蜂蜜博物誌

映画や舞台や読んだ本。たまに思ったこと

舞台『骨と十字架』(2019年)_感想

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Twitterでの評判とタイトルに惹かれて初めて新国立劇場の小劇場を訪れました。ロビーの壁面に飾られた原人から新人までの歩みや、ゴシック調が美しいフライヤーの原画は、いずれも引き算の舞台美術を補完するような装飾性の高いデザインで、着席前から観客を世界観に引き込もうとする意欲に満ちてわくわくしました。ただ、キリスト教的ロマンのある哲学的な作品を観るつもりでいた私としては、ゆる~いマンガ絵による相関図やTwitterの宣伝のノリはあまり好きになれなかったのですが…(あと何回か観てオタク目線でハマれていたらとても楽しかったと思う)

舞台は1900年初頭。教父にして考古学者である主人公・テイヤールは信仰と学問のはざまで葛藤するのですが、はじめこそ教会組織による外圧というかたちであらわれていた折り合いの難しさは、一幕の引き際、彼自らミッシング・リンクを埋める原人の人骨を発見したことで己の内側からもたらされる苦悩へと変貌します。一見、信仰と学問の相剋のようにみえますが、私にはそうと思われませんでした。なぜならテイヤールは外圧に抗っていたときでさえ、科学的妥当性を無視できない研究者のようでありながら、それ以上に神の存在を信じる宗教家だったからです。

 旧約聖書による人類誕生の物語を考古学的知見から否定しても「聖書の記述はあくまで比喩だが進化の過程に神は介在していた」というのが彼の主張でした。検邪聖省に属するラグランジュが彼を「異端」と呼ぶのもあながち暴言ではないかもしれません。公会議を重ねた末に統一見解を固めたキリスト教の世界において「持論への逸脱」は実態的な例外はあるにせよ形式上は警戒すべき対象になるでしょう。遠藤周作『沈黙』に描かれた「人たる弱さ、あるいは優しさ故の棄教」を赦す神の描写さえ、イエスの気高さを崇敬するが故に殉教を美徳として喧伝してきたカトリック教会からの反発を招きました。その点、科学という聖書を逸脱せざるを得ない分野に手を染めながら、決定的な否定を招くほど生物学の研究に邁進することはなかったリサンは、無信心の観客と同じくキリスト教的世界観と実証主義の相容れなさをよくよく理解していたと思います。一方で、双方の乖離を理解できないほど神を信仰していたテイヤールはそのリスクに頓着する様子がありません。

第二幕、目の前の考古学的証拠に神の不在を察したとき、テイヤールは独自の神の在り方を模索しはじめました。「進化の過程に神が介在する余地はない」と察した彼は苦悶ののち、自らの宗教体験や独自の解釈によって「人は自らの足で神に近づいていく」啓示を得たのです。私はそれにほんの少しずるさを感じてしまいました。進化も神の赦した人の子の姿であると信じれば今後どんな研究成果が現れても「神が認めた」ことにできるし、自分は神を信じていると固い意志を持っていれば周囲からどんなに異端を責められても「自分は信念を持っているのだ」と誇りを手放さずにいることができるからです。

沈黙 (新潮文庫)

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テイヤールは自分がキリスト教的枠組みから外れて独自宗教へと入り込んでしまったことに気づいていません。それを新しい神学と呼べば聞こえがいいのかもしれませんが、宗教と科学の合体は、本来価値判断を挟むべきではない厳然たる事実に特定の思想を付与してしまうという意味で悪魔的に思えます。もちろんキリスト教保守が教条的に教育すらも牛耳るような社会において神の不在を前提にするような学問がいかにマイノリティでありラディカルな扱いだったかは想像にかたくありませんし、劇中はそうした社会の空気に満ちていますから、彼をずるいと言い立てるのも不公平だと思います。けれども歴史を知っている私達にとって、ただでさえ優生思想の根拠として利用されがちな進化論を「神に近づくため」と位置づけるのを感動的に受け止めることはできません。宗教による教条主義も、宗教的価値観の恣意的利用も、害悪でいえば五十歩百歩に思えます。ですから、最初から最後まで、私はテイヤールの哲学にラグランジュと同じかそれ以上の警戒心を抱いていました。

この感想はモデルになったテイヤール・ド・シャルダンの生涯や著作を調べないまま書いているものですから、現実の彼の評価や影響についてどんな功罪があったのか現時点ではわかりません。ただ、この作品を通したテイヤールという人は普遍性のために学問を追求したというよりは、自らの信じるところの美しいものの根拠のために学問をしていたという印象で、悪く言えば牽強付会だし、よく言えば自身の精神世界のために苦難の道を歩んだ人でもある。その意味で『骨と十字架』に主人公を肯定的に評価する故の感動というものは一切なかったのですが、他の誰にもなりえない孤独な個人が、純粋さを保ったまま孤独に信念を貫いていく―――美しいような、不気味なような、ひどく共感し得るような―――姿に、火口見たさに妹を火山に連れて行った少年時代の彼が重なって、賛否の介入する余地のない、ひとの精神性の恐ろしさを感じました。

NHKスペシャル 人類誕生 大逆転!  奇跡の人類史

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舞台『クレイジーメルヘン』(2019)_感想

f:id:gio222safe:20190626112457j:plain映画『ラ・ラ・ランド』の真逆のようなオチは好き嫌いの分かれるところだと思いますがオールフィメール演劇の良さを活かしたような脚本で個人的には面白く観ることができました。社会風刺がコメディとしてきちんと成立しているのも好印象。例えば舞台には大衆受け狙いから一線を画した作品が多くある一方で、今どき民放でもやらないような性的偏見表現ゴリゴリのメロドラマだったり、笑わせるつもりでエクスキュースのない性差別やセクシャルマイノリティ差別を放流していたり、単なる現状追認に甘えた質の低い戯作がごまんとあるわけですが、本作はレイシズムや優生思想やBPOに問題視されるネットTVの過激さなどの社会問題として扱われる要素を貪欲に散りばめておきながら、それらを馬鹿馬鹿しさとして風刺的に扱うことに長けていたため「ああ、この作家は信頼できるな」と安心して楽しむことができました。風刺的な扱いではないけれど母子家庭の貧困・保育士の薄給にも触れている。主人公をサポートするレズビアンの描き方も最初の掴みは過剰に性的だと感じたけど総合するといい感じ。「戸籍を取り寄せると…」あたりはもっとヒエラルキーを形成する馬鹿馬鹿しさを突っ込んでフォローしたほうがよかったんじゃないかと思うけど(それこそ戸籍制度を利用して維持された現実の在日コリアン差別*1は目を覆うほど酷いので)いずれにせよブラックジョークを表象に取り入れるのであれば作家が時事にまっとうな感性を抱いてることは最低限だと思いますからクレメルはその点うまく仕上げたんじゃないかと。偏見の垂れ流しかブラックジョークになるかの境目は微妙に見えてはっきりしているので。

演出は可もなく不可もなく。演者の不慣れをカバーできるほどの力量ではないし、観劇の喜びを味わえるような美の追求はないものの、どこかで見たような演出記号を組み合わせていたので表現したかったことはよくわかる。その記号自体も全体的に装飾性に乏しいのは脚本がパワフルなぶん物足りない。それまでの「現実」から何のクッションもなく突入していた夢との混線や、シーン展開のメリハリのなさは、他の作品であればいざ知らずクレメルにとっての最適解ではなかったように思います。もちろんあそこまで大人数をまとめあげながら演出の質を上げていくのは難しいと思うので「がんばって…!」としか言えないのですが。良かった演出はおもらしの黄色いライト。あれは(いい意味で)ひどい。時間が巻き戻るシーンは「この演出、この一年で5作品は見たわ」「いつまで演劇はビデオ時代を引きずってんだ」という気分で食傷気味………と思っていたのですが登場人物それぞれの迷台詞の掻い摘み方が可笑しくて可笑しくて、その他たくさんの作品における時間の巻き戻し演出の中では一等好きです。クレメルの台詞選びが好きだなあ。プリプリピチピチの伊勢海老とか本当に意味わかんないけどお気に入り。

主人公・ミコトの家訓は「Don't think! Feel!」。これはしばしば受け手が「ツッコミどころは山程あるがバイブスを感じる作品」に対して使うフレーズなので最初は「批評に対する予防線かな」と邪推したりもしたのですが、原典になった映画の台詞は「真実を見据えないといつまで立っても栄光は掴めないぞ」という趣旨なんですね。爆裂チーム初日のみの観劇でしたが、ミコト役の三人はいずれも主人公として立つことに馴れていたように思います。中学生のミコトが社会人のミコトに諭す「みんな意思を持って仕事をしてるからぶつかる」との言、自分自身がクライエントとサービス提供者を繋ぐ調整の仕事をしているので心から頷きました。そこからのオチは梯子を外された気分にならなかったかといえば嘘になるけど別に仕事に順応することがテーマじゃないし、『プラダを着た悪魔』のアン・ハサウェイだってあの職場を去ったことを思えばなんだか転職多めのアメリカ映画っぽい選択で私は好きです。

プラダを着た悪魔 (字幕版)

プラダを着た悪魔 (字幕版)

 

新人さん多めなのか、演者による実力のバラつきはあったものの、個性強めで性格の悪い女たちの群像劇は痛快で、これはあまり熟れた役者ばかりにやってほしくはないなあ、とも思いました。ただ声量のバラつきは観劇の快適性を損なうのでもうちょっと頑張って欲しかったかな。物語運びとテーマ性のバランスもよく、小劇場系の脚本でよくある変な背伸び(※脚本の力量に伴わないやたら壮大なテーマをぶちこむ、よく知りもしない社会問題にいっちょ噛みする)がないおかげで、等身大のB級映画が好きな人はツボにハマるんじゃないかしら。女の子のエンパワメントコメディとして愛らしい掌編なので、これからもいろんな演者、いろんな演出で見たいなあ。

ラ・ラ・ランド(字幕版)
 

 

*1:梁英聖 著『日本型ヘイトスピーチとは何か -
社会を破壊するレイシズムの登場-』

舞台『みんなのうた』(2019年)_感想

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2014年に第26回池袋演劇祭に出品されたIKKAN氏脚本演出の再演である本作はテンポよく飽きさせないサービス精神に溢れる戯曲だったが、安堵と爽快感を覚える結末に至るための道程は、狙いこそ察せられるものの伏線とおぼしき要素要素がちぐはぐだった。「みんな」から愛されていたはずの主人公の人柄を語らず、能力ばかりを強調し、わかりやすい悪人や下層社会の描写はときに成立させるための無理が目立つ。男女関係にまつわるシーンの山場は告白・セックス・プロポーズ、そして妊娠。記号性の目立つ恋愛描写は主題に不可欠であるはずの絆の在り方がほとんど描かれない。肌に合わない以上に「これをできる人がどうしてここには無頓着なんだろう」ともどかしさに苛まれてしまう脚本だった。次から次へと場面が切り替わり二転三転する演出は観客を退屈させないことには優れているし、薄暗いテーマに軽妙さを与える戯画化された端役たちのお祭りは楽しかった。とりわけフィクショナルな端役たちを巡る「わかりやすさ」は世界観の妙として魅力のあるものだったと確信している。一方で、複雑な現実が横たわっている問題をワイドショー的な理解のまま物語に引用する「わかりやすさ」に関しては、倫理観にまつわる議論以前にステレオタイプへの依存と無知がダサい。例えば劇中、痴漢冤罪のときには息子を庇いきれなかった父親が殺人容疑になってようやく「そんなことするような子じゃないんですよ」と涙ながらに口にする場面があった。信じることや愛の在り方を巡る対称性を狙った意図は理解できるけれども、その象徴性ひとつのために「痴漢冤罪」を扱うにしては、提示された文脈・表現は巷の偏見と何も変わらず、せっかく虚構の土俵に乗せながらクリエイティビティのかけらも見当たらない。

「転落」を描きながらトラブルのほとんどは主人公を貶めきれず、物語終盤の詐欺被害と「殺人」をもってはじめて彼は全てを失う。「順風満帆だった男の人生が徐々に狂い始める物語」ではなく「プライドを満たせない状況を受容できなかった結果詐欺に引っかかる男の物語」として受け止められた。(もちろん現実の詐欺において被害者に落ち度はない) であれば大井川一郎という人間の在り方を台風の目として君臨させてもおかしくはないが、主人公の自分自身に対する評価が不明瞭なまま状況だけが様変わりしていく。取り巻く環境は「極端に悪意がある」か「不自然に悪意がない」かのどちらかで「主人公を悲劇のヒーローに仕立てたいけどフルボッコはかわいそう」とでも言いたげな煮え切らなさが常に横たわる。手ぬるい処遇が却って大井川一郎のキャラクターのうまみを追求し損ねている。『みんなのうた』は目に見える違和感と共に、たくさん生み出されていたはずのおいしい材料がいずれも調理されないまま終わっていたように思えた。

いかんせん台詞での「説明」が多い。時の流れの目まぐるしさのために独白を挟む演出は好きだった。それでも一郎が何を目指して何を忌避していたのかはわからない。劇中、嫌味な後輩・後白河が最難関である理Ⅲに合格したことに劣等感を覚える描写があった。ところが終盤になって一郎は幼くして母親と死に別れ、いっときでも医者になりたいと願ったことが明らかになる。ならば理Ⅲこそ他でもない医学部への登竜門であるはずが、彼がそれに挑戦した形跡は伺えない。むしろ一郎は慢心とも取れるほど早くに勉強を切り上げていた。「新東大であれば学科はどこでもいい」認識だったのだろうか? 教授を父親に持つセリナの影響だろうか? 勉強のペースを落としたタイミングから考えるとその線はないだろう。いずれにせよ進路選択は人生を描くために注視すべき要素であるにも関わらず、大学名だの学科の難易度だの、本質には程遠いステータスの話ばかりで彼の青写真は不明瞭だった。新東大ブランドを気にするわりには学科ブランドに無頓着だったのも解せない。ようするに彼は「何がしたいかわからないけど新東大でなきゃダメ」と強迫的に思い込んでいたのだったが、それを示す鍵は影によって表現されたどこに住んでいるかもわからない親戚の群れだった。身内としての肉体を持たないがゆえに一郎にしか見えない幻のような彼らとの交流の程はわからない。親戚ではなく有象無象からの重圧の表現であれば適切だったかもしれない演出に大きな違和感はないが、その記号性で「なんかすっごいプレッシャー」を連想できるに留まって、関係性の不明な彼らの期待さえまともに受け止めてしまえる一郎の、繊細過ぎるほど生真面目な(あるいはプライドの高い)パーソナリティの中身に触れらることはなかった。一郎が新東大にこだわる理由について姉も首を傾げていた。そんな姉の鈍感さを責めるように「わかってもらえない」と独りごちる彼もまた、世間並みに弟の受験を心配し、世間並みに彼の幸せを願い、世間並みに同じ両親から生まれた子どもとして、弟と適切な距離を保ちながら人生を歩みたかったはずの彼女を、まるで好き放題甘えられる母親のように扱っている。

ストレスに至るために必要な環境因子と個人因子の相関のうち、後者についての描写が圧倒的に不足していたのだと思う。環境因子にしても、最も身近な父親や姉に権威性はなく、彼の行く先を縛るほどには頓着していないので、親戚たちのガヤだけでは説得力として不十分だと感じた。せっかく母親との関係で「賢い自分」の自意識を確立した回想を用意していたのだから、いっそ他人からのプレッシャー云々は省略してもよかった。「一郎が他人からの期待だと信じていたものは他でもない自縄自縛だった」推測に至るには、大井川一郎の自意識の在り方についてあらゆるコンテクストが無頓着だったと感じている。

現実に大学を除籍になった経歴を持つ牧村朝子さんの下記コラムを読んで、私は「勉強ができる」ことで教員から「点取り虫」「可愛くない」と言われつづけ、一方では生徒会役員を期待されたりクラスメイトからは「頭いいキャラ」として距離を置かれ揶揄われた中学生時代を思い出す。勉学にまつわる自意識と自己承認欲求と他者評価と寂しさの相克。私は一郎に共感できるはずだった。それでも一郎の描き方に痛みを感じることはできなかった。

学生の身分を失って社会に放り出された後の展開はいよいよシリアスなんだかコメディなんだかわからない。ヨージと鈴子の家に転がり込むところまではよかった。その後の身の振り方として「就活に失敗」とか「アキラたちに対抗して劇団を立ち上げるも振るわず酷評」とか「城内塾時代のつてで起業したが裏切られる」とか、これまで散りばめられた材料を活かすかと思いきや、大井川一郎は突然きれいめのウシジマくんへと変貌してしまったのだった。しかもスカウトの理由は顔。びっくりするほどフィーリング。もちろん、全編を通して彼の「顔」に何らかの象徴性を持たせたかったことは理解できる。顔によって惚れられ、顔によって評価され、顔によって目をつけられ、顔を隠し、顔を変え、「もっともっと褒められたかった」自意識の象徴としての顔は、再会した息子に「顔がいい!」と無邪気に肯定されることで救済を得る。台詞回しはとことん下世話だが、目の付けどころとしてはシンボリズムを想起させる美しさがあった。とはいえ、いきなり顔を理由にスカウトされるのは唐突が過ぎる。もう少しやりようがあったんじゃないかと思う。あるいは、あそこまでフィクショナルなシチュエーションに持っていきたいのであれば、もっと顔の象徴性をひとつ輪郭として固めるべきだった。

謎の男がいきなりハードボイルドなアンニュイ感を醸し出すのは面白かった。けれどもそれ以降、生真面目に世界観に没頭する気力を失った。もしかしたら名前のない男と逃亡生活中の一郎を重ねたかったのかもしれないが、既に述べたあらゆる伏線狙いのファクターと同じく、キーワードを「考察待ち」と言わんばかりに並べただけで、それらを統合するための処理を怠っている。下層社会に足を踏み入れるにしても「働かずに済むなら」と独白した直後めでたく就職先が決まってしまうのはあまりにもジェットコースター展開だった。なんならネットカフェ難民として生活する描写があってもよかった。繁華街を通り過ぎる人間から見下され、暴行され、福祉事務所に保護を求めようとするもプライドが邪魔してとんぼ返り、等々。一郎を追い詰めようと思えばいくらでもできるのにひたすら手緩い。あるいは社会問題性の高い描写を意図的に避け、娯楽としての表現にこだわったのかもしれないが、であればもっと気を配らなければならない点はいくらでもあったはずだ。「ああすればよかったこうすればよかった」と言いたいのではなく、彼が何を忌避して、何に限界を感じ、何を妥協し、どこで自暴自棄になったのか。いまいちわからないまま物語が展開していくことに、いい加減遣る瀬無さを感じ始めたのをよく覚えている。

主人公がどんなに「転落」してもかつての仲間たちから白い目で見られないことも不自然だった。彼女と同棲してる友達の家に転がり込む非常識な行動は、仲間内に後々の禍根を残せるほどおいしいエピソードなのに、それが十分生かされていないのがもったいない。鈴子の親友である栞が変わらず一郎に想いを寄せてるのも不可解だった。片思いの相手が異性のいる家に転がり込むの、よっぽどのマゾじゃない限り冷めるどころじゃ済まなくない? それとも栞ちゃん、恋に盲目なのかしら。どうせなら鈴子の相談を受けて「先輩、もしよかったらうちに来ませんか…?」なーんて誘うくらいかましてもよかったのに。

結論から言えば後半の栞の失恋は「マジ泣きするほどか?」と違和感があったのだった。高校卒業後、ほとんど会ってもいない男性に想いを寄せ続け、結果真に受けてもらえずマジ泣きする姿は、アキラとの確執に繋げるためのご都合主義としか思えなかった。どうせなら、親友がどんなに迷惑を被った男であろうと、ここぞとばかりにアプローチをかける「恋に恋するエネルギッシュな少女」としてキャラクターを確立させていればよかった。彼女の一郎に対するあっさり感と実は秘めていた想いのバランスは魅力的なように見えてシーンによっては唐突さも覚える。繰り返しになるが、アキラの想いをジョークとして流してしまった因果応報として彼女の失恋を表現したかったのであれば、もっと丁寧に栞のキャラクターを描くべきだった。パーソナリティ描写の不足は大井川一郎に限らない。「一郎先輩はゆりえ先輩と付き合ってるのかな…」と心配しながら彼女へのサプライズに一郎をあてがう栞の警戒心の程度にはさすがに首を傾げた。自滅があまりにも鮮やか。

話は逸れたけれども、いっそ鈴子が栞の家に行ったきり帰って来なくなってもいい。その結果、ヨージとのあいだにさえ亀裂ができてしまってもよかった。鈴子の苛立ちをあれだけ無視しておきながら(気づいてないのか?)わかりやすい揉めごとをきっかけに自主的に出ていくのは肩透かしもいいところだった。ほかでもないヨージに拒絶されるほうがドラマとして面白い。口ではつい乱暴なことを言いつつも、ヨージがなんだかんだ鈴子を大切にしている証にもなる。「なんでおれの言うとおりにできないんだよ」と恫喝したヨージは紛れもないモラハラ彼氏なのだが暴言を撤回するフォローすら入らない。 あれに危機感を覚えない女性も少ないと思うが、ふたりはその後も円満らしい。一郎も一郎で、あの状況で「どこでも疎まれる」って当たり前やん。恋人でもない異性がうちに住み着いてたら女の子は嫌で嫌でたまらないよ。なに拗ねてんだよ。

ともかく、私には彼が最後までチヤホヤされて恵まれているようにしか見えなかった。「転落」といっても、彼のプライドを満たせない状況が続いているだけで、側からみれば浮き沈みはあっても、彼は決して孤立しなかったし、わりとすぐにスカウトされてウシジマくんになったおかげで経済的困窮もしなかった。彼の人生は心理的障壁による選択の迷走がほとんどで物的・社会的側面での剥奪はほとんどなかったといってよい。追い詰められたにしては不自然なほど過去の栄光が生きていた。ひたすら手緩い、と感じた。

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

一郎の自縄自縛の内面にドラマを見出したかった。もっと窮迫し、孤立してもよかった。そこから再び「みんな」との信頼関係を取り戻し、それでもたったひとりの人間・アキラとのわだかまりによって殺人未遂に至ってしまうのであれば悲劇性があった。この事件を通して、仲間たちがあらためて彼に対する受容のかたちを模索するのであれば、呼び込みどおりの「みんなとの絆の物語」として成立したと思う。ところが、既に述べたとおり登場人物は一貫して一郎に対して寛容で、不自然なほど悪意がない。再会した鈴子も「おかえりなさい」と戸惑いの笑顔を浮かべながら、それでもかつて自分が受けた苦痛について本心を明かすことはない。とうの一郎も鈴子に頭を下げることはない。彼女が文句を言えない立場であることを知っているはずの一郎に誠意は伺えない。あのシーンは明らかに「赦し」の描写だが、「水に流す」ことを年下の女の子に強いる構図は美しい表象とは言えない。つまらないリアリティはあるけれど、二人の間柄に「絆」を見出すのは難しい。

そもそも高校時代から一郎が「人気者」足り得る理由は「一郎先輩はすごいなあ」に終始している。「すごいなあ」の中身は彼の性格ではなく顔や才能なのが物悲しい。輝いていた時代の求心力を容姿・能力に限定するのは解せなかった。そこは「一部の評価」としての取り扱いでよかった。だって、高校時代の彼には、優柔不断で情を捨てられない優しさがあったじゃないか。めんどくさがらずにさまざまな部活を助けた。アキラだって受験を控えているはずの一郎に救われた。ヨージも彼のお節介で強がりを解きほぐすことができた。そうした大井川一郎の美点は強調されない。「みんな」が愛した彼の人柄が語られないまま、ただ「すごいひと」として仲間の口の端に上り、上滑りの幸と不幸を行ったり来たりする人生の顛末は、「結婚」というあざといほどわかりやすい幸福のシンボルに辿りつく。

大学受験にせよ、できなかったアルバイトにせよ、一郎は「ステータス」の価値観から自由になれないことで不幸になった。にも関わらず物語は既存の幸せのステージを疑わない。好きな子からの告白・セックス・そして結婚。ならば、はじめからこの物語の中で一郎が自由になれる余地などなかった。大切なのは告白のイベント性ではなく恋愛の豊かさであり、セックスの事実ではなく心を交わした過程であり、結婚ではなく二人がどんな日々を紡いでいるか―――であるにも関わらず、主人公を巡ってのそれが描かれることは一切なかったと記憶している。大井川一郎がいったいどんな人間なのか、自分らしい生き方とはなんだったのか、どこで間違えたのか、どう起動修正すればよかったのか、それでも自分はたった一度の命を幸福に生きる権利があるのだ―――そんなさまざまな疑問、悩み、願い。物語のそうした視点の欠如は彼の不幸の要因を外部に求める。<きみのせいではないよ、ひと一人の死も、思いがけない妊娠も、きみはいろいろなひとを傷つけたけど、それでも軌道修正のできない「悪」だけはきみのせいではなかったのだ>と。

それでもガス抜き効果の高いコメディを挟む卓越したテンポのよさが功を奏して、あれよあれよと大団円を迎えたため、終演後に爽快感を覚えたことは嘘ではない。とりわけ森公平の存在の説得力は凄まじく、エモーショナルな挙動を抑えているにも関わらず、多重のストレスによって表情を失った人間の、ぐるぐるとした頭の中がにじみ出るような様子とニヤニヤ笑いが素晴らしかった。背中のチャックが閉まりきってないアイドルも可愛かった。それでも、思い返すと戯曲と自分とのジェネレーションギャップに鬱々とした感覚が蘇る。借金の取り立ての場面で「風俗でもなんでも紹介して」と元カレに頭を下げる女の、中高年男性の妄想めいたセックスアピール。女の子のほっぺを乱暴に掴み「やっちまうぞ」とイキる、20代の若者の口から飛び出た台詞にしては時代を感じる雄々しいアピール。

ゆりえが一郎と復縁したかったのは火を見るよりも明らかだが、部屋に通って甲斐甲斐しく世話を焼いていたからといってまるでセックス待ちのように扱われ、暴力的な扱いで男女の関係にもつれこみ、にも関わらずめでたく縒りを戻す展開はカンチガイ男の妄想と区別がつかない。そういう趣味の女もいるだろうが、ゆりえは高校時代の優しい一郎に恋をしたのだから、いくら復縁したかったとはいえ、女を人間と思わない元カレの変わりように何のリアクションもないのが不思議だった。もちろん恋に理屈はいらないが、レイプまがいのセックス導入で円満に至るのであれば、ゆりえの献身的な愛の在り方やその必要性を強調する必要があったと思う。

青年誌の世界に放り込まれたような女たちの媚態や、痛々しさすら感じる暴力性アピールの激しい男たちも、作品の端役として活躍するぶんには面白い。倉木や御影もエンタメ性が高いし、セリナのような「悪女」であればなおさらマンガ的な痛快さがある。けれども一郎とゆりえだけは誠実な関係性を築いてほしかった。『みんなのうた』はエロやアングラを楽しむ作品ではなかったと思うし、そうした過剰性は戯画化の対象として扱われていたはずだ。それにも関わらずテーマ性を背負ったふたりを古臭いねっとりとした男女観に巻き込めば、それがエンタメのスパイスではなく作者の感性の古さとして受け止められてしまう。愛と性にまつわる表現手法について、もっと繊細な眼差しが欲しかった。

不幸に結びつくにはあまりに強引だと感じる分岐点も多かった。物語の組立自体がフィクションの「お約束」に頼りすぎている。「お約束」と言っても可愛らしいものではなく、性差別的な社会に支えられたステレオタイプだが。

例えば既に批判した痴漢冤罪の一件は、2007年の映画『それでも僕はやってない』以降に流行りだしたイメージに過ぎない。痴漢のシチュエーションも、鉄道員からの聞き取りの場面も、父親の発言も、巷に蔓延る誤謬や偏見を再生産しているだけで、わざわざ物語の俎上に載せる価値があったようには思えないのだった。倫理観とか正しさとか誰かが傷つくとか、そうした問い掛け以前に、世間の「あたり前」を疑える数少ないフィールドである創作において、くだらない世間のくだらない言説のくだらない尻馬に乗っただけの再現がクリエイティブや知性や感性としてクソダサイ。どうかプライドを持って戯作をやってくれと尻を叩きたくなった。これは『みんなのうた』に限らない、あらゆる戯曲への願いでもある。尖った表現のつもりで世間の尻馬に乗ってるだけのセンスが演劇では未だ通用してしまう怠慢にはそろそろうんざりする。

恋人が思いがけず妊娠したために一郎は大学を除籍となるが(それも無理筋な展開だが)本当の父親である倉木に認知が期待できないと知ったセリナは、おそらく一郎を子どもの父親にしたかったはずだ。子ども自身の扶養や相続の権利に関わる嫡出の問題をそのままにしておくわけにもいくまい。にも拘わらず、セリナの父親はなぜ認知もさせず一郎を大学から除籍にする「だけ」で済ませてしまうのか。「孕ませたのは悪いけど孕ませた後のことは構わないでいいからね」と言わんばかりの処遇はまるで罪が射精の一瞬にあるような言い分だ。いくらストーリーの都合といっても、妊婦や子どもに対して一切責任を追わない立場のまま放逐させる方向性でよしとした判断の基準がわからない。倫理的な話ではなく受け手を物語に集中させるための「説得力」如何の問題だ。中絶費用の折半もさせない。手術の立会い場面もない。産んだ子どもの噂も聞かない。一郎が疑問に思わないのもおかしい。自分の子どもと言われた存在の生死について、彼が一切気に留めてないのも恐ろしい。

あの状況であればセリナは中絶してもおかしくはないが、何の心境の変化か(嫡出推定の裁判でも起こされたんだろうか)倉木はお腹の子を認知したようだった。その後セリナの懐妊は「一郎のせい」ではないと明らかになるが、どうやら彼女はこれを自覚的に悪用したらしい。少なくとも倉木はセリナをそう扱い、セリナも「やめてよ」と言いつつ具体的な言い訳を口にしない。在学中の妊娠なんて本人がいちばん動揺するはずだろうに「女が妊娠を利用して男を貶める」物語の種明かしに、これが女ぎらいな男性の被害者願望を満たすステレオタイプ以外の何物だろうとげんなりした―――そもそも、妊娠4週を2カ月と偽る時点でアホらしく、彼女の懐妊を巡るエピソードは初めから破綻している。7年後、セリナが無事に子どもを産んで、倉木となんだかんだ楽しそうにカフェを訪れる終盤に胸を撫でおろしたのは事実だった。けれどもそれは彼女が不幸にならなかったことへの安堵であって、一郎が彼女に対して八つ当たりのようなセックスをした挙句、避妊を怠ったこと(紛れもないレイプだバカヤロウ)が免責されたわけではない。

もちろん一郎が家族と共に「今まで傷つけた人たちに謝ろう」と決意したことを仄めかすシーンはある。それでも大団円の爽快感のために取り返しのつかない「殺人」や「妊娠」の責任をパージしたかったことは物語の意図として明らかだった。はたして避妊もせずにセリナをレイプしたことは不可逆的な罪に当たらないのだろうか。それとも「自分の種じゃなかった」し「セリナは悪女」だから行為の責任を背負うに値しないのだろうか。……繰り返しになるが、この無茶なセリナの妊娠エピソードがたとえゆりえとの対比だとしても、男を巡る聖女と悪女の構図をいまどきマジで描くのは怠慢でなければ、よっぽどの自信と知見があっての冒険だと思う。

みんなのうた』の焦点が一郎とアキラに絞られたものであればよかったのにと心から思ってしまう。同性間の拭いきれない羨望や嫉妬、それでも確かに存在した愛情めいたもの。ハイテンポの中であっても丁寧に描けば、青春の感情の揺れ動きや眩さ、そうしたものがくすんでいく様子さえ、一種の夢のように受け止められたのではないか。初演のフライヤーのイラストは彼らだろうか。私はあれがとても好きだった。

「演劇にのめり込む」とあらすじで語られていた一郎だったが、気持ちは明らかに受験勉強に寄っていて、仲間への情と試験への焦りの狭間にある様子はよく理解できたけれども、全編通して芝居への熱意が描かれていたかといえばそうではない。一郎にとって芝居はあくまで美しい思い出だったように見える。息をするようにそれを為すライフワークには至らない、あくまで瞬間的な体験。昔取った杵柄。演劇にのめり込んでいるのは一郎ではなかった。不器用ながら将来を掴み取ったのはアキラのひたむきさだった。一郎は才能がありながらも目移りして、どこにも腰を落ち着けられず器用貧乏に収まった。

行動力のあるアキラとプライドに縛られた一郎。二人の生き方は対照的で、それでもアキラは一郎を見上げていたのだったが、最期のドス黒い感情が吐露される前に描かれていたのが恋敵としての妬みばかりだったのはもったいない。アキラが栞を傷つける男たちに対して敵意を顕にしていく過程は意外な本性の発露としてのおもしろさがあったけれど、一郎に対しての黒い感情は、たかが恋敵のそれではなく、不器用な自分のアイデンティティを揺るがす焦燥感だったのだから、ふたりの人生が唯一交わっていた学生時代に憧れの先輩への愛憎が仄めかされてもよかった。一郎は小ばかにすることはあってもなんだかんだアキラを可愛がっていたし、アキラも天上の存在か救世主のように一郎を尊敬していた。アキラはいつから一郎を「同じ人間」として嫉妬の対象に据えたのだろう。

それは芸能人として成功して、それでも栞に振り向いてもらえなかったときかもしれない。アキラの気持ちを想像してみる。<どうして可愛いあの子は僕を好きになってくれないんだろうか。芝居だって知名度だって、僕はあの人よりもよっぽど上になったのに。……> 理解し難い感覚だけれど、どうにも一部の卑屈な男性たちは、容姿が優れて能力さえあれば、それに応じて女心が手に入ると信じている。女性の存在は業績に対して与えられる報酬であると、まるでサンタクロースのプレゼントを待ち望む子どものように信じている。そんな下世話な憶測を当てはめたところでアキラの本心はわからない。それでも、人間と人間の愛情は必ずしもステータスに左右される質のものではないにも関わらず、現に彼の失恋は容易に一郎への憎悪に結びついてしまった。合同公演で助けられたとき、アキラは何を思ったのか。純粋な感謝だろうか。それとも嫉妬だろうか。ふたりにとって大切なエピソードであるそれを彩る感情は少ない。

双方の決裂はロマンティックにさえ思えるのに、揉めている最中のアキラの吐露が解説として機能したくらいで、ふたりの確執が描かれたシーンは物語のボリュームからすると終盤の微々たるものだった。二人の再会から殺人未遂までワンシーンしかないのももったいない。ドラマの撮影所の近くであんなに揉めて、それでも駆けつける人がいなかったのに違和感を覚えたこともあるが、もっと二人の立場の反転を印象づけてもよかったのにと考えてしまう。互いに顔を合わせることもなく離れているからこそ仮想敵としての恨みが募る側面も確かにあるけれど、あっさり暴力沙汰になってすんなり受け止められたのは演者たちの熱演によるところが大きい。そもそも受験のときの風邪をアキラのせいにしてもよかったのに一郎はアキラを一切責めない。これは当時の一郎の優しさだったはずだ。あからさまな伏線のように演出されておきながら、それとも一郎は気づいていなかったのだろうか。大きな分岐点のひとつだったはずのそれに最後まで光が当たることはない。

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

 

既に少し触れているが、一郎とゆりえの関係をもっと愛情のあるものにしてほしかった。卒業以降、一郎がゆりえを一人の人間として尊重した場面が思いつかない。ゆりえとの復縁も「恩を売る」立場に乗じて男女の関係にもつれ込んだだけで、当時勝手に「自然消滅」を決め込んだことに決着をつけた様子もなく、力関係の不均衡なふたりが再び対等な立場で愛を育む様子は描かれなかった。お互いに腰を落ち着けて向き合う場面がひとつでも欲しかった。高校時代のきらきらした彼でなくなってもゆりえは一郎を愛すると決めた言葉がほしかった。それまではプライドが邪魔してたものの、ゆりえのために地に足をつけて誠実に生きると決めた一郎がみたかった。そんな2人の元に詐欺師の誘惑が訪れたのであれば悲劇的だったのにと口惜しく感じる。あれだけブルーカラーの職種を嫌がっていたにも関わらずゆりえの勧めで介護スタッフを選んだ一郎はもしかしたら「地に足をつける」示唆だったかもしれない。それでも間口が広いだけの介護職を「誰でもできる」と上から目線で論じる一郎に感じるのは周囲に対する致命的な共感性の欠如だったが、これまでと同じように彼のいやらしさを物語がどう眼差しているかは不明瞭だった。

はたして一郎はゆりえを愛していたんだろうか。一郎はゆりえに「一緒に逃げよう」と迫るが、彼女が妊娠していることを知りパニックのまま逃げ出した。もし彼女が妊娠しておらず、あのまま2人で逃げていたらどうなっていたか。一郎がゆりえに暴力を振るっていたことは想像に難くない。「いつも支えてくれた」とゆりえにプロポーズをした一郎。ゆりえに母を見出していた一郎。彼女の幸せも考えず、恐ろしいから自首もできず、ただ一緒にいてほしいから逃避行を迫った一郎。逃亡中の保身のために彼がゆりえの行動を制限し、束縛することは容易に想像できるが、それ以上に、ゆりえを聖女化し対等のパートナーであると見ていない一郎はきっと己の寂しさや苛立ちを彼女にぶつけてしまう。彼にはセリナに対する前科がある。一郎は女性に依存するばかりでまともに愛せた試しがない。であれば再会までに自分の心を見つめ直すかと思いきや「アキラにも彼を大切に想う人がいた」描写に終始している。人の命や人生は、たとえだれかに愛されていなくても大切には違いないのに。それは一郎だって同じはずなのに。家族が待っていなくたって、ゆりえが待っていなくたって、友達がみんな離れたって、一郎は一郎として生きていいはずなのに。

ゆりえは行方不明になっていた一郎の姿を見て産むことを決意するのだが、帰ってくるかもわからない男を我が子を産むための判断材料にする親には違和感がある。「産むことは決めていたけど一郎の姿をみて勇気づけられた」のだったら理解できる。ゆりえには恐ろしいほど一個の人格としての保身がなく、我が子の命を巡る倫理的な葛藤さえ自律した人間として描かれない。それでも「容疑者の妻」であり、かつシングルとして生きるゆりえについて、逃亡生活中の一郎が想いを馳せる様子はない。自分の子どもについて案じる様子もない。これらは意図的に自己中心的な彼の性格を示唆したものだろうか? それとも描く必要性について検討すらされなかったのだろうか? 恋人を聖女化して甘える男に物語は批判的な眼差しを与えない。「成長」なんて上から目線の言葉では括りたくないけれど、テーマであるはずの絆の在り方は「主人公が他者から受容されること」に留まり、彼自身が周りを受容する視点に欠けている。

もちろん演者それぞれの役づくりの方向性や熱量やひたむきさはすばらしかったし「面白い」と感じさせる演出やギミックには優れている。物語の大半が7年後の彼による白昼夢のようなものだ。過去と未来によって隔てられた大井川一郎が、互いの顔を見て「しょうがないな」と言いたげに笑ったり、バツが悪そうにはにかんだりする姿は、自己受容の瞬間のようで胸を打つ。要所要所、いいシーンも確かに多かった。受け手が「面白さ」をどこで認識するか、娯楽における快の誘発をよく心得てる実にこなれた作品だと思った。けれども透けて見える世の中への見識や他者への誠実さの描写に関して軽薄さを感じてしまう。エクスキュースなく挿入された介護職への理解だって90年代の偏見そのままだ。作品は時代性に依拠するものだと考えてるので記事には必ず年号を入れるけれど、これを2019年の作品です、とは言い難い。

有料コンテンツでIKKAN氏の裏話を読むと、上演までの苦労が伝わってきて、本当に尊敬の気持ちが溢れてくるけれども、それを加味してもやっぱり好きになれないシナリオだった。『みんなのうた』は「こなれた作家がこれまでの貯金と手癖で書いた脚本」という印象で、世の中に対する視座を広げる意思が感じられなかった。もしもこの作品が、愛や、性や、命や、学びに対する誠実さとは何か、大井川一郎に語りかけるまなざしを絶やさず物語に散りばめたものでさえあったなら、彼を彩るさまざまな迷いや煮え切らなさやエゴも昇華されたのだろうが、残念ながら、それらのメッセージを伝えるには、奥行きを持たせたいがために用意されたあらゆる価値観は、苦しみの根っこを飛び越えるには至らない。

舞台『トンダカラ 2nd flight』(2019年)_感想

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第一回公演が海と死と夢の物語なら、第二回公演にあたる本作は「あたらしい家族」の物語だった。それもまた夢の話かもしれない。私だって、どこかの女性のパートナーになって子育てをしたい。異性と結婚をする未来絵図よりも胸が高鳴るし、私の妄想メーターは振り切れて、目の前のことを忘れてしまう。そうして余韻のまま二丁目のビアンバーに足を運んだが、ちょっとのロマンスだけ味わって収穫はなかった。物語は赤ん坊ぎらいの青年・ダニーが、下宿先の主・タイラの預かる乳児、アンナの扱いに戸惑うところからはじまる。

乾燥した欧州の日照りすら感じた第一回公演からずいぶん遠くに来た。お互いの意図や本心を知らないまま同じ時間を過ごしたふたりの男が、死に至る病と、ある女性への想い―――ひとりにとっては片想いの恋人で、ひとりにとっては妹だったが―――を共有しながら、夢のような死を迎える物語。それまでの人生がどんなに孤独でも、たとえお互いの真実や、自分自身の真実さえ知らなくても、最期の日々を彼らは共に生きた。閉鎖的な病院と、彼らの語る海への行道。想像に拠る戯曲の、さらに入れ子のような空想の数々に幻惑されたのをよく覚えている。

第二回公演は抒情的な前作と毛色の異なるハートフルコメディで、脚本・演出も前作の登米祐一氏がお休みしての高木凜氏だったが、詩的で幻惑的な雰囲気はそのままトンダカラの魅力として定着したのだと感じた。幕のない一枚の板の上、客入れから鮮やかに物語へ転換される瞬間は、繰り返して味わいたいほど演劇の面白みが詰まっている。時代はおそらく20世紀中頃の欧州。テナウ山にある木に囲まれた教会。ふたりの男と運命的なひとりの女。ダニーとタイラとモーラ。前作のキーを用いながらもあたらしく、幻想の海で死んだはずのダニーやタイラはたしかに遠くに来たのだと思った。ひとりの女性を巡るふたりの男が、今度は「死にはしないさ」と笑っている。

アンナの泣き声がピアノなのがいい。よその子どもの泣き声は相好を崩すほど大好物なのだが、不安を掻き立てる旋律は、子どもぎらいだったり、育児に疲れたひとにとって、赤ちゃんの泣き声はきっとこんな風に聞こえるのかもしれない。

原田優一演じるタイラはエキセントリックで可愛らしい。消えた恋人を探す鯨井康介演じるダニーの話から「妄想メーター」をフル稼働させた彼は、ウィッグを被り、彼の恋人の女優、ソフィア・テイラーを空想のままに演じる。愛らしくも滑稽な「ソフィア・テイラー」はダニーの恋人であるその人ではない。それでも演劇空間では彼のコミカルな芝居が回想として成立するのだった。そもそもダニーを介して思い出として語られる彼女はすでに彼女そのものではないが、さらにフェイクとしての「ソフィア・テイラー」が重なったとき、モーラ・クニットの本名を持つ幻の女性は、彼女を演じる俳優としての身体を持たないにも関わらず、架空と実在の狭間の地位を獲得した。ふたりの知るひとりの女性はすでにこの世になく、観客がモーラの姿を知ることはない。

妊娠したモーラは子どもぎらいのダニーの前から真実を告げることなく消える。それは笑えない男女の現実かもしれない。それでもモーラは血縁に拠らず子どもを慈しむことのできるタイラと出会えた。タイラがアンナを「同僚の子」と偽った背景にはシングルの経済難があった。これもシングル家庭の貧困率が50%に至る私たちの社会そのものかもしれない。それでもアンナは性愛に拠らない関係から成るふたりの父親を得た。

物語は現実のやりきれなさを軽やかに飛び越えて、夢のような瑞々しい世界をみせてくれる。ダニーは自分の子どもと知らずにアンナを愛する。彼らは子どもを介して「あたらしい家族」になった。いまの現実では夢のような話だけれども、あの光景は、いつかどこかで見れたらいい、胸のすくような未来だった。現実の悩みを置き去りにせず、それでも悩みを飛び越えていく、やわらかい救いのようなお話に、忘れていた妄想メーターがフル稼働する。

 

ふたり芝居といえば、いつかふたり芝居で観れたらいいな、と空想している映画がある。ポール・ダノダニエル・ラドクリフの『スイス・アーミー・マン』。本作とはあまり関係ないけど、ナラティブで攪乱するこれまでのトンダカラの雰囲気が好きなひとはきっと好きだろうと思うのでおすすめさせてください。

映画『ロマンティックじゃない?』(2019年)_感想

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ラブロマンス映画を醒めた目で見ている主人公・ナタリーがあたまを打ち付け目覚めると、そこはラブロマンス映画の世界だった。

子どもの頃に愛したラブロマンスの世界はあまりに非現実的でご都合主義、かつ偏見表現に満ちている(寝起きのヒロインはメイクばっちり、女の同僚は対立的に描かれ、ゲイはまるで主人公を助けるためだけの存在する魔法使いポジション、職場には人種的多様性が存在しない)ことをナタリーは痛烈に批判する。ところが、ひったくりと格闘した彼女が目を覚ますと、ニューヨークの街の様子にとどまらず、自宅も、同僚も、上司も、お隣さんも、ひそかな想い人さえ、まるでラブロマンス映画のように様変わりしてしまったのだった。街の人はナタリーを「美しいひと」と誉めそやし、仕事でも一目置かれ、現実ではプロフェッショナルである彼女をお茶くみ係として扱ったエリート男性は彼女に夢中、普段何してるかわからない謎の隣人はオネエ言葉のステレオタイプなゲイへと変貌を遂げる。しかし、ひそかな想い人だけは、美人モデルと電撃的な恋に落ちる。歯の浮くようなセリフや展開にナタリーは「うえ~!」とドン引きしながら、元の世界に戻る方法を探っていく。

パラレルワールドで自信を取り戻し、現実の世界に戻ったナタリーは、仕事での栄誉も想い人も勝ち取ることに成功する。「まるであなたラブロマンスの世界みたいね」と同僚は感激するが、物語は「結局批判してたラブロマンスと同じ展開になってしまった」評価にはあたらない。ラブロマの世界でナタリーが気づいたのは「自分を愛する喜び」だった。それは他者の承認がすべてになるラブロマンス世界との決別であり、自分を愛することで、結果的に仕事における評価に繋がり、想い人に本心を告げる行動力へと昇華された。さらに、ステレオタイプのゲイとしてパラレルワールドで活躍していた隣人は、ラブロマ世界と同じくゲイだったことが判明する。それでも彼は淡々と言うのだ。「ゲイはオネエ言葉をしゃべるって?ドラッグの売人はできない?それは偏見だよ」

ラブロマ世界と、現実と、たしかな類似点がありながら、そこには決定的な「ずれ」が存在する。ラブロマ世界のナタリーと、現実に戻ったナタリーにも、そこにはあきらかな「ずれ」がある。たとえ彼女がハッピーエンドを迎えても、それはナタリーがボロクソに貶したラブロマンスの再現ではないのだ。仲良しの同僚と、自分を愛する恋人と、ステレオタイプにあてはまらない隣人。むしろ現実のほうがすてきかもしれない。不完全な夢のような世界から、たくさんの自信と、いい気分だけ持ち帰って、偏見にはけっこうモヤりつつ、現実を生きるパワーにかえたナタリーの一挙一動は、まるで私たちの娯楽に接する営みそのものに見えた。

舞台『BLUE/ORANGE』(2019年)_感想

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『Take me out』(2018年)以来の青山DDDクロスシアターだったが、この『BLUE/ORANGE』に足を運んでやっと「はさみ舞台」の視覚効果としての意義を理解できたように思う。オフホワイトの空間の中心には鮮烈なオレンジ。照明を落とす演出には青い光。ウォーターサーバーのてっぺんの青いボトル。果実の飾られたボウルさえ硝子は青みがかっている。色彩を極限まで絞り込んだ書き割りのないステージの明かりを一切消すと、奥行きのある空間がオレンジを中心にギュッと絞られて、視界が暗転する平面的な圧迫感とも違う立体的な体感があった。くぼみに白い長方形を敷いたような「板」の上でやりとりされる光景はまるで眼前の幻のようだった。作品のキーである青と橙の補色は、私にとってファン・ゴッホの「夜のカフェテラス」を想起させる。自らの耳を切り落として後世には統合失調症を疑われている画家の存在が本作の主題とオーバーラップする。

研修医ブルース(成河)は境界性パーソナリティ障害の診断を受けた担当患者・クリス(章平)の病態を統合失調症のそれであると疑い、退院を明日に控える中、自らのスーパーバイザーである医師・ロバート(千葉哲也)に彼の病状にまつわる助言を求めた。私自身、所持資格は社会福祉士*1のため、中盤まではかなり深刻にそれぞれの意見の妥当性を思案していたし、無言で会議に参加しているような感覚さえあった。

率直に言って、自傷・他害行為がないにも関わらず本人が同意しない措置入院を長引かせようとするブルースが「異端である」のはロバートの言うとおりに思える。「若い正義感」で済ませるには大切な手順を失念している。同時に、年配医師の、クリスの退院後の適切な診断やケアにさも無関心であるかのような物言いもおかしい。患者であるクリスも含め、『BLUE/ORANGE』の登場人物は、一方で正論を吐きながら、一方では決定的な何かを欠いている。

日本の精神科入院の歴史構造: 社会防衛・治療・社会福祉

日本の精神科入院の歴史構造: 社会防衛・治療・社会福祉

 

退院間際になってクリスを統合失調症ではないかと疑い、再診断を提案・退院後の生活に懸念を抱いている研修医ブルース。入院の延長は本人のQOL・制度・ベッドコントロールの観点から同意しない医師ロバート。病識・適切な現状認識に欠け、そのことに一切不安を覚えていないようにみえる患者クリス。はじめはクリス一人が「狂気」を抱えているようにみえるが、ブルースやロバートもまた、積み重なった人生の鬱屈や、性質と環境の取り合わせ、急性的なストレスによって、やがて「正気」とは思えない言動や行動に走るようになる。さらに中盤を超えると、三者三様に「狂気」と「正気」の混在した乱痴気騒ぎを繰り広げ、「冷静」な人物は消え失せて、各々のエゴにすべてが帰結する。『BLUE/ORANGE』は現に信じられている人と人との「境界」を疑う戯曲である。

正直なところ、本作を紹介する記事で「狂気」や「正気」などという言葉があまりに軽々しく扱われているようにみえて、現実の精神疾患を扱う作品としてのスタンスに若干の不安を覚えていた。序盤にブルースがクリスの「きちがい」発言を咎め、「精神分裂病」が「統合失調症」へと名称変更になった経緯―――翻訳元は2000年以前の執筆なので、ブルースが当時二十代後半であるなら学生時代にDSM-Ⅳの改訂を最新のものとして学んだ世代だ―――を説明しているが、彼の語る理由とほぼ同じ動機といってよい。なぜなら、我々には、原因や表出の異なる精神疾患発達障害をすべて一緒くたにして、ケアを怠り、非人道的な私宅監置・長期収容・ヘイトクライム・手術や「治療」を行ってきた歴史がある。それを支えたのが「きちがい」や「狂気」という乱暴な言葉および人々の無理解だった。

だからこそ、エクスキュース*2の伺えない表出は実害を生ずる。以前とあるライトノベル作家が「言葉狩り」の文脈で「きちがいが使えなくなるのはおかしい、言葉が貧しくなる」と述べているのを見かけたが、現実から生まれた言葉にはそれなりの歴史の重みがあって、ファンタジーではなく、決して娯楽作品の道具ではないことを理解しないようでは、あまりにクリエイターとしての誠実さや教養に欠けるのではないか? 一方で、『BLUE/ORANGE』の「狂気と正気」にはどんな印象を受けたか。

【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況

【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況

 

身も蓋もないことを言えば「狂気と正気」とはあくまでわかりやすく文学的な用法であって、よくある乱暴で軽薄な動機に基づくものではなかったものの、作品の主題を厳密に表現するなら「病理化されるものと病理化されないもの」だろうか。「他者を判断するに際しての妥当性と恣意性の境界」と言い換えてもいい。医学は様々な事物を病理と位置づけてきたものの、その権威の下に暴力的な扱いが横行した事例をあげれば枚挙に暇がない。乱痴気騒ぎを繰り広げた研修医と医者を「診断」しようと思えばいくらでもできるのに、クリス一人が治療すべき対象と位置づけられる。スーパーバイザーであるロバートに嫌われたブルースは研修医としての正当性を剥ぎ取られ、そのパーソナリティは精神分析に値するものと見做される。個人にせよ、社会にせよ、さまざまな権威が「治療の対象」を決定し、彼らの在り様を病理化する。

もちろんそれをもって「精神疾患は恣意的な基準だ」とは言わない。本作の主題も精神医学そのものを疑う話ではないだろう。一方で、歴史的に医学が「病気」と見做したさまざまな在り方は、当事者たちによる運動や研究の進展を経て「脱病理化」の対象となってきた。こうした医学の過ちを踏まえると、ロバートの「脱西欧中心主義」はまっとうなポスト・コロニアルの視点にさえ思えてくる。

それでも、ロバートの思想はどこかおかしい。「脱西欧主義」の用語は社会的な観点からすると至極まっとうな言葉なのだが*3、彼の論調は根本からズレているように思う。多様性に基づく思考とは、たとえばロバートのような健常者かつ異性愛者の白人男性中心ではなく、その他の人々にとっても心地よい世界を示唆するものであるはずなのに、彼はアフリカをルーツに持つ人々の属性を他でもない「白人男性であるロバート自身が」分析・決定しようとしている。そこに当事者たちの入り込む余地はない。

一方的に彼らを研究対象とし、スティグマを与える行為は、帝国主義的かつ植民地主義的な態度に過ぎないのに、何故かこれを「黒人である彼らへの理解」と勘違いしている。それを治療に持ち込むなど、医学の名のもとに女性を曲解してさまざまな自由を制限した19世紀*4の二の舞だ。措置入院からの退院についても、倫理的なガイドラインの点からまっとうな意見を述べているようにみえて、退院後のクリスの利益については歯牙にもかけていないところがゾッとしない。

彼の話を聞いていると、どうやら彼は現場仕事に倦み、コンプレックスを抱え、華やかな(と彼が思っている)教授職に舵を切りたいようだった。それ故にロバートは研究テーマをでっちあげたい。目の前のものをすべて自分の理解できる、思考しやすい物事として捻じ曲げて、医師としての適切なアセスメントを忘れている。これはいわゆる「無意識」の行いかもしれない。少なくとも彼は多くを学んで医者になったはずなのだから。

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

 

すでに述べたように、研修医ブルースが措置入院の延長を求めているのは教科書的な倫理観からすれば異例の事態だと思う。少なくとも2019年の現在、患者の長期収容が問題化されている日本においてさえ、本人の意思に基づかない措置入院には厳格なガイドラインがある。ベッドコントロールや地域移行後のケアへの無関心を除けば、ここに対してはロバートが「正論」を述べている。ブルースの「問題を起こさないうちに隔離をして治療すれば本人の利益になる」と言わんばかりの考え方は「傲慢で支配的」のそしりを免れない。そもそも―――退院間際になって診断の変更の必要性に気づいた時点で、一旦退院させる意外に道はないと思う。クリスが反発するのも当たり前だ。にも拘わらず、ブルースはまるで彼を、聞き分けのない子どものように扱っていなかったか?

原則として、生命・安全を脅かす切羽詰まった状況でない限り、本人の合意は何よりも優先される。そもそも、統合失調症の疑いがあるからといって、当人の望まない隔離を続ける必要性はない。どんな疾患を抱えていても、本人が望む限り、望む場所で生きる権利はあるし、それをサポートするためにイギリスでは地域福祉が発展したのだから、「クリスにいちばん必要なのは医療ではない」と判断して他職種に依頼をかけてもよかったのだ。それをしない独りよがりは「若い研修医」だからでは済まないだろう。もし、生活を維持するのが難しい状況に陥った場合―――たとえば、クリスが入院するきっかけになったのはマーケットでの性的逸脱行為だったが、そうした反社会的な行動によって繰り返し逮捕されるなどの不適応が生じた場合―――再び入院による治療が必要になる可能性もあるだろうが、ただ「統合失調症である」というだけで行動を抑制することに意味はない。通院治療や服薬をなんとか続けてもらえるよう、コミュニティソーシャルワーカーなどが地道に関わりをもっていくしか手立てはないのだ。

ブルースは終盤になって統合失調症に対する極端な「予後予測」を開陳してクリスを恫喝するが、もしかしたら、はじめから、退院後の生活への心配ではなく、疾患に対する社会防衛主義的な差別だったのかもしれないと疑ってしまう。けれどもそれはあまりにも悲しい。彼は自分自身が追い詰められていたがゆえに、クライエントに対して被害者ぶってしまっただけなのかもしれない。「こんなに頑張ってるのに、患者は、クリスは、ブルースの気持ちのいいように動いてはくれないどころか、自分に不利益を与えるのだ」と。医師と患者の権力勾配も忘れて。子どものように。

患者はコントロールの対象ではないし、肌の色の異なる他者は「自分とは違う」研究対象ではない。*5ブルースは専門職倫理をよくわかっていたはずなのに、わかっていなかった。同じくロバートもさも倫理的なことを語りながら、倫理面において圧倒的に欠けていた。この二面性は不思議なようにみえて、クライエントと密に関わる職種では珍しくない光景に思える。感情労働を伴いながら他者の利益にエネルギーを割く私たちは、ときにひどく被害者ぶる。一部の支援者に至ってはクライエントに「振り回されている」と感じることがある。いずれも対象が意思をもった人間であることを忘れて接しているから、相手の本音や指摘にドキリとする。

相手の言葉尻を拡大解釈する傾向にあったクリスだけれども、はたして本当にクリスの数々の認識は「誤解」だったのだろうか? クリスは初めからブルースを信頼していなかった。たった一か月間の担当医にも拘わらず、馴れ馴れしくされて、きわどいジョークを言われて、子ども相手のように誤魔化されて、気分がいいはずないだろうと思う。自分自身の行動・言動がすべて精神医学のフレームに嵌められようとするのを、ほかでもないクリスがいちばん鋭敏に感じ取っていたのではないか。

まるで追い立てられるように青い世界へ「解放」されたクリスの行方を、あんなにも熱心だったブルースが見届けることはない。病識のない彼の、不安げなまなざしに答えるものを、結局彼らが提供することはなく、ただ自分たちの「問題」について語り合う。青い世界はクリスの見えるままの世界だろう。それは医師たちが見ることのない世界であり、彼の病院外での生活であり、おそろしい「隣人」の群れであり、自由でもある。

ポスター ゴッホ/夜のカフェテラス TX-1848

ポスター ゴッホ/夜のカフェテラス TX-1848

 

*1:ただし、日本の場合、世界的には同じ職種であるはずのソーシャルワーカーはふたつの職能として分割されている。広範な相談援助を行う社会福祉士と、コメディカルである精神保健福祉士と、それぞれが取得要件の異なる国家資格だ。そのため私が精神保健福祉の世界に明るいわけではない。

*2:「差別は差別として描く」のが表現上のエクスキュースだろう。よくある勘違いが、表現から「悪」を消し去るのが批判者の目的である、という理解で、批判の対象になっているのが「自身の内面化している価値観に対して無批判なクリエイターが、それを創作物として適切な加工を施さずに開陳してしまっている怠慢」であることをわかっていない。

*3:2014年に採択された『ソーシャルワーク専門職のグローバル定義』には「ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。」とある。

*4:医学が女性にどのような不適切なアプローチを施してきたかは花伝社のコミック『禁断の果実』がユーモラスに描いている。

*5:「多様性の尊重」とは相手を自分と同じ尊厳ある人間であると認めることであって、「非寛容」とは自分と相手をまるで違う生き物かのように扱い共感性を持たないことである。「みんなちがってどうでもいい」キャッチーなフレーズが多様性を表現しているように語られることもままあるが、あらゆる差別は相手を「どうでもいい」と切り捨てて、極端な無関心と無感動でもって接した結果、彼らが自分にとって不都合な行動をしたときに怒りを生ずるものだと考えられる。

舞台『舞台版「魔法少女(?)マジカルジャシリカ」☆第壱磁マジカル大戦☆』(2019年)_感想

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周囲が初演で続々とドハマリしているのに影響されてシリーズ第二弾にあたる本作にはじめて足を運んだのですが、前作を観ればピタリとハマるだろうピースの数々を感じつつも初見でもじゅうぶん楽しめる内容でかなり満足度の高い作品でした。ただ単に初見の不利益が少ないだけではなく、キービジュアル以外なんの予備知識もなく触れたことでラストの驚きもいっそう大きかったのは初参戦の特権であると感じて嬉しかった。強いて言えば中途半端にビジュアルの知識があったことでマジカルリエコとマジカルジャシリカの区別がつかず、時系列に混乱を来したりはあったのですが、四月の再演を観れば解決することなんだから問題なんてなかったね。ぜったい行きます。

主人公であるちえみの演劇の愉悦を引き出すような長台詞や独白の妙だったり。お祭りのような群像劇の豪勢だったり。魔法の概念にコストを見出すことでファンタジーをよりシビアにした『鋼の錬金術師』およびそれを様式美として決定的なものにした『魔法少女まどか☆マギカ』以降のサブカルチャーにおける共同幻想をフル活用した(端緒になったものはこれ以前にもあるかもしれないけど浅学なので割愛)いわゆるオタクならみんな好きでしょ?的宝箱な本作の魅力だったり。これらについてはほかの人がいっぱい語ってると思うのでここでは触れません。あとキャラ萌え語りも。だってキリねえじゃん、みんな可愛いんだからさ。

『第壱磁マジカル大戦』ではシリーズ第一作に引き続き「魔法少女」の半数は生得的男性によって構成されています。その理由について本作では明確な答えを提供されてはいないけれども、「We are not boys !!」と歌い、過剰なほどのジェンダー記号に依拠した女言葉を話す異性装(トランス・ヴェスタイト)の彼らはトランスジェンダリズムの化身のようでありながら、女性であるパートナーの疑似的伴侶として男性の輪郭さえ際立ちます。伝説の魔法少女であるマジカルシリンダーから魔法少女になるための「糸」を渡されるのは必ず男性です。彼らが信頼し、ときに愛する女性に「糸」を渡すことで、彼女たちはパートナーと共に「魔法少女」へと転身します。それは疑似的なエンゲージ・リングの贈与のようでありながら、元男性の魔法少女のほとんどは彼女たちの補助的な立場であることを自認しており、ときに健気に尽くします。異性装だけ取り上げれば声を大にして「クィア作品」を定義することもできるでしょうが、ある面ではクィアであり、ある面では異性愛主義的であり、ある面では実態的なジェンダーの攪乱が為され、一方で極端に男女二元論的でもある。『第壱磁マジカル大戦』はけっしてリベラルな価値観を土台にしていないにも関わらず物語の重大な骨子としてクィアを導入する、日本のオタクカルチャーにおける愛されポイントを熟知した構造であったように思えます。

社会学者である三橋順子ジェンダーにおける男性性・女性性双方を兼ね備える対象に感じる魅力を「双性原理」と呼び、日本神話から稚児・白拍子・歌舞伎役者、戦後のニューハーフへの人々のまなざしを通して「性別越境好きの日本人」を論じました。

(前略)むしろ、異性装の要素を持つことが日本の芸能の「常態」なのではないかと思えてきます。性別越境の要素をもつ芸能・演劇を好み、逆に性別越境や異性装の要素が皆無な芸能・演劇に物足りなさを感じる私たち日本人の感性の原点は、異性装を「常態」とする中世芸能にあるのではないでしょうか。

女装と日本人 (講談社現代新書)

女装と日本人 (講談社現代新書)

歌舞伎や陰間茶屋など、近世まで性別越境ビジネスの顧客は男女双方だったのが一転して、現代における女装者に好意を向ける大半が女性だという本書の論は実感として頷けます。女のほとんどは男の女装が大好きです。その証拠として私がホイホイジャシステに釣られたんだから間違いありません。だからこそ、男性客が多くを占める演目で、こうした異性装の作品が(魔法少女である彼らが過剰にキワモノ扱いされることなく)上演されたことは、ホモソーシャルに毒される以前の近世的な価値観が蘇ったようで嬉しい気持ちにさせられます。

冒頭で打ち明けたように本作が初見の私にとってちえみが10代目黒幕の女として覚醒することは予想外の展開でした。なんなら「ちえみは私だ」と感じる台詞、推しを持つオタクなら(自分と重ねるかどうかはともかく)「言ってることはわかる」と頷く場面も多かったのではないかしら。一方で、彼女の一見すると個人崇拝のように見える愛が強烈な娯楽性を伴う性質のもの―――消費者として対象に関わるがゆえに双方向的なコミュニケーションを得ることのない、そのぶん感情をエスカレートさせやすい―――であることを理解できなかった唯一の人物が、彼女の崇拝対象である山寺裕大でした。

いちファンであるちえみを若手俳優である裕大は「認知」しています。その上で彼はちえみに個人的な感情を抱くに至り、優しさに満ちた愛で彼女を守ろうとするのですが、自分を熱心に応援するちえみにかけがえのない気持ちをおぼえる裕大と、彼を偶像崇拝の対象として娯楽的な好意を向けるちえみには序盤から言い様のない乖離がありました。裕大はちえみを有象無象のファンではなく一人の人間として認識し、大切に感じていたのですが、ちえみにとっての裕大はコミュニケーションにより関係性を培うべき相手ではなくあくまで幻想の偶像でした。ショービジネスに生きる存在を応援するオタクの姿勢としては大正解なのですが、この「推しを愛する」ミニマムでエモーショナルな娯楽が人生のすべてになっていた彼女の前に、「世界の存亡」や「ひとりの人間である推し」が現れたとき、幸せな「底なしの沼」は負の感情へと一変します。

登場人物の、おそらく全員が持っていた世界や社会へのまなざしに、ちえみはたったひとり無縁の存在でした。さまざまな魔法少女が、その正義や妥当性はさておき、他者や社会の存在を意識した動機で戦っていたにも拘わらず、ちえみにはそれがありません。「男女差別なんて感じたことがないから男女差別と騒ぐ女のせいで推しが悲しむならキックボードでうんぬんかんぬん」と語る彼女の姿はとても象徴的です。社会への関心は乏しいくせに威勢のいいことを言いたがる「あっよくいるわ」と思わせるふつうの女の子。「うーん、どこから説明したらいいのかな……」って大人にあたまを抱えられてしまうタイプの、大人になれない女の子。

とはいえ、それは社会にコミットメントする、あるいは批判を伴う手続きをどこか過度に「政治的で、意識が高い」と感じがちな日本人にとって常態でしかない態度なのですが、そんな「普通の女の子」だったちえみが闇に導かれてしまった要因は、ミニマムな幸福の中で葛藤を知らずに過ごしていたからこそ、突如訪れた「嵐」に耐えられなかったのではないかと思えてなりません。世界の存亡なんて自分の快不快を基準に生きてきた女の子にはあまりに荷が勝つし、祐大の、苦痛というかたちで露出した人間性に動揺したちえみは殺害というかたちで彼を再び受け身の偶像に仕立てます。ちえみは「普通の女の子」として生きて、「普通の女の子」のまま、さもあたり前かのように闇に誘われたように見えました。

ちなみにサラリーマン・タケダテツオの古めかしいジェンダーステレオタイプを自明とするナレーションから、ちえみの「男女差別なんて知らねえ(大意)」発言まで、言うまでもなく性的偏見や認識の誤謬にあふれていますが、これをまるで世界の真理かのように信じているひとも多いのは事実です。なので、「We are not boys!!」に繋がる伏線とはいえ、なんのエクスキュースもなかったので「なんかいきなりアンチフェミの講演みたいになったな?」とせっかく浸っていた気持ちがスッと現実に引き戻されてしまって、再び物語に没頭するまでいささか時間を要したのは私の側の問題かもしれません。それでも、彼らである魔法少女とそのパートナーの関係性は、古めかしいジェンダーロールに収まらない多様性に富んだものであるのですから、いきなり「男は家事をしない生き物で」みたいな話をされても何が何やら。タケダテツオの家庭内事情だったら納得する。

彼ら魔法少女は、異性装をしながら男性性の輪郭も鮮明であるとすでに述べました。しかし同時に彼らは完全に「女性」です。「Boy Meets Girl?? No!! Girl and Girl!!」の歌詞をあらためて読んだとき、「百合は感じなかったなあ。あれは男女カプだ」というのが正直な感想であり、彼らのパートナーとの絆は異性愛的なロマンにあふれていたと思うのですが、別の階層として「Girl and Girl」でなくてはならない意味はきちんと存在した。彼らが女性として魔法少女になることで、まさしくタケダテツオの語るような古めかしいジェンダーロールを攪乱していたんです。

初登場してからしばらく、彼ら魔法少女に個別性のある人格はうかがえません。男性の身体的特徴を隠さない彼らは、不自然なほどの女言葉を繰り出し、女性ジェンダー・イメージを過剰に演出することで、「心が女になった」(より厳密には、ジェンダーアイデンティティを女性に変化させた)ことを観客に知らしめます。それは「女言葉という記号を使わなければ人物を女と表現できない一昔前の小説」のように彼ら魔法少女の人格を画一的に隠ぺいしていました。(※序盤からヘテロ男性的欲求がポロリしていたカンカンカーン除く)

一回だけの観劇だったのでそういう台詞があったのかは覚えていないのですが、彼ら魔法少女は身体的な意味で「性転換」したわけではありません。ジェンダーアイデンティティが女性だからこそ、彼らは紛れもない「彼女たち」なのです。たとえば現実のトランスジェンダーも世間的に「心が女/男」と表現されることがあります。性別違和を抱くタイプのトランスジェンダーは、ジェンダーアイデンティティと出生時に割り当てられた性別の不一致から生じるものというのが教科書的な理解です。(トランスに対する無理解には近代の産物である男女二元論への盲信が関わっているのですが割愛します。)少なくとも、メタ的には男性の身体性を有しながら女性の性自認を持つ魔法少女たちは、トランス女性が女性であるのと同様に、まぎれもない女性なのです。

「女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない」という主張に、フェミニストやトランスはどう抵抗してきたか - wezzy|ウェジー

そして、そんなnot boys!!な魔法少女たちも中盤に差し掛かるにつれて、いち個人としての人格が見えてきます。このとき魔法少女たちは女性ジェンダー記号を脱ぎ捨て、男性としての側面を垣間見せます。その中にはアクセスのように「暴力」という男性ジェンダーに結び付けられがちな要素を開陳してしまった人物もいます。カンカンカーンのように異性への性的関心であたまがいっぱいな人もいます。もちろん男性たちの人格や想いはさまざまで、どれもかけがえのない個別性をもっていますが、「自分は男である」という意識を捨てなければパートナーへの健気な気持ちを表現できなかった男の子も中にはいたかもしれません。「男はこういうもの、女はこういうもの」という自縄自縛のジェンダーに縛られた人々―――それはきっと、登場人物ではなく観客である私たちも同様に―――にとって、同性同士でなければ紡げない関係も現実にはあるでしょうし、受け手にとってさえ直截的に男女の絆を描くことでべったりとしたいやらしさを感じてしまう可能性もあったかもしれません。残念ながら、世の中は、作り手も受け手も性的偏見表現の記号性に頼って芸術を創造/受容していますから。

長くなりましたが、どこまで意図的かはわかりかねるもののジェンダーの攪乱を効果的に使った作品でとても面白く観ることができました。ひとつ付け加えれば、カンカンカーンの「トランスを経験したことで次は同性にも恋できるかも(大意)」はバイセクシャル的にはちょっと不思議な発言だったのですが、自分を異性愛者と信じてる彼にとって魔法少女になったことはあらたな可能性の発見でもあったのかも? なーんて、せっかく明るいラストの予感にさわやかな気持ちになってたのに、おい、ちえみ、おまえ、おい、しんどい、愛しい。