのは久しぶりに嬉しい誤算でした。というのも、リテラシーとはかつて単純な読み書き能力を指し、作中でも市民の識字力が問題にされるのですが、私自身、最近のあらゆる議論に、広義のリテラシーの社会におけるおぼつかなさを感じていたからです。文字が読めないがゆえに取り返しのつかないミスや差別が横行する中世も、文字が読めているはずなのにあえて心地の良い嘘を信じて歴史修正主義を公然と口にする人々が行き交う現在も、反知性主義が跋扈して、享楽のみを娯楽とし、差別が野放しにされている意味ではそう大きく変わりない。グーテンバーグがもたらした印刷機は世界の福音になりえたが、現代のリテラシーはあなたや私が頑張る以外に「希望」は存在するのかしら。劇中、不意打ちのような「バーニラバニラ」にケタケタ笑いながらそんなことをしんみり考えてしまいます。

中世の窓から (ちくま学芸文庫)

中世の窓から (ちくま学芸文庫)

 

本家『グーテンバーグ!ザ・ミュージカル!』は2005年、45分間のパイロット版が上演されたのち、2006年にオフ・ブロードウェイに進出してからも様々な賞を与えられました。脚本家・作曲家としてブロードウェイ進出を目指すダグとバドは、ミュージカルの醍醐味だと信じる「社会派娯楽」にあたる作品を書き上げ、多くのプロデューサーたちの前で上演します。ブロードウェイ進出の足がかりのための公演故に大掛かりなセットはなく、記名された帽子を次々取り替えながら多くを演じ、演出も逐一言葉にして伝えていくスタイルは、ミュージカルを俯瞰的に扱って滑稽な面白みを醸しています。本作はそうしたミュージカルのパロディであると同時に識字率の低いシュリマーと現代を重ね合わせる社会風刺の要素にも満ちていました。中世らしからぬ倫理観をもってユダヤ人差別を非難するグーテンバーグを通し、観客は歴史劇の舞台に現代への批判を見出します。というのも、これは現代の課題をそのまま上演するとあまりウケないというダグとバドの見立て故の手法なのですが、そんな建前で中世ドイツを描きながらも幕間のトークでは現代の風刺も忘れないのがまた小憎らしい演出です。

ここまでの大筋は本家のそれと共通するものでしょうが、原田優一と新納慎也の演じる本作は、劇中劇外の大部分の台詞が日本社会に合わせた風刺へ変えられていました。大本の脚本は入手していませんが、もともとそうした自由を許容する戯曲なのだと思います。そして、それが成功していてひたすら可笑しいときもあれば、風刺や時事ネタとしてはセンスが悪いと感じるものもままあり、本家をそのままやっても意味がないと確信しながらも、一方で日本の「社会派エンタメ」の未成熟さというか、作り手・受け手共にその土壌を形成してこなかったのだと痛感させられることがしばしばありました。

例えば「大阪城にエレベーターをつけたのはミス」は現首相への皮肉とわかって手を叩いて笑ったけど、「トランプとキムとミサイル」はどうだろう? と首を傾げてしまいました。もちろん蜜月のようなふたりのやりとりが海外でも揶揄をもって受け止められていることは知っていますが(下記要約ツイート参照)それを日本でやってしまうのはまた別の意味を与えてしまうのではないか? と素直に笑う気にはなれません。

というのも、独裁政権拉致問題から北朝鮮は日本社会にとって既に悪く言いやすい対象として世間に浸透しているからです。現在の朝鮮半島情勢が日本の植民地支配に端を発していることを踏まえると、ポストコロニアルの視点に欠けた日本の言論の未熟さをそのまままな板の上に乗せたに過ぎないのではないかと考えてしまいます。2000年代初頭日本テレビの夕方のニュースで何年も放送していた『北朝鮮の七日間』は朝鮮学校在日コリアンへの風当たりを強くしました。私は当時小・中学生でしたが、親が当たり前のように朝鮮半島の悪口を言うので、本当に嫌気が差しましたし、大人になった今でもテレビは差別的で恐ろしいので見たくありません。さらに、「トランプとキムがミサイルで日本侵略」みたいな切り口がはたして面白いのか? といったら、右翼でカルトの国粋主義者たちが政治家の顔をして国防を声高に叫んでいる社会なのだから、むしろそういった他国への敵愾心自体を風刺の対象にすべきだろうと思うし、北朝鮮を悪者にして単純化した国際情勢を消費するだけなら別に演劇でやる必要はないと思います。というか、作中であれだけグーテンバーグが仮想敵を作ることを非難しているのに、日本版のアレンジではそれをやってしまうのね。(もし本家がイラクを揶揄していたんだったらどっちもどっちだけど。)

これらを差し引いても、コメディの方向性として「風刺の方向がどちらを向いているのかわからない」と感じました。左派的な視点で政権を風刺したかと思えば、右翼的な視点でかつて植民地支配した国の情勢をこき下ろす、なかなかに尻の座りが悪いです。海外のスタンダップコメディや風刺ドキュメンタリーを見慣れている世代としては噛み合わないパズルを見ているような気分でした。もっとスマートに笑わせてほしい。

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

 

パロディなので多方面への関心があればあるほど面白い仕上がりです。政治ネタに関しては批判を挟む余地がありましたが、如何せんミュージカル俳優を生で見れたことは少ないので、その場で笑いはしても別に知識があるわけではありません。引き出しを増やすことは自分の喜びに直結するんだなと改めて思いました。「ライオンの王位継承争いやフランス革命ばかりがミュージカルではない」はさすがに私でもわかる。むしろ『レ・ミゼラブル』は2012年の映画版の大ファンなので「レミゼを揶揄しやがって!」みたいな感情はあるのですが、レミゼがミュージカル界における紛れもない権力であり、そうした花形ではない小さなミュージカルが集客に苦労するような現状がもしかしたらあるのかもしれない以上、それはまさしく風刺です。しかも子役時代にガブローシュだった原田優一が横にいるからなおさら面白い。

好きなものが風刺の対象になったときの態度、それこそ読解力というか広義のリテラシーにかかってると思います。たとえば最近では自分の好きな権力者の肖像を燃やされたからって背景も知らず、「権力」の何たるかも熟慮せず、従順に吹き上がってしまうダサイ人々が大勢可視化されました。いくら文字が読めたって学ばない人は学ばないことの証明です。

にも拘らず「きみはばかなんかじゃない、文字が読めないだけだ」とヘルベチカに語りかけるグーテンバーグは優しい人です。現実なんて、読み書き能力のリテラシーはあっても、妥当性のある解釈を導き出すリテラシーに欠ける人間しかいません。どんなに学術の素養のある人間でも油断をすればあっという間に足を踏み外してしまうでしょう。

厳しいことをいえば、リテラシーを高めるためには学術的な研究に裏打ちされた一般書を人生を通して読み下していくしかないのですが、人間心理のひとつである認知的合理性を求める欲求はフェイクニュースでも満たされていまいますから、知的欲求は諸刃の剣です。どんなに荒唐無稽な嘘でもその人の中で辻褄があっていれば人間わりと満足できちゃいます。「文字さえ読めれば」というグーテンバーグの期待は、差別や中傷もまた文字情報から生まれることを知っている現代人にとってはあまりに切ない夢物語かもしれません。しかしながら「言葉を飲み干す」ことの本来は、美しい理想のためであったのだと思い知らされるようでもあります。

リテラシーとパロディを主軸にした本戯作はクリティカルの面白さを存分に活かせるいい題材でしたが、独自の要素を組み込むにあたって主題が散漫になって、かつ生ぬるくなってしまったのかなあという印象です。もちろんいい感じに笑ってちょっと考えさせられて、すてきな時間は過ごせたけれど、同時に日本の「社会派」を娯楽に変える弱さを思い知らされたようで、やっぱり、脚本家ひとりひとり、俳優ひとりひとがもうちょっと社会へのリテラシーを養ってほしいし、観客もそれに応えられるだけの素養を身につけなければ、「物語」は痩せ細っていくばかりだと思います。とりあえず、きちんと校正に手間をかけてる岩波新書中公新書を読もう。印刷された、よいものを。