蜂蜜博物誌

映画や舞台や読んだ本。たまに思ったこと

pixiv社のハラスメント問題を受けて:関係書籍やリンクの紹介

pixivユーザーである筆者が、pixiv社内で起きたトランスジェンダー女性への役員による性加害及びSOGIハラスメントやそれを巡る会社の対応(参照:https://www.bengo4.com/c_18/n_14525/)を受けて、関係するさまざまな課題について説明をされている書籍や参考リンクなどを紹介する記事です。本記事は筆者のpixivアカウントからリンクを貼るために作成されました。

まえがき

大前提として、相手のアイデンティティによらずセクシャルハラスメントは許されません。ただし、当該事例では相手が性別移行の経験があることを理由に、加害者から被害者に対してその被害を矮小化する発言がなされています。これは明らかなトランスジェンダー差別であり、無理解と偏見に満ちた二次加害です。

ハラスメントの背景には複数の権力関係があります。権力関係とは「上司対部下」などの当事者間のものに留まりません。ジェンダーセクシャリティエスニシティなど、社会構造の中の権力関係が大きく影響しています。

ハラスメントの防止にはこれらの横断的な理解や、そもそも性的な加害がなぜ起こるのか、その背景にある権力関係や差別とは何なのかを知ることが大切です。たとえば「性加害は性欲によって引き起こされる」というのはよくある偏見ですし、そうした誤解は解決に繋がらないのみならず、本来は関係がない物事にスティグマを与えるものです。

個別の事例に声をあげることは、誤った対応を是正したり、世の中に一定の理解や了解を求めたりする効果があります。同時に、趣味を楽しむ私達もまた、何かしらの組織の構成員だったり、誰かの隣人であったりする以上、人生のどこかでハラスメントの事案に関わることになります。

であれば、あらかじめ蓄積された知識に触れていることは、ハラスメントへの何よりの抵抗になるのではないでしょうか。どんな人にも、これからの人生で困ったことに対峙したとき、より良い選択をする手助けが与えられてほしいと思っています。

一覧の中には、一見直接関係がないと思われるものも含まれているかもしれません。

というのも、性加害・性差別・トランスジェンダー差別などの問題は、基本的な人権や尊厳の考え方なくして解決・理解することはできないからです。そのためには横断的な学びが不可欠ですし、実際にあらゆる人権課題はお互いに影響を与えあって運動されてきた経緯があります。*1

作成した一覧が、学びの一助になれば嬉しいです。

映像コンテンツ

ナショナル ジオグラフィック『ジェンダー革命』

性差を巡る言説の中で、当たり前のように用いられる「生物学的」「身体的」という言葉があります。このドキュメンタリーではその指している範囲がいかに恣意的で、科学に根差したものとかけ離れているか、ジェンダーサイエンスの視点から読み解いていきます。当事者の姿や周囲の人々・支援者の姿から多くを学べます。

tv.apple.com

GLAAD受賞作!ジェンダーについて考える『ジェンダー革命』がディズニープラスにて4月23日より配信 - フロントロウ -海外セレブ&海外カルチャー情報を発信

Netflixトランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして 』

私たちにも馴染みの深い表現の中に、現実のトランスジェンダーへの偏見を強化し、当事者のメンタルヘルスに影響を与えるようなものがあったとしたら? このドキュメンタリーはハリウッド作品を扱っていますが、日本の漫画やアニメ・ドラマにも振り返るところがあるかもしれません。(関連するものにNetflix「ミス・レプリゼンテーション: 女性差別とメディアの責任」がありますが、現在日本では視聴できなくなっています。)

www.youtube.com

https://www.netflix.com/jp/title/81284247

You Tubeジェンダークリティカル | ContraPoints』

政治評論家ナタリー・ウィンのYou Tubeチャンネル。世の中に溢れているトランスジェンダーへの差別言説に、ユーモラスに反証していく動画です。既にそうした背景を知っている人向けの、やや上級者向けの内容ですが、ジェンダー課題や女性差別に興味を持った人がインターネットで情報にアクセスしようとしたとき、トランス排除を念頭に置いた「フェミニズム」に出会ってしまう可能性が高いため、少なくともこの記事を読んでくださっている方は一聴をおすすめします。他にも「男の娘はゲイか?」(正確には、男の娘やトランスジェンダー女性を好きになった男性は「男性同性愛者」になるのか?)など、自身の性別移行経験を踏まえたリアルな視点からの解説は圧巻です。一部を除き設定から日本語字幕が表示できます。

youtu.be

Netflix『ミス・アメリカーナ』

テイラー・スウィフトのドキュメンタリー。彼女は右翼の崇拝する女性のシンボルでしたが、数年前に(右派の共和党ではなく)左派の民主党支持であることを明言したことでアメリカ社会を驚かせました。保守的なカントリーミュージック界で活躍していた彼女が、摂食障害や卑猥な誹謗中傷、セクシャルハラスメントと戦う中で、自らの意見や立ち位置を世間に堂々と語る決意に至るまでの軌跡です。ハラスメントの根底にあるものは社会の女性蔑視であることを突きつけられると同時に、とても勇気がもらえます。

www.youtube.com

コミック(エッセイ、フィクション)

花嫁は元男子。(ちぃ)

作者さんのブログはLGBTQA+の基礎知識の解説や、作者さん自身の性別移行経験が、かわいい四コマ漫画になっていてとてもおすすめです。:俺の嫁ちゃん、元男子。(ちぃのGID-MtFの4コマブログ)

女の体をゆるすまで(ペス山ポピー)

ジェンダーフェミニズムメンズリブセクシュアリティ

図解雑学ジェンダー(ナツメ社)

何年か前に内容を改訂した新版が出ていますが、同じISBNのため旧版との区別ができません。中古ではなく新本がおすすめです。

はじめて学ぶLGBT 基礎からトレンドまで(ナツメ社)
よくわかるジェンダースタディーズ(ミネルヴァ書房
フェミニズムってなんですか?(清水晶子)
フェミニズムはみんなのもの(ベル・フックス)
私は女ではないの?(ベル・フックス)
女性のいない民主主義(前田健太郎)
#Me Tooの政治学(大月書店)
増補 刑事司法とジェンダー(牧野雅子)
ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理(ケイト・マン)
科学の女性差別とたたかう(アンジェラ・サイニー)
LGBTとハラスメント(集英社新書
性別違和・性別不合へ 性同一性障害から何が変わったか(針間克己)
トランスジェンダーを生きる:語り合いから描く体験の「質感」(町田奈緒士)
誰かの理想を生きられはしない:とり残された者のためのトランスジェンダー史(吉野 靫)
ノンバイナリーがわかる本(エリス・ヤング)
非モテ」からはじめる男性学
マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か(杉田俊介
男が痴漢になる理由(斉藤章佳)

人権・差別の考え方

差別の哲学入門(シリーズ・思考の道先案内1)
差別はたいてい悪意のない人がする(キム・ジヘ)
無意識のバイアス(ジェニファー・エバーハート)
日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション(デラルド・ウィン・スー)
インターセクショナリティ(人文書院
人権と国家(筒井清輝)
身近に考える人権(ミネルヴァ書房
障害者差別を問い直す(荒井祐樹)
ヘイト・スピーチとは何か(岩波新書
レイシズムとは何か(梁 英聖)

リンク集

情報・啓発サイト

はじめてのトランスジェンダー trans101.jp – トランスジェンダーについての情報サイト

LINE公式アカウント開設のお知らせ – はじめてのトランスジェンダー trans101.jp

VOGUEと学ぶフェミニズム | Vogue Japan

石壁に百合の花咲く

テーマ別情報・窓口 | NHKハートネット

www.nhk.or.jp

www.nhk.or.jp

ウェブ記事

性暴力の被害者が、驚くほど「自分を責めてしまう」理由(小川 たまか) | 現代ビジネス | 講談社(1/6) 

性犯罪の加害者は、なぜ「被害者のほうが悪い」と本気で弁明するのか(小川 たまか) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

「ミソジニー」って最近よく聞くけど、結局どういう意味ですか?(江原 由美子) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

スポーツにおける「公平性」とは何か? ~トランスジェンダーの競技参加から考える~|杉山文野(すぎやま ふみの)|note

表象はなぜフェミニズムの問題になるのか 小宮友根 | WEB世界 

小田嶋隆氏「『女性差別広告』への抗議騒動史」の何が問題なのか? - ふぇみにすとの論考

音声メディア

TBSラジオ荻上チキ・Session』

公式ホームページ以外にもPodcastApple Music、Spotify)やラジオクラウドなどでアーカイブを聴くことができます。

「LGBT理解増進法案の行方と課題」松岡宗嗣×清水晶子×二階堂友紀×鈴木みのり×荻上チキ×南部広美 

「ヘイトスピーチ解消法から5年、差別禁止法の現状と課題~コロナ以後、社会をどう設計していくか?」 明戸隆浩×荻上チキ×南部広美

「性同一性障害のトイレ制限裁判、二審は逆転敗訴」遠藤まめた×荻上チキ

「自民党、LGBT理解増進法案提出を見送り」文字起しあり

「LGBTQへの差別発言で、自民党に署名を提出」

「生活と世界を見直すための<フェミニズム入門>」清水晶子×荻上チキ×南部広美

「神道政治連盟の会合で性的マイノリティへの差別冊子を配布。この問題の背景にあるものとは?」松岡宗嗣×塚田穂高×荻上チキ

「日本の宗教右派とジェンダー」斉藤正美(富山大学)×山口智美(モンタナ州立大学)×荻上チキ×南部広美

差別言説へのより踏み込んだ読解のために

以下のリンクは、国内・海外問わず活発になっているトランスジェンダー差別を受けて発信されたものです。

特にTwitterでは、「女性の安全」という名目でトランスパーソンの排除を正当化する傾向があります。そのため、性加害やハラスメントに関心がある人ほど、そうした主張をする人々の言説に触れやすい環境になってしまっています。

アイデンティティを理由にその属性を持つ人々を犯罪者予備軍として扱い、排除をすることは、さまざまな属性に対して行われてきた典型的な差別といえるでしょう。しかし、トランスジェンダーに対してそうした差別を合理性のある考えかのように広める人々は、前提とする知識やものの考え方に、間違いがあることに気づいていません。あるいは、「間違っていても責められたくない、なぜなら……」というままならない気持ちから反発が芽生えるのかもしれません。

それらをひとつひとつ解きほぐすことは容易ではありません。だからといって、攻撃を受けているマイノリティが「自分は犯罪者予備軍ではない」という当たり前のことを言うためだけに、中傷する相手に複雑な説明を課されてしまうことは間違っています。(人間、自分がどういう存在なのか、だれにも説明することはできないのに、性的マイノリティ当事者だけは、ときに科学者が研究に取り組んでいるような事柄に説明を求められるのです)

社会課題を理解するためには、ただ単に知識を得るだけではなく「自己覚知」や「文章理解」の技術が必要です。物事を知ろうとしても「自分がどういうテーマに反発したり、逆に惹かれてしまうのか」という思考の癖をコントロールすることができなければ、情報に対して偏った審判的態度を取ってしまいます。また、一見筋が通っているような言説でも、そもそも前提がデマゴーグや偏見だったり、論理展開が藁人形論法・過度の一般化などの誤謬だったりするかもしれません。

こうした情報理解・受容の技術は、相談援助の専門的訓練を受けたり、信頼性の高い書籍の文章を読み慣れたりする中で養われるもので、決して簡単なことではありません。ですが、既に差別言説に応答し、反証している人々から、ものの考え方や知識、反論の勇気をもらうことはできます。

苛烈な差別言説が多く引用されている記事もあるので、心の健康に配慮しながらの閲覧をおすすめします。当事者はもちろん、非当事者でも明らかな差別や悪意には削られてしまうので、無理をしないでください。同時に、危機的状況を受けて発信をされているすべての皆さんに感謝を申し上げます。

〈情報提供〉

Trans Inclusive Feminism – トランスフォビアへの抵抗とトランスインクルーシブなフェミニズムのためのリソース集

トランスジェンダー差別をしたくない人のための書籍・記事紹介 - Privatter 

トランス差別に抗していくためのブックリスト - Privatter

〈排除言説の概要・経緯〉

threadreaderapp.com

後回しにされる「差別」 トランスジェンダーを加害者扱いする「想像的逆転」に抗して - wezzy|ウェジー

トランスジェンダーの経験の複雑さを、どう伝えるか - wezzy|ウェジー

すでに隣人である私からすでに隣人であるあなた達へ - ゆなの視点

お茶の水大学と杉田水脈:LGB(T)の2018年|夜のそら:Aセク情報室|note

何故トランスフォーブとの対話は不可能なのか? - 鴉の爪

安全な空間と不適切な身体 - 東アジアのクィア・アクティヴィズム | 

http://ttps://jig-jig.com/serialization/fukunaga-quaia-activism/fukunaga_extra/ https://left-stand-homerun.tumblr.com/post/642227513536446464/韓国現代フェミニズムにおけるterfトランス排除的ラディカルフェミニスト批判文化科学20

〈差別言説への応答〉

「女性」でなく「生理のある人」と呼ばないとトランス差別? 〜よくある疑問への回答〜 - Transgender+Gay

「トランスを排除しないと女性スペースの安全は保てない」は主張として正当性を保てるか?その主張はフェミニズムか?|ぽてとふらい|note

MtFの女性専用スペースの利用について、ひとりのMtFが考えたこと - 帰ってきたみふ子の真夜中日記

【翻訳】「トランス女性は女性じゃない」論の間違いをすっぱぬく ― ジュリア・セラーノ(翻訳: イチカワユウ、協力: 佐藤まな)

transinclusivefeminism.wordpress.com

〈その他〉

無題 - Privatter

終わりにかえて

SNS上では、日本に限らず、攻撃的な言説が日々拡散されています。

最近では、女性が多い二次創作界隈にもそうした言説が蔓延しており、すてきなキャラ語りをしていたTwitterアカウントの発言を遡ったら差別言説を山ほどRTしていた……という場面に出くわすことが多くなりました。

思い出すのは、2010年前後のTwitterでは二次創作アカウントでも、平気で隣国を巡るひどいフェイクニュースを流している人が多かったことです。今は、少なくとも二次創作アカウントに限って、私の身の回りでは減っているように思えます。

ひとりひとりのリテラシーが高まり、ネット上の差別言説に歯止めがかかることを願っています。そして、オフラインの世界でも、あなたが目の前の誰かにとって、ハラスメント被害やほかの難しい悩みを打ち明けられる、そんなひとりでありますように。

*1:なるべく広範に基本的なテキストを掲載したつもりですが、筆者の勉強不足もあり、児童・高齢者・先住民・部落・ハンセン病・戦時被害・貧困にまつわる書籍が掲載されていません。良いものを見つけ次第追加します。

#検察庁法改正案に抗議します への理解に役立つリンク集

Twitterで行われているハッシュタグ・アクティビズム #検察法改正案に抗議します に「定年を他の国家公務員にあわせて引き上げるための法律だから問題がない」趣旨のリプライをしてる人々が一部に見られますが、これについては全国の弁護士会の声明を参照して、その理解が妥当がどうかチェックするのをおすすめします。リンクをまとめましたので「何が問題とされているのか」を知る一助にどうぞ。

※あくまで個人が隙間時間にまとめたものなので、継続性を保証できないことから追加の情報提供をいただいても掲載はしません。専門家が公的に表明している意見(弁護士会の声明)・国会中継が聴けるラジオメディア・国会議員当事者の問題意識がわかるもの・ハッシュタグアクティビズム流行以前から問題を追っていた専門家や記者等の記事をリンクしていますので、リンク先は改正案の問題点を指摘するものが中心であることをご承知おきください。

関心のある人それぞれが、これからも継続的に問題を追っていけますように。


問題を理解するにあたっての基本事項

①2020年1月31日に東京高等検察庁検事長黒川氏の勤務延長が閣議決定され、それが恣意的な検察法の解釈変更であると問題になっている(閣議決定への声明参照)
②2020年3月13日、かねてより与野党で合意をしていた国家公務員法の改正に加え、束ね法案として検察法改正案が提出され、後者の内容についての問題点が指摘されている(改正案への声明参照)

以上に加え、様々な論点や前提としている事実がありますので、弁護士会の声明や、国会論議等を参考にしながら、事実・経緯の把握と共に、推測できること・想定され得ること等の多角的な理解に活用いただければ幸いです。

 

弁護士会及び有志声明一覧(5.11時点)

日本弁護士連合会:改めて検察庁法の一部改正に反対する会長声明

検察官勤務延長問題弁護士共同アピール - ホーム

東京高検検事長の勤務延長に関する閣議決定の速やかな撤回を求め、内閣による検察官の人事への介入を許すことになる検察庁法の改正に反対する会長声明:2020 声明・意見書:札幌弁護士会

お知らせ | 旭川弁護士会

仙台弁護士会 » 東京高検黒川弘務検事長の定年延長を行った閣議決定を直ちに撤回することを求める会長声明

東京高等検察庁黒川弘務検事長の定年延長を行った閣議決定の撤回を求める会長声明

検察庁法改正案に反対する会長声明

検事長の勤務延長に関する閣議決定の撤回を求めるとともに、国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対する会長声明|会長声明・決議・意見書 2020【秋田弁護士会】

東京高検黒川弘務検事長の定年延長を行った閣議決定を直ちに撤回することを求める会長声明|決議・声明|東北弁護士会連合会

検察庁法に反する閣議決定及び国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対し、検察制度の独立性維持を求める会長声明|東京弁護士会

検事長の定年延長をした閣議決定に強く抗議し撤回を求め、 国家公務員法等の一部を改正する法律案中の検察庁法改正案に反対する会長声明|神奈川県弁護士会

千葉 https://www.chiba-ben.or.jp/opinion/c3e6c8f9fff7b2267fd7c02ea59ec714674d19ce.pdf閣議決定https://www.chiba-ben.or.jp/opinion/7a2f2a6c9089b962924540ec70d8dcece579f0e9.pdf(改正案)
茨城 https://www.ibaben.or.jp/wp-content/uploads/2020/04/71472d116523eadeb532a6cc128b5268.pdf閣議決定・改正案)

東京高検検事長の勤務延長をした閣議決定に強く抗議し、速やかな撤回を求める会長声明 | 栃木県弁護士会

検察庁法改正案に反対する会長声明 | 栃木県弁護士会

群馬 https://www.gunben.or.jp/uploads/2020/04/20200424kaichyouseimei.pdf閣議決定・改正案)

黒川弘務東京高検検事長の定年延長に強い懸念を表明する会長声明 | 静岡県弁護士会

検察庁法に反する閣議決定の撤回を求めるとともに、国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対する会長声明 » 山梨県弁護士会

《長野県弁護士会》は、長野県内に法律事務所を持つ弁護士全員が加入する法定団体です。

検察官の定年延長に関する閣議決定の撤回を求め、国家公務員法等の一部を改正する法律案のうち検察官の勤務延長の特例措置に関する部分に反対する会長声明 - 意見・声明 - 愛知県弁護士会

東京高等検察庁検事長の定年延長閣議決定の撤回を求める会長声明 / 三重弁護士会

岐阜 https://www.gifuben.org/info/statement/p2210/閣議決定

検察官について違法に勤務延長した閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明 | 福井弁護士会

検察庁法に違反する検事長の定年延長をした閣議決定に抗議し、撤回を求める会長声明|決議文・意見書・会長声明|富山県弁護士会

大阪弁護士会 : 会長声明等 : 検事長の定年延長に関する閣議決定の撤回を求める会長声明

大阪弁護士会 : 会長声明等 : 検察庁法改正を含む国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対する会長声明

声明|京都弁護士会

声明|京都弁護士会

兵庫 http://www.hyogoben.or.jp/topics/iken/pdf/200325iken.pdf閣議決定

東京高等検察庁検事長の勤務(定年)延長に強く抗議し検察庁法改正案に反対する会長声明 | 奈良弁護士会

検察官に関する不当な人事権の行使に抗議する会長声明|滋賀弁護士会

東京高検検事長の定年延長をした閣議決定の撤回を求め、検察庁法改正案に反対する会長声明|弁護士会の意見|和歌山弁護士会

検察庁法に違反する定年延長をした閣議決定に抗議し、撤回を求める会長声明 | 広島弁護士会

弁護士会からのお知らせ|山口県弁護士会 Yamaguchi Bar Association

(2020.04.03)東京高等検察庁検事長の勤務延長に関する閣議決定に強く抗議すると共に 国公法及び検察庁法改正案に反対する会長声明 | 岡山弁護士会

【会長声明】検事長の勤務延長に関する閣議決定の撤回を求め,国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対する会長声明 | 鳥取県弁護士会
徳島 https://tokuben.or.jp/wp/wp-content/uploads/0f15a35d997356665a946a29a3fc96e7-1.pdf閣議決定・改正案)
福岡 https://www.fben.jp/statement/dl_data/2019/0327.pdf閣議決定https://www.fben.jp/statement/dl_data/2020/0424.pdf(改正案)
大分 https://www.oitakenben.or.jp/data/statement/158794649512247.pdf閣議決定・改正案)

検察官の定年延長に関する閣議決定の撤回を求め、国家公務員法等の一部を改正する法律案に反対する会長声明 | 鹿児島県弁護士会

宮崎 http://miyaben.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/03/kinnmuenntyou_20200330.pdf閣議決定http://miyaben.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/04/kinnmuenntyou_20200423.pdf(改正案)

沖縄弁護士会ホームページ - 検事長の定年延長をした閣議決定の撤回を求める会長声明


参考 #検察法改正案に抗議します に関係する各問題について解説を行っている議員及び記者・その他の作成したメディアの一部

音声(2020.5.13追加)

▼ホームページでの視聴が可能(ラジオクラウドでの配信あり)

【音声配信】黒川弘務・検事長の定年延長を閣議決定。この異例の措置の背景と問題点▼青木理×竹田昌弘×荻上チキ▼2020年2月10日(月)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」平日22時~)

【音声配信】「新型コロナウイルス対策の陰に隠れた重要法案とは?」竹田昌弘×福井健策×伊藤圭一×上谷さくら×荻上チキ▼2020年3月10日(火)放送(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)

【音声配信】「SNSでも広がる検察庁法改正案への抗議。改めて考えるその問題点」竹田昌弘×澤田大樹×荻上チキ▼2020年5月12日(火)放送(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~) 5.13追加

▼アプリ「ラジオクラウド」にて視聴が可能

荻上チキ・Session-22 【ニュース】「安倍内閣が決めた黒川検事長の定年延長。国会ではきょうも野党が追及」 荻上チキ https://nhsw9.app.goo.gl/usmU #ラジオクラウド #TBSラジオ
荻上チキ・Session-22 【ニュース】「『口頭の決裁もあれば、文書による決裁もある』黒川検事長の定年延長で、森法務大臣が答弁」~解説:荻上チキ https://nhsw9.app.goo.gl/A7aU #ラジオクラウド #TBSラジオ
荻上チキ・Session-22 【ニュース】「新型コロナウィルス問題や黒川検事長の定年延長問題などを巡り論戦。音声を交えて荻上チキが解説」 https://nhsw9.app.goo.gl/iZxi #ラジオクラウド #TBSラジオ
荻上チキ・Session-22 【ニュース】「森法務大臣不信任決議案、棚橋委員長の解任決議案を否決」 荻上チキ https://nhsw9.app.goo.gl/tXq3 #ラジオクラウド #TBSラジオ
荻上チキ・Session-22 【ニュース】「安倍総理が森法務大臣を厳重注意。東日本大震災で『検察官が最初に逃げた』と発言」澤田大樹×荻上チキ https://nhsw9.app.goo.gl/1jWi #ラジオクラウド #TBSラジオ
荻上チキ・Session-22 【ニュース】「「検察官が逃げた」と答弁の森法務大臣が国会であらためて謝罪。」 https://nhsw9.app.goo.gl/iv2G #ラジオクラウド #TBSラジオ
荻上チキ・Session-22 【ニュース】「検察官含む公務員定年延長引き上げる国家公務員法改正案が審議入り」 荻上チキ https://nhsw9.app.goo.gl/uaS4 #ラジオクラウド #TBSラジオ
 
記事

WEB特集 揺らぐ“検察への信頼”~検事長定年延長が問うもの~ | NHKニュース

検事長定年延長問題は、なぜこんなにも紛糾しているのか(園田寿) - 個人 - Yahoo!ニュース

国民がコロナ禍で苦しむ中、火事場泥棒的に保身のための法案成立を急ぐ安倍政権。検察庁法改正案の問題点とは? | ハーバー・ビジネス・オンライン

 

動画、文字起こし

【書き起こし・前編】 国会パブリックビューイング 「緊急ライブ配信 検察庁人事への内閣介入問題」ゲスト解説:山添拓参議院議員(日本共産党)/進行:上西充子(国会パブリックビューイング代表)(2020年3|上西充子/ Mitsuko Uenishi|note

【書き起こし・後編】 国会パブリックビューイング 「緊急ライブ配信 検察庁人事への内閣介入問題」ゲスト解説:山添拓参議院議員(日本共産党)/進行:上西充子(国会パブリックビューイング代表)(2020年3|上西充子/ Mitsuko Uenishi|note 

舞台『team』(2019)_感想

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100点un・チョイス!の舞台を見るのはこれで3作品目になる。直近で観劇した2019年版『誰かが彼女を知っている』も今回の『team』も舞台美術が抜群に良い。間近で見ればリアルな場が板の上にあって遠くから見ればセットひとつひとつの山稜のようなラインが美しい。舞台美術といえばZ-Lionの化け物じみたディテールに圧倒されるが、リアリティと抽象を両立した多賀慧氏のデザインも計算され尽くしていて好きだ。

内容は「コメディ」を期待し過ぎて肩透かしだった。キャラクターの半数は面白いが(山中翔太演じる種田やイジリー岡田演じる勅使河原が演技力も申し分なく最高だった)残りはシリアスだし、せっかく良い意味で様子のおかしい辻枝に唐突な芸人ネタを披露させるのはいろいろと台無しな気がする。そもそも物語自体が生真面目で皮肉に欠けた。「舞台裏を描いたコメディ」であれば舞台裏の様子を大袈裟に脚色したり皮肉ったりするのが看板通りだろうが「リアリティがある」と演者たちが口々に語る物語は正直物足りない。コメディではなくリアル路線でときどき笑える「いい話」として見ていたら評価にかかる印象が違ったと思う。『誰かが彼女を知っている』の環境音や黄昏のリアリティとサスペンスの塩梅は最高だったから。

舞台監督・戸根の面白さは無口で憮然とした彼があんがいロマンチストで情熱的だったことに起因すると思うので、二丁目だのオカマだの男同士だの差別的なツッコミは余計だと思った。一真を押し倒したときのセリフ、私だったら「えっなにこれ? おにいさん激しくない? こんなのR指定じゃない? どういう舞台よこれレーディング設けてないんだけど!?」とかにするかな……別の意味でマズいかな……。ていうかこの手の指摘は他作品の感想でも佃煮にできるほどしてきたんですけど、その度に作り手たちは最近のヒット作の美点を活かす気はないのかと首を傾げてしまう。たとえば2017年のコメディ映画『ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル』ではバーチャル世界で太っちょおじさんになった女の子がとある青年に恋をする。それを巡る「笑い」の取り扱いは受け手の感性に委ねられて登場人物が差別的な態度を取るものではなかった。

一度表現の豊かさを知ってしまうとマイノリティをピエロにしてあざ笑うやり方に固執するのは作り手の引き出しの問題だと思う。女性を巡るからかいやがらせを面白いものとして扱うシナリオが横行する劇団系の舞台の中でアンチョイにはそうしたノイズが(見た限りでは)ないことを評価していただけに少し残念だった。セクハラを面白がる作品を避ける筆力があるならゲイ的な行為を笑いものにしないネタも書けると思う。2.5以外にも女性の見易い舞台が劇団系にも増えて欲しいし、欲を言えばほかでもない女性作家が率先して生み出してほしい。

事故や身内の不幸や体調不良を押してでも公演を行うべきか?という作中の葛藤は演者だけではなく観客の問題でもあると思った。興行中止にかかる金銭的な損害という生々しい「最大の理由」を除いたとしても演者たちのプロ意識や納得を問うだけで済む話ではない。他者の不利益を踏み台にする消費を肯定できるほど私たちは無責任ではなくなってしまった。娯楽の選択肢が星の数ほど溢れた時代、観客は良い作品を見たい願いと同じかそれ以上に「よい消費者」でありたい欲望がある。

とはいえ興行という仕事の形態でいったい何が「搾取」でいったい何が「プロ意識」なのか、その線引は難しい。観客もこれは悪しき消費なのか甘受してもいい消費なのか迷っている。制作側の「リアリティ」に基づいた「プロ意識」の高い「いい話」に両手を上げて感動しようにも観客は脛に傷の多い共犯者だ。当人たちが納得していても他者である観客がそれを無批判に肯定するのは倫理にもとる。稽古や撮影で事故があればそれは観客の痛みになり責任になる。だからこそ私は『team』の支え合い以外の要素―――自らを犠牲にして作品を完成させようと頑張る姿―――に「それでいい」と言って感動する観客にはなれなかった。それでも「そんなことしなくていい」とは言い難い。そこまでしなくては興行が成り立たないような仕組みを生きているのは他でもない演者なのだから。苦い共犯者としての自分は作り手たちの達成感とほど遠いところに座りながら物語を楽しんだり首を傾げたりしている。

お気に入りの登場人物は意外と(?)演出家の玉出だった。初見は彼の時代遅れパワハラムーブに胃がキリキリした。慎重な正論を語る若者に理不尽な根性論!典型的な藁人形論法!ダメなもんはダメで説明もしない!耳を傾けずに威圧する!ダメだこのおっさん!みんな逃げて!みたいな。けれど仕掛けがわかって観る二度めには彼にニヤニヤし通しだったのだから面白い。玉出には若い役者たちの、従順とも違う生真面目さが想像できなかった。顧客の反応が見えるネットの世界を熟知しているが故の緊張感もわからなかった。マチズモに観客を巻き込めた時代から遠く離れた感性を予想できなかった。玉出は強気な言動でお茶を濁しながら作戦が破綻しつつあることに焦っていたはずだ。「最大の演出ってね!」と得意げに笑いながら(かわいい)そのあたりをまったく想定できてなかった能天気はむしろ愛おしい。元妻であるアイテムと口癖が似ているのもかわいい。萌える。プランクできないのもかわいい。やっちまったおじさんかわいい。

 

 

蛇足。公演前アナウンスで「面白くなくても笑ってね!演者の力になるから!」的なものがあったんですけどジョークとはいえちょっとあんまりだと思いました。笑いも涙も感想も感動もすごくパーソナルなものだからこそ価値があるのに接待を求めるのはいかんでしょ。大多数にウケなかった場面でもツボって笑ってくれた少数を周囲が桜扱いしかねないお膳立てはマズいと思う。それとは別に「私が良いと言ったらおべっかではないから自信を持て!」と伝えられる心意気で観客をやりたいです。

舞台『グーテンバーグ!ザ・ミュージカル!』(2019年)_感想

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2名の役者が限られたセットの中さまざまな役をこなすコメディであること以外、何も前情報を入れないまま足を運んだのですが、作品における劇中劇が印刷機を発明した実在の人物ヨハネス・グーテンベルクを扱ったものだったのは久しぶりに嬉しい誤算でした。というのも、リテラシーとはかつて単純な読み書き能力を指し、作中でも市民の識字力が問題にされるのですが、私自身、最近のあらゆる議論に、広義のリテラシーの社会におけるおぼつかなさを感じていたからです。文字が読めないがゆえに取り返しのつかないミスや差別が横行する中世も、文字が読めているはずなのにあえて心地の良い嘘を信じて歴史修正主義を公然と口にする人々が行き交う現在も、反知性主義が跋扈して、享楽のみを娯楽とし、差別が野放しにされている意味ではそう大きく変わりない。グーテンバーグがもたらした印刷機は世界の福音になりえたが、現代のリテラシーはあなたや私が頑張る以外に「希望」は存在するのかしら。劇中、不意打ちのような「バーニラバニラ」にケタケタ笑いながらそんなことをしんみり考えてしまいます。

中世の窓から (ちくま学芸文庫)

中世の窓から (ちくま学芸文庫)

 

本家『グーテンバーグ!ザ・ミュージカル!』は2005年、45分間のパイロット版が上演されたのち、2006年にオフ・ブロードウェイに進出してからも様々な賞を与えられました。脚本家・作曲家としてブロードウェイ進出を目指すダグとバドは、ミュージカルの醍醐味だと信じる「社会派娯楽」にあたる作品を書き上げ、多くのプロデューサーたちの前で上演します。ブロードウェイ進出の足がかりのための公演故に大掛かりなセットはなく、記名された帽子を次々取り替えながら多くを演じ、演出も逐一言葉にして伝えていくスタイルは、ミュージカルを俯瞰的に扱って滑稽な面白みを醸しています。本作はそうしたミュージカルのパロディであると同時に識字率の低いシュリマーと現代を重ね合わせる社会風刺の要素にも満ちていました。中世らしからぬ倫理観をもってユダヤ人差別を非難するグーテンバーグを通し、観客は歴史劇の舞台に現代への批判を見出します。というのも、これは現代の課題をそのまま上演するとあまりウケないというダグとバドの見立て故の手法なのですが、そんな建前で中世ドイツを描きながらも幕間のトークでは現代の風刺も忘れないのがまた小憎らしい演出です。

ここまでの大筋は本家のそれと共通するものでしょうが、原田優一と新納慎也の演じる本作は、劇中劇外の大部分の台詞が日本社会に合わせた風刺へ変えられていました。大本の脚本は入手していませんが、もともとそうした自由を許容する戯曲なのだと思います。そして、それが成功していてひたすら可笑しいときもあれば、風刺や時事ネタとしてはセンスが悪いと感じるものもままあり、本家をそのままやっても意味がないと確信しながらも、一方で日本の「社会派エンタメ」の未成熟さというか、作り手・受け手共にその土壌を形成してこなかったのだと痛感させられることがしばしばありました。

例えば「大阪城にエレベーターをつけたのはミス」は現首相への皮肉とわかって手を叩いて笑ったけど、「トランプとキムとミサイル」はどうだろう? と首を傾げてしまいました。もちろん蜜月のようなふたりのやりとりが海外でも揶揄をもって受け止められていることは知っていますが(下記要約ツイート参照)それを日本でやってしまうのはまた別の意味を与えてしまうのではないか? と素直に笑う気にはなれません。

というのも、独裁政権拉致問題から北朝鮮は日本社会にとって既に悪く言いやすい対象として世間に浸透しているからです。現在の朝鮮半島情勢が日本の植民地支配に端を発していることを踏まえると、ポストコロニアルの視点に欠けた日本の言論の未熟さをそのまままな板の上に乗せたに過ぎないのではないかと考えてしまいます。2000年代初頭日本テレビの夕方のニュースで何年も放送していた『北朝鮮の七日間』は朝鮮学校在日コリアンへの風当たりを強くしました。私は当時小・中学生でしたが、親が当たり前のように朝鮮半島の悪口を言うので、本当に嫌気が差しましたし、大人になった今でもテレビは差別的で恐ろしいので見たくありません。さらに、「トランプとキムがミサイルで日本侵略」みたいな切り口がはたして面白いのか? といったら、右翼でカルトの国粋主義者たちが政治家の顔をして国防を声高に叫んでいる社会なのだから、むしろそういった他国への敵愾心自体を風刺の対象にすべきだろうと思うし、北朝鮮を悪者にして単純化した国際情勢を消費するだけなら別に演劇でやる必要はないと思います。というか、作中であれだけグーテンバーグが仮想敵を作ることを非難しているのに、日本版のアレンジではそれをやってしまうのね。(もし本家がイラクを揶揄していたんだったらどっちもどっちだけど。)

これらを差し引いても、コメディの方向性として「風刺の方向がどちらを向いているのかわからない」と感じました。左派的な視点で政権を風刺したかと思えば、右翼的な視点でかつて植民地支配した国の情勢をこき下ろす、なかなかに尻の座りが悪いです。海外のスタンダップコメディや風刺ドキュメンタリーを見慣れている世代としては噛み合わないパズルを見ているような気分でした。もっとスマートに笑わせてほしい。

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

 

パロディなので多方面への関心があればあるほど面白い仕上がりです。政治ネタに関しては批判を挟む余地がありましたが、如何せんミュージカル俳優を生で見れたことは少ないので、その場で笑いはしても別に知識があるわけではありません。引き出しを増やすことは自分の喜びに直結するんだなと改めて思いました。「ライオンの王位継承争いやフランス革命ばかりがミュージカルではない」はさすがに私でもわかる。むしろ『レ・ミゼラブル』は2012年の映画版の大ファンなので「レミゼを揶揄しやがって!」みたいな感情はあるのですが、レミゼがミュージカル界における紛れもない権力であり、そうした花形ではない小さなミュージカルが集客に苦労するような現状がもしかしたらあるのかもしれない以上、それはまさしく風刺です。しかも子役時代にガブローシュだった原田優一が横にいるからなおさら面白い。

好きなものが風刺の対象になったときの態度、それこそ読解力というか広義のリテラシーにかかってると思います。たとえば最近では自分の好きな権力者の肖像を燃やされたからって背景も知らず、「権力」の何たるかも熟慮せず、従順に吹き上がってしまうダサイ人々が大勢可視化されました。いくら文字が読めたって学ばない人は学ばないことの証明です。

にも拘らず「きみはばかなんかじゃない、文字が読めないだけだ」とヘルベチカに語りかけるグーテンバーグは優しい人です。現実なんて、読み書き能力のリテラシーはあっても、妥当性のある解釈を導き出すリテラシーに欠ける人間しかいません。どんなに学術の素養のある人間でも油断をすればあっという間に足を踏み外してしまうでしょう。

厳しいことをいえば、リテラシーを高めるためには学術的な研究に裏打ちされた一般書を人生を通して読み下していくしかないのですが、人間心理のひとつである認知的合理性を求める欲求はフェイクニュースでも満たされていまいますから、知的欲求は諸刃の剣です。どんなに荒唐無稽な嘘でもその人の中で辻褄があっていれば人間わりと満足できちゃいます。「文字さえ読めれば」というグーテンバーグの期待は、差別や中傷もまた文字情報から生まれることを知っている現代人にとってはあまりに切ない夢物語かもしれません。しかしながら「言葉を飲み干す」ことの本来は、美しい理想のためであったのだと思い知らされるようでもあります。

リテラシーとパロディを主軸にした本戯作はクリティカルの面白さを存分に活かせるいい題材でしたが、独自の要素を組み込むにあたって主題が散漫になって、かつ生ぬるくなってしまったのかなあという印象です。もちろんいい感じに笑ってちょっと考えさせられて、すてきな時間は過ごせたけれど、同時に日本の「社会派」を娯楽に変える弱さを思い知らされたようで、やっぱり、脚本家ひとりひとり、俳優ひとりひとがもうちょっと社会へのリテラシーを養ってほしいし、観客もそれに応えられるだけの素養を身につけなければ、「物語」は痩せ細っていくばかりだと思います。とりあえず、きちんと校正に手間をかけてる岩波新書中公新書を読もう。印刷された、よいものを。


舞台『骨と十字架』(2019年)_感想

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Twitterでの評判とタイトルに惹かれて初めて新国立劇場の小劇場を訪れました。ロビーの壁面に飾られた原人から新人までの歩みや、ゴシック調が美しいフライヤーの原画は、いずれも引き算の舞台美術を補完するような装飾性の高いデザインで、着席前から観客を世界観に引き込もうとする意欲に満ちてわくわくしました。ただ、キリスト教的ロマンのある哲学的な作品を観るつもりでいた私としては、ゆる~いマンガ絵による相関図やTwitterの宣伝のノリはあまり好きになれなかったのですが…(あと何回か観てオタク目線でハマれていたらとても楽しかったと思う)

舞台は1900年初頭。教父にして考古学者である主人公・テイヤールは信仰と学問のはざまで葛藤するのですが、はじめこそ教会組織による外圧というかたちであらわれていた折り合いの難しさは、一幕の引き際、彼自らミッシング・リンクを埋める原人の人骨を発見したことで己の内側からもたらされる苦悩へと変貌します。一見、信仰と学問の相剋のようにみえますが、私にはそうと思われませんでした。なぜならテイヤールは外圧に抗っていたときでさえ、科学的妥当性を無視できない研究者のようでありながら、それ以上に神の存在を信じる宗教家だったからです。

 旧約聖書による人類誕生の物語を考古学的知見から否定しても「聖書の記述はあくまで比喩だが進化の過程に神は介在していた」というのが彼の主張でした。検邪聖省に属するラグランジュが彼を「異端」と呼ぶのもあながち暴言ではないかもしれません。公会議を重ねた末に統一見解を固めたキリスト教の世界において「持論への逸脱」は実態的な例外はあるにせよ形式上は警戒すべき対象になるでしょう。遠藤周作『沈黙』に描かれた「人たる弱さ、あるいは優しさ故の棄教」を赦す神の描写さえ、イエスの気高さを崇敬するが故に殉教を美徳として喧伝してきたカトリック教会からの反発を招きました。その点、科学という聖書を逸脱せざるを得ない分野に手を染めながら、決定的な否定を招くほど生物学の研究に邁進することはなかったリサンは、無信心の観客と同じくキリスト教的世界観と実証主義の相容れなさをよくよく理解していたと思います。一方で、双方の乖離を理解できないほど神を信仰していたテイヤールはそのリスクに頓着する様子がありません。

第二幕、目の前の考古学的証拠に神の不在を察したとき、テイヤールは独自の神の在り方を模索しはじめました。「進化の過程に神が介在する余地はない」と察した彼は苦悶ののち、自らの宗教体験や独自の解釈によって「人は自らの足で神に近づいていく」啓示を得たのです。私はそれにほんの少しずるさを感じてしまいました。進化も神の赦した人の子の姿であると信じれば今後どんな研究成果が現れても「神が認めた」ことにできるし、自分は神を信じていると固い意志を持っていれば周囲からどんなに異端を責められても「自分は信念を持っているのだ」と誇りを手放さずにいることができるからです。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

テイヤールは自分がキリスト教的枠組みから外れて独自宗教へと入り込んでしまったことに気づいていません。それを新しい神学と呼べば聞こえがいいのかもしれませんが、宗教と科学の合体は、本来価値判断を挟むべきではない厳然たる事実に特定の思想を付与してしまうという意味で悪魔的に思えます。もちろんキリスト教保守が教条的に教育すらも牛耳るような社会において神の不在を前提にするような学問がいかにマイノリティでありラディカルな扱いだったかは想像にかたくありませんし、劇中はそうした社会の空気に満ちていますから、彼をずるいと言い立てるのも不公平だと思います。けれども歴史を知っている私達にとって、ただでさえ優生思想の根拠として利用されがちな進化論を「神に近づくため」と位置づけるのを感動的に受け止めることはできません。宗教による教条主義も、宗教的価値観の恣意的利用も、害悪でいえば五十歩百歩に思えます。ですから、最初から最後まで、私はテイヤールの哲学にラグランジュと同じかそれ以上の警戒心を抱いていました。

この感想はモデルになったテイヤール・ド・シャルダンの生涯や著作を調べないまま書いているものですから、現実の彼の評価や影響についてどんな功罪があったのか現時点ではわかりません。ただ、この作品を通したテイヤールという人は普遍性のために学問を追求したというよりは、自らの信じるところの美しいものの根拠のために学問をしていたという印象で、悪く言えば牽強付会だし、よく言えば自身の精神世界のために苦難の道を歩んだ人でもある。その意味で『骨と十字架』に主人公を肯定的に評価する故の感動というものは一切なかったのですが、他の誰にもなりえない孤独な個人が、純粋さを保ったまま孤独に信念を貫いていく―――美しいような、不気味なような、ひどく共感し得るような―――姿に、火口見たさに妹を火山に連れて行った少年時代の彼が重なって、賛否の介入する余地のない、ひとの精神性の恐ろしさを感じました。

NHKスペシャル 人類誕生 大逆転!  奇跡の人類史

NHKスペシャル 人類誕生 大逆転! 奇跡の人類史

 

 

 

舞台『クレイジーメルヘン』(2019)_感想

f:id:gio222safe:20190626112457j:plain映画『ラ・ラ・ランド』の真逆のようなオチは好き嫌いの分かれるところだと思いますがオールフィメール演劇の良さを活かしたような脚本で個人的には面白く観ることができました。社会風刺がコメディとしてきちんと成立しているのも好印象。例えば舞台には大衆受け狙いから一線を画した作品が多くある一方で、今どき民放でもやらないような性的偏見表現ゴリゴリのメロドラマだったり、笑わせるつもりでエクスキュースのない性差別やセクシャルマイノリティ差別を放流していたり、単なる現状追認に甘えた質の低い戯作がごまんとあるわけですが、本作はレイシズムや優生思想やBPOに問題視されるネットTVの過激さなどの社会問題として扱われる要素を貪欲に散りばめておきながら、それらを馬鹿馬鹿しさとして風刺的に扱うことに長けていたため「ああ、この作家は信頼できるな」と安心して楽しむことができました。風刺的な扱いではないけれど母子家庭の貧困・保育士の薄給にも触れている。主人公をサポートするレズビアンの描き方も最初の掴みは過剰に性的だと感じたけど総合するといい感じ。「戸籍を取り寄せると…」あたりはもっとヒエラルキーを形成する馬鹿馬鹿しさを突っ込んでフォローしたほうがよかったんじゃないかと思うけど(それこそ戸籍制度を利用して維持された現実の在日コリアン差別*1は目を覆うほど酷いので)いずれにせよブラックジョークを表象に取り入れるのであれば作家が時事にまっとうな感性を抱いてることは最低限だと思いますからクレメルはその点うまく仕上げたんじゃないかと。偏見の垂れ流しかブラックジョークになるかの境目は微妙に見えてはっきりしているので。

演出は可もなく不可もなく。演者の不慣れをカバーできるほどの力量ではないし、観劇の喜びを味わえるような美の追求はないものの、どこかで見たような演出記号を組み合わせていたので表現したかったことはよくわかる。その記号自体も全体的に装飾性に乏しいのは脚本がパワフルなぶん物足りない。それまでの「現実」から何のクッションもなく突入していた夢との混線や、シーン展開のメリハリのなさは、他の作品であればいざ知らずクレメルにとっての最適解ではなかったように思います。もちろんあそこまで大人数をまとめあげながら演出の質を上げていくのは難しいと思うので「がんばって…!」としか言えないのですが。良かった演出はおもらしの黄色いライト。あれは(いい意味で)ひどい。時間が巻き戻るシーンは「この演出、この一年で5作品は見たわ」「いつまで演劇はビデオ時代を引きずってんだ」という気分で食傷気味………と思っていたのですが登場人物それぞれの迷台詞の掻い摘み方が可笑しくて可笑しくて、その他たくさんの作品における時間の巻き戻し演出の中では一等好きです。クレメルの台詞選びが好きだなあ。プリプリピチピチの伊勢海老とか本当に意味わかんないけどお気に入り。

主人公・ミコトの家訓は「Don't think! Feel!」。これはしばしば受け手が「ツッコミどころは山程あるがバイブスを感じる作品」に対して使うフレーズなので最初は「批評に対する予防線かな」と邪推したりもしたのですが、原典になった映画の台詞は「真実を見据えないといつまで立っても栄光は掴めないぞ」という趣旨なんですね。爆裂チーム初日のみの観劇でしたが、ミコト役の三人はいずれも主人公として立つことに馴れていたように思います。中学生のミコトが社会人のミコトに諭す「みんな意思を持って仕事をしてるからぶつかる」との言、自分自身がクライエントとサービス提供者を繋ぐ調整の仕事をしているので心から頷きました。そこからのオチは梯子を外された気分にならなかったかといえば嘘になるけど別に仕事に順応することがテーマじゃないし、『プラダを着た悪魔』のアン・ハサウェイだってあの職場を去ったことを思えばなんだか転職多めのアメリカ映画っぽい選択で私は好きです。

プラダを着た悪魔 (字幕版)

プラダを着た悪魔 (字幕版)

 

新人さん多めなのか、演者による実力のバラつきはあったものの、個性強めで性格の悪い女たちの群像劇は痛快で、これはあまり熟れた役者ばかりにやってほしくはないなあ、とも思いました。ただ声量のバラつきは観劇の快適性を損なうのでもうちょっと頑張って欲しかったかな。物語運びとテーマ性のバランスもよく、小劇場系の脚本でよくある変な背伸び(※脚本の力量に伴わないやたら壮大なテーマをぶちこむ、よく知りもしない社会問題にいっちょ噛みする)がないおかげで、等身大のB級映画が好きな人はツボにハマるんじゃないかしら。女の子のエンパワメントコメディとして愛らしい掌編なので、これからもいろんな演者、いろんな演出で見たいなあ。

ラ・ラ・ランド(字幕版)
 

 

*1:梁英聖 著『日本型ヘイトスピーチとは何か -
社会を破壊するレイシズムの登場-』

舞台『みんなのうた』(2019年)_感想

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2014年に第26回池袋演劇祭に出品されたIKKAN氏脚本演出の再演である本作はテンポよく飽きさせないサービス精神に溢れる戯曲だったが、安堵と爽快感を覚える結末に至るための道程は、狙いこそ察せられるものの伏線とおぼしき要素要素がちぐはぐだった。「みんな」から愛されていたはずの主人公の人柄を語らず、能力ばかりを強調し、わかりやすい悪人や下層社会の描写はときに成立させるための無理が目立つ。男女関係にまつわるシーンの山場は告白・セックス・プロポーズ、そして妊娠。記号性の目立つ恋愛描写は主題に不可欠であるはずの絆の在り方がほとんど描かれない。肌に合わない以上に「これをできる人がどうしてここには無頓着なんだろう」ともどかしさに苛まれてしまう脚本だった。次から次へと場面が切り替わり二転三転する演出は観客を退屈させないことには優れているし、薄暗いテーマに軽妙さを与える戯画化された端役たちのお祭りは楽しかった。とりわけフィクショナルな端役たちを巡る「わかりやすさ」は世界観の妙として魅力のあるものだったと確信している。一方で、複雑な現実が横たわっている問題をワイドショー的な理解のまま物語に引用する「わかりやすさ」に関しては、倫理観にまつわる議論以前にステレオタイプへの依存と無知がダサい。例えば劇中、痴漢冤罪のときには息子を庇いきれなかった父親が殺人容疑になってようやく「そんなことするような子じゃないんですよ」と涙ながらに口にする場面があった。信じることや愛の在り方を巡る対称性を狙った意図は理解できるけれども、その象徴性ひとつのために「痴漢冤罪」を扱うにしては、提示された文脈・表現は巷の偏見と何も変わらず、せっかく虚構の土俵に乗せながらクリエイティビティのかけらも見当たらない。

「転落」を描きながらトラブルのほとんどは主人公を貶めきれず、物語終盤の詐欺被害と「殺人」をもってはじめて彼は全てを失う。「順風満帆だった男の人生が徐々に狂い始める物語」ではなく「プライドを満たせない状況を受容できなかった結果詐欺に引っかかる男の物語」として受け止められた。(もちろん現実の詐欺において被害者に落ち度はない) であれば大井川一郎という人間の在り方を台風の目として君臨させてもおかしくはないが、主人公の自分自身に対する評価が不明瞭なまま状況だけが様変わりしていく。取り巻く環境は「極端に悪意がある」か「不自然に悪意がない」かのどちらかで「主人公を悲劇のヒーローに仕立てたいけどフルボッコはかわいそう」とでも言いたげな煮え切らなさが常に横たわる。手ぬるい処遇が却って大井川一郎のキャラクターのうまみを追求し損ねている。『みんなのうた』は目に見える違和感と共に、たくさん生み出されていたはずのおいしい材料がいずれも調理されないまま終わっていたように思えた。

いかんせん台詞での「説明」が多い。時の流れの目まぐるしさのために独白を挟む演出は好きだった。それでも一郎が何を目指して何を忌避していたのかはわからない。劇中、嫌味な後輩・後白河が最難関である理Ⅲに合格したことに劣等感を覚える描写があった。ところが終盤になって一郎は幼くして母親と死に別れ、いっときでも医者になりたいと願ったことが明らかになる。ならば理Ⅲこそ他でもない医学部への登竜門であるはずが、彼がそれに挑戦した形跡は伺えない。むしろ一郎は慢心とも取れるほど早くに勉強を切り上げていた。「新東大であれば学科はどこでもいい」認識だったのだろうか? 教授を父親に持つセリナの影響だろうか? 勉強のペースを落としたタイミングから考えるとその線はないだろう。いずれにせよ進路選択は人生を描くために注視すべき要素であるにも関わらず、大学名だの学科の難易度だの、本質には程遠いステータスの話ばかりで彼の青写真は不明瞭だった。新東大ブランドを気にするわりには学科ブランドに無頓着だったのも解せない。ようするに彼は「何がしたいかわからないけど新東大でなきゃダメ」と強迫的に思い込んでいたのだったが、それを示す鍵は影によって表現されたどこに住んでいるかもわからない親戚の群れだった。身内としての肉体を持たないがゆえに一郎にしか見えない幻のような彼らとの交流の程はわからない。親戚ではなく有象無象からの重圧の表現であれば適切だったかもしれない演出に大きな違和感はないが、その記号性で「なんかすっごいプレッシャー」を連想できるに留まって、関係性の不明な彼らの期待さえまともに受け止めてしまえる一郎の、繊細過ぎるほど生真面目な(あるいはプライドの高い)パーソナリティの中身に触れらることはなかった。一郎が新東大にこだわる理由について姉も首を傾げていた。そんな姉の鈍感さを責めるように「わかってもらえない」と独りごちる彼もまた、世間並みに弟の受験を心配し、世間並みに彼の幸せを願い、世間並みに同じ両親から生まれた子どもとして、弟と適切な距離を保ちながら人生を歩みたかったはずの彼女を、まるで好き放題甘えられる母親のように扱っている。

ストレスに至るために必要な環境因子と個人因子の相関のうち、後者についての描写が圧倒的に不足していたのだと思う。環境因子にしても、最も身近な父親や姉に権威性はなく、彼の行く先を縛るほどには頓着していないので、親戚たちのガヤだけでは説得力として不十分だと感じた。せっかく母親との関係で「賢い自分」の自意識を確立した回想を用意していたのだから、いっそ他人からのプレッシャー云々は省略してもよかった。「一郎が他人からの期待だと信じていたものは他でもない自縄自縛だった」推測に至るには、大井川一郎の自意識の在り方についてあらゆるコンテクストが無頓着だったと感じている。

現実に大学を除籍になった経歴を持つ牧村朝子さんの下記コラムを読んで、私は「勉強ができる」ことで教員から「点取り虫」「可愛くない」と言われつづけ、一方では生徒会役員を期待されたりクラスメイトからは「頭いいキャラ」として距離を置かれ揶揄われた中学生時代を思い出す。勉学にまつわる自意識と自己承認欲求と他者評価と寂しさの相克。私は一郎に共感できるはずだった。それでも一郎の描き方に痛みを感じることはできなかった。

学生の身分を失って社会に放り出された後の展開はいよいよシリアスなんだかコメディなんだかわからない。ヨージと鈴子の家に転がり込むところまではよかった。その後の身の振り方として「就活に失敗」とか「アキラたちに対抗して劇団を立ち上げるも振るわず酷評」とか「城内塾時代のつてで起業したが裏切られる」とか、これまで散りばめられた材料を活かすかと思いきや、大井川一郎は突然きれいめのウシジマくんへと変貌してしまったのだった。しかもスカウトの理由は顔。びっくりするほどフィーリング。もちろん、全編を通して彼の「顔」に何らかの象徴性を持たせたかったことは理解できる。顔によって惚れられ、顔によって評価され、顔によって目をつけられ、顔を隠し、顔を変え、「もっともっと褒められたかった」自意識の象徴としての顔は、再会した息子に「顔がいい!」と無邪気に肯定されることで救済を得る。台詞回しはとことん下世話だが、目の付けどころとしてはシンボリズムを想起させる美しさがあった。とはいえ、いきなり顔を理由にスカウトされるのは唐突が過ぎる。もう少しやりようがあったんじゃないかと思う。あるいは、あそこまでフィクショナルなシチュエーションに持っていきたいのであれば、もっと顔の象徴性をひとつ輪郭として固めるべきだった。

謎の男がいきなりハードボイルドなアンニュイ感を醸し出すのは面白かった。けれどもそれ以降、生真面目に世界観に没頭する気力を失った。もしかしたら名前のない男と逃亡生活中の一郎を重ねたかったのかもしれないが、既に述べたあらゆる伏線狙いのファクターと同じく、キーワードを「考察待ち」と言わんばかりに並べただけで、それらを統合するための処理を怠っている。下層社会に足を踏み入れるにしても「働かずに済むなら」と独白した直後めでたく就職先が決まってしまうのはあまりにもジェットコースター展開だった。なんならネットカフェ難民として生活する描写があってもよかった。繁華街を通り過ぎる人間から見下され、暴行され、福祉事務所に保護を求めようとするもプライドが邪魔してとんぼ返り、等々。一郎を追い詰めようと思えばいくらでもできるのにひたすら手緩い。あるいは社会問題性の高い描写を意図的に避け、娯楽としての表現にこだわったのかもしれないが、であればもっと気を配らなければならない点はいくらでもあったはずだ。「ああすればよかったこうすればよかった」と言いたいのではなく、彼が何を忌避して、何に限界を感じ、何を妥協し、どこで自暴自棄になったのか。いまいちわからないまま物語が展開していくことに、いい加減遣る瀬無さを感じ始めたのをよく覚えている。

主人公がどんなに「転落」してもかつての仲間たちから白い目で見られないことも不自然だった。彼女と同棲してる友達の家に転がり込む非常識な行動は、仲間内に後々の禍根を残せるほどおいしいエピソードなのに、それが十分生かされていないのがもったいない。鈴子の親友である栞が変わらず一郎に想いを寄せてるのも不可解だった。片思いの相手が異性のいる家に転がり込むの、よっぽどのマゾじゃない限り冷めるどころじゃ済まなくない? それとも栞ちゃん、恋に盲目なのかしら。どうせなら鈴子の相談を受けて「先輩、もしよかったらうちに来ませんか…?」なーんて誘うくらいかましてもよかったのに。

結論から言えば後半の栞の失恋は「マジ泣きするほどか?」と違和感があったのだった。高校卒業後、ほとんど会ってもいない男性に想いを寄せ続け、結果真に受けてもらえずマジ泣きする姿は、アキラとの確執に繋げるためのご都合主義としか思えなかった。どうせなら、親友がどんなに迷惑を被った男であろうと、ここぞとばかりにアプローチをかける「恋に恋するエネルギッシュな少女」としてキャラクターを確立させていればよかった。彼女の一郎に対するあっさり感と実は秘めていた想いのバランスは魅力的なように見えてシーンによっては唐突さも覚える。繰り返しになるが、アキラの想いをジョークとして流してしまった因果応報として彼女の失恋を表現したかったのであれば、もっと丁寧に栞のキャラクターを描くべきだった。パーソナリティ描写の不足は大井川一郎に限らない。「一郎先輩はゆりえ先輩と付き合ってるのかな…」と心配しながら彼女へのサプライズに一郎をあてがう栞の警戒心の程度にはさすがに首を傾げた。自滅があまりにも鮮やか。

話は逸れたけれども、いっそ鈴子が栞の家に行ったきり帰って来なくなってもいい。その結果、ヨージとのあいだにさえ亀裂ができてしまってもよかった。鈴子の苛立ちをあれだけ無視しておきながら(気づいてないのか?)わかりやすい揉めごとをきっかけに自主的に出ていくのは肩透かしもいいところだった。ほかでもないヨージに拒絶されるほうがドラマとして面白い。口ではつい乱暴なことを言いつつも、ヨージがなんだかんだ鈴子を大切にしている証にもなる。「なんでおれの言うとおりにできないんだよ」と恫喝したヨージは紛れもないモラハラ彼氏なのだが暴言を撤回するフォローすら入らない。 あれに危機感を覚えない女性も少ないと思うが、ふたりはその後も円満らしい。一郎も一郎で、あの状況で「どこでも疎まれる」って当たり前やん。恋人でもない異性がうちに住み着いてたら女の子は嫌で嫌でたまらないよ。なに拗ねてんだよ。

ともかく、私には彼が最後までチヤホヤされて恵まれているようにしか見えなかった。「転落」といっても、彼のプライドを満たせない状況が続いているだけで、側からみれば浮き沈みはあっても、彼は決して孤立しなかったし、わりとすぐにスカウトされてウシジマくんになったおかげで経済的困窮もしなかった。彼の人生は心理的障壁による選択の迷走がほとんどで物的・社会的側面での剥奪はほとんどなかったといってよい。追い詰められたにしては不自然なほど過去の栄光が生きていた。ひたすら手緩い、と感じた。

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

一郎の自縄自縛の内面にドラマを見出したかった。もっと窮迫し、孤立してもよかった。そこから再び「みんな」との信頼関係を取り戻し、それでもたったひとりの人間・アキラとのわだかまりによって殺人未遂に至ってしまうのであれば悲劇性があった。この事件を通して、仲間たちがあらためて彼に対する受容のかたちを模索するのであれば、呼び込みどおりの「みんなとの絆の物語」として成立したと思う。ところが、既に述べたとおり登場人物は一貫して一郎に対して寛容で、不自然なほど悪意がない。再会した鈴子も「おかえりなさい」と戸惑いの笑顔を浮かべながら、それでもかつて自分が受けた苦痛について本心を明かすことはない。とうの一郎も鈴子に頭を下げることはない。彼女が文句を言えない立場であることを知っているはずの一郎に誠意は伺えない。あのシーンは明らかに「赦し」の描写だが、「水に流す」ことを年下の女の子に強いる構図は美しい表象とは言えない。つまらないリアリティはあるけれど、二人の間柄に「絆」を見出すのは難しい。

そもそも高校時代から一郎が「人気者」足り得る理由は「一郎先輩はすごいなあ」に終始している。「すごいなあ」の中身は彼の性格ではなく顔や才能なのが物悲しい。輝いていた時代の求心力を容姿・能力に限定するのは解せなかった。そこは「一部の評価」としての取り扱いでよかった。だって、高校時代の彼には、優柔不断で情を捨てられない優しさがあったじゃないか。めんどくさがらずにさまざまな部活を助けた。アキラだって受験を控えているはずの一郎に救われた。ヨージも彼のお節介で強がりを解きほぐすことができた。そうした大井川一郎の美点は強調されない。「みんな」が愛した彼の人柄が語られないまま、ただ「すごいひと」として仲間の口の端に上り、上滑りの幸と不幸を行ったり来たりする人生の顛末は、「結婚」というあざといほどわかりやすい幸福のシンボルに辿りつく。

大学受験にせよ、できなかったアルバイトにせよ、一郎は「ステータス」の価値観から自由になれないことで不幸になった。にも関わらず物語は既存の幸せのステージを疑わない。好きな子からの告白・セックス・そして結婚。ならば、はじめからこの物語の中で一郎が自由になれる余地などなかった。大切なのは告白のイベント性ではなく恋愛の豊かさであり、セックスの事実ではなく心を交わした過程であり、結婚ではなく二人がどんな日々を紡いでいるか―――であるにも関わらず、主人公を巡ってのそれが描かれることは一切なかったと記憶している。大井川一郎がいったいどんな人間なのか、自分らしい生き方とはなんだったのか、どこで間違えたのか、どう起動修正すればよかったのか、それでも自分はたった一度の命を幸福に生きる権利があるのだ―――そんなさまざまな疑問、悩み、願い。物語のそうした視点の欠如は彼の不幸の要因を外部に求める。<きみのせいではないよ、ひと一人の死も、思いがけない妊娠も、きみはいろいろなひとを傷つけたけど、それでも軌道修正のできない「悪」だけはきみのせいではなかったのだ>と。

それでもガス抜き効果の高いコメディを挟む卓越したテンポのよさが功を奏して、あれよあれよと大団円を迎えたため、終演後に爽快感を覚えたことは嘘ではない。とりわけ森公平の存在の説得力は凄まじく、エモーショナルな挙動を抑えているにも関わらず、多重のストレスによって表情を失った人間の、ぐるぐるとした頭の中がにじみ出るような様子とニヤニヤ笑いが素晴らしかった。背中のチャックが閉まりきってないアイドルも可愛かった。それでも、思い返すと戯曲と自分とのジェネレーションギャップに鬱々とした感覚が蘇る。借金の取り立ての場面で「風俗でもなんでも紹介して」と元カレに頭を下げる女の、中高年男性の妄想めいたセックスアピール。女の子のほっぺを乱暴に掴み「やっちまうぞ」とイキる、20代の若者の口から飛び出た台詞にしては時代を感じる雄々しいアピール。

ゆりえが一郎と復縁したかったのは火を見るよりも明らかだが、部屋に通って甲斐甲斐しく世話を焼いていたからといってまるでセックス待ちのように扱われ、暴力的な扱いで男女の関係にもつれこみ、にも関わらずめでたく縒りを戻す展開はカンチガイ男の妄想と区別がつかない。そういう趣味の女もいるだろうが、ゆりえは高校時代の優しい一郎に恋をしたのだから、いくら復縁したかったとはいえ、女を人間と思わない元カレの変わりように何のリアクションもないのが不思議だった。もちろん恋に理屈はいらないが、レイプまがいのセックス導入で円満に至るのであれば、ゆりえの献身的な愛の在り方やその必要性を強調する必要があったと思う。

青年誌の世界に放り込まれたような女たちの媚態や、痛々しさすら感じる暴力性アピールの激しい男たちも、作品の端役として活躍するぶんには面白い。倉木や御影もエンタメ性が高いし、セリナのような「悪女」であればなおさらマンガ的な痛快さがある。けれども一郎とゆりえだけは誠実な関係性を築いてほしかった。『みんなのうた』はエロやアングラを楽しむ作品ではなかったと思うし、そうした過剰性は戯画化の対象として扱われていたはずだ。それにも関わらずテーマ性を背負ったふたりを古臭いねっとりとした男女観に巻き込めば、それがエンタメのスパイスではなく作者の感性の古さとして受け止められてしまう。愛と性にまつわる表現手法について、もっと繊細な眼差しが欲しかった。

不幸に結びつくにはあまりに強引だと感じる分岐点も多かった。物語の組立自体がフィクションの「お約束」に頼りすぎている。「お約束」と言っても可愛らしいものではなく、性差別的な社会に支えられたステレオタイプだが。

例えば既に批判した痴漢冤罪の一件は、2007年の映画『それでも僕はやってない』以降に流行りだしたイメージに過ぎない。痴漢のシチュエーションも、鉄道員からの聞き取りの場面も、父親の発言も、巷に蔓延る誤謬や偏見を再生産しているだけで、わざわざ物語の俎上に載せる価値があったようには思えないのだった。倫理観とか正しさとか誰かが傷つくとか、そうした問い掛け以前に、世間の「あたり前」を疑える数少ないフィールドである創作において、くだらない世間のくだらない言説のくだらない尻馬に乗っただけの再現がクリエイティブや知性や感性としてクソダサイ。どうかプライドを持って戯作をやってくれと尻を叩きたくなった。これは『みんなのうた』に限らない、あらゆる戯曲への願いでもある。尖った表現のつもりで世間の尻馬に乗ってるだけのセンスが演劇では未だ通用してしまう怠慢にはそろそろうんざりする。

恋人が思いがけず妊娠したために一郎は大学を除籍となるが(それも無理筋な展開だが)本当の父親である倉木に認知が期待できないと知ったセリナは、おそらく一郎を子どもの父親にしたかったはずだ。子ども自身の扶養や相続の権利に関わる嫡出の問題をそのままにしておくわけにもいくまい。にも拘わらず、セリナの父親はなぜ認知もさせず一郎を大学から除籍にする「だけ」で済ませてしまうのか。「孕ませたのは悪いけど孕ませた後のことは構わないでいいからね」と言わんばかりの処遇はまるで罪が射精の一瞬にあるような言い分だ。いくらストーリーの都合といっても、妊婦や子どもに対して一切責任を追わない立場のまま放逐させる方向性でよしとした判断の基準がわからない。倫理的な話ではなく受け手を物語に集中させるための「説得力」如何の問題だ。中絶費用の折半もさせない。手術の立会い場面もない。産んだ子どもの噂も聞かない。一郎が疑問に思わないのもおかしい。自分の子どもと言われた存在の生死について、彼が一切気に留めてないのも恐ろしい。

あの状況であればセリナは中絶してもおかしくはないが、何の心境の変化か(嫡出推定の裁判でも起こされたんだろうか)倉木はお腹の子を認知したようだった。その後セリナの懐妊は「一郎のせい」ではないと明らかになるが、どうやら彼女はこれを自覚的に悪用したらしい。少なくとも倉木はセリナをそう扱い、セリナも「やめてよ」と言いつつ具体的な言い訳を口にしない。在学中の妊娠なんて本人がいちばん動揺するはずだろうに「女が妊娠を利用して男を貶める」物語の種明かしに、これが女ぎらいな男性の被害者願望を満たすステレオタイプ以外の何物だろうとげんなりした―――そもそも、妊娠4週を2カ月と偽る時点でアホらしく、彼女の懐妊を巡るエピソードは初めから破綻している。7年後、セリナが無事に子どもを産んで、倉木となんだかんだ楽しそうにカフェを訪れる終盤に胸を撫でおろしたのは事実だった。けれどもそれは彼女が不幸にならなかったことへの安堵であって、一郎が彼女に対して八つ当たりのようなセックスをした挙句、避妊を怠ったこと(紛れもないレイプだバカヤロウ)が免責されたわけではない。

もちろん一郎が家族と共に「今まで傷つけた人たちに謝ろう」と決意したことを仄めかすシーンはある。それでも大団円の爽快感のために取り返しのつかない「殺人」や「妊娠」の責任をパージしたかったことは物語の意図として明らかだった。はたして避妊もせずにセリナをレイプしたことは不可逆的な罪に当たらないのだろうか。それとも「自分の種じゃなかった」し「セリナは悪女」だから行為の責任を背負うに値しないのだろうか。……繰り返しになるが、この無茶なセリナの妊娠エピソードがたとえゆりえとの対比だとしても、男を巡る聖女と悪女の構図をいまどきマジで描くのは怠慢でなければ、よっぽどの自信と知見があっての冒険だと思う。

みんなのうた』の焦点が一郎とアキラに絞られたものであればよかったのにと心から思ってしまう。同性間の拭いきれない羨望や嫉妬、それでも確かに存在した愛情めいたもの。ハイテンポの中であっても丁寧に描けば、青春の感情の揺れ動きや眩さ、そうしたものがくすんでいく様子さえ、一種の夢のように受け止められたのではないか。初演のフライヤーのイラストは彼らだろうか。私はあれがとても好きだった。

「演劇にのめり込む」とあらすじで語られていた一郎だったが、気持ちは明らかに受験勉強に寄っていて、仲間への情と試験への焦りの狭間にある様子はよく理解できたけれども、全編通して芝居への熱意が描かれていたかといえばそうではない。一郎にとって芝居はあくまで美しい思い出だったように見える。息をするようにそれを為すライフワークには至らない、あくまで瞬間的な体験。昔取った杵柄。演劇にのめり込んでいるのは一郎ではなかった。不器用ながら将来を掴み取ったのはアキラのひたむきさだった。一郎は才能がありながらも目移りして、どこにも腰を落ち着けられず器用貧乏に収まった。

行動力のあるアキラとプライドに縛られた一郎。二人の生き方は対照的で、それでもアキラは一郎を見上げていたのだったが、最期のドス黒い感情が吐露される前に描かれていたのが恋敵としての妬みばかりだったのはもったいない。アキラが栞を傷つける男たちに対して敵意を顕にしていく過程は意外な本性の発露としてのおもしろさがあったけれど、一郎に対しての黒い感情は、たかが恋敵のそれではなく、不器用な自分のアイデンティティを揺るがす焦燥感だったのだから、ふたりの人生が唯一交わっていた学生時代に憧れの先輩への愛憎が仄めかされてもよかった。一郎は小ばかにすることはあってもなんだかんだアキラを可愛がっていたし、アキラも天上の存在か救世主のように一郎を尊敬していた。アキラはいつから一郎を「同じ人間」として嫉妬の対象に据えたのだろう。

それは芸能人として成功して、それでも栞に振り向いてもらえなかったときかもしれない。アキラの気持ちを想像してみる。<どうして可愛いあの子は僕を好きになってくれないんだろうか。芝居だって知名度だって、僕はあの人よりもよっぽど上になったのに。……> 理解し難い感覚だけれど、どうにも一部の卑屈な男性たちは、容姿が優れて能力さえあれば、それに応じて女心が手に入ると信じている。女性の存在は業績に対して与えられる報酬であると、まるでサンタクロースのプレゼントを待ち望む子どものように信じている。そんな下世話な憶測を当てはめたところでアキラの本心はわからない。それでも、人間と人間の愛情は必ずしもステータスに左右される質のものではないにも関わらず、現に彼の失恋は容易に一郎への憎悪に結びついてしまった。合同公演で助けられたとき、アキラは何を思ったのか。純粋な感謝だろうか。それとも嫉妬だろうか。ふたりにとって大切なエピソードであるそれを彩る感情は少ない。

双方の決裂はロマンティックにさえ思えるのに、揉めている最中のアキラの吐露が解説として機能したくらいで、ふたりの確執が描かれたシーンは物語のボリュームからすると終盤の微々たるものだった。二人の再会から殺人未遂までワンシーンしかないのももったいない。ドラマの撮影所の近くであんなに揉めて、それでも駆けつける人がいなかったのに違和感を覚えたこともあるが、もっと二人の立場の反転を印象づけてもよかったのにと考えてしまう。互いに顔を合わせることもなく離れているからこそ仮想敵としての恨みが募る側面も確かにあるけれど、あっさり暴力沙汰になってすんなり受け止められたのは演者たちの熱演によるところが大きい。そもそも受験のときの風邪をアキラのせいにしてもよかったのに一郎はアキラを一切責めない。これは当時の一郎の優しさだったはずだ。あからさまな伏線のように演出されておきながら、それとも一郎は気づいていなかったのだろうか。大きな分岐点のひとつだったはずのそれに最後まで光が当たることはない。

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

 

既に少し触れているが、一郎とゆりえの関係をもっと愛情のあるものにしてほしかった。卒業以降、一郎がゆりえを一人の人間として尊重した場面が思いつかない。ゆりえとの復縁も「恩を売る」立場に乗じて男女の関係にもつれ込んだだけで、当時勝手に「自然消滅」を決め込んだことに決着をつけた様子もなく、力関係の不均衡なふたりが再び対等な立場で愛を育む様子は描かれなかった。お互いに腰を落ち着けて向き合う場面がひとつでも欲しかった。高校時代のきらきらした彼でなくなってもゆりえは一郎を愛すると決めた言葉がほしかった。それまではプライドが邪魔してたものの、ゆりえのために地に足をつけて誠実に生きると決めた一郎がみたかった。そんな2人の元に詐欺師の誘惑が訪れたのであれば悲劇的だったのにと口惜しく感じる。あれだけブルーカラーの職種を嫌がっていたにも関わらずゆりえの勧めで介護スタッフを選んだ一郎はもしかしたら「地に足をつける」示唆だったかもしれない。それでも間口が広いだけの介護職を「誰でもできる」と上から目線で論じる一郎に感じるのは周囲に対する致命的な共感性の欠如だったが、これまでと同じように彼のいやらしさを物語がどう眼差しているかは不明瞭だった。

はたして一郎はゆりえを愛していたんだろうか。一郎はゆりえに「一緒に逃げよう」と迫るが、彼女が妊娠していることを知りパニックのまま逃げ出した。もし彼女が妊娠しておらず、あのまま2人で逃げていたらどうなっていたか。一郎がゆりえに暴力を振るっていたことは想像に難くない。「いつも支えてくれた」とゆりえにプロポーズをした一郎。ゆりえに母を見出していた一郎。彼女の幸せも考えず、恐ろしいから自首もできず、ただ一緒にいてほしいから逃避行を迫った一郎。逃亡中の保身のために彼がゆりえの行動を制限し、束縛することは容易に想像できるが、それ以上に、ゆりえを聖女化し対等のパートナーであると見ていない一郎はきっと己の寂しさや苛立ちを彼女にぶつけてしまう。彼にはセリナに対する前科がある。一郎は女性に依存するばかりでまともに愛せた試しがない。であれば再会までに自分の心を見つめ直すかと思いきや「アキラにも彼を大切に想う人がいた」描写に終始している。人の命や人生は、たとえだれかに愛されていなくても大切には違いないのに。それは一郎だって同じはずなのに。家族が待っていなくたって、ゆりえが待っていなくたって、友達がみんな離れたって、一郎は一郎として生きていいはずなのに。

ゆりえは行方不明になっていた一郎の姿を見て産むことを決意するのだが、帰ってくるかもわからない男を我が子を産むための判断材料にする親には違和感がある。「産むことは決めていたけど一郎の姿をみて勇気づけられた」のだったら理解できる。ゆりえには恐ろしいほど一個の人格としての保身がなく、我が子の命を巡る倫理的な葛藤さえ自律した人間として描かれない。それでも「容疑者の妻」であり、かつシングルとして生きるゆりえについて、逃亡生活中の一郎が想いを馳せる様子はない。自分の子どもについて案じる様子もない。これらは意図的に自己中心的な彼の性格を示唆したものだろうか? それとも描く必要性について検討すらされなかったのだろうか? 恋人を聖女化して甘える男に物語は批判的な眼差しを与えない。「成長」なんて上から目線の言葉では括りたくないけれど、テーマであるはずの絆の在り方は「主人公が他者から受容されること」に留まり、彼自身が周りを受容する視点に欠けている。

もちろん演者それぞれの役づくりの方向性や熱量やひたむきさはすばらしかったし「面白い」と感じさせる演出やギミックには優れている。物語の大半が7年後の彼による白昼夢のようなものだ。過去と未来によって隔てられた大井川一郎が、互いの顔を見て「しょうがないな」と言いたげに笑ったり、バツが悪そうにはにかんだりする姿は、自己受容の瞬間のようで胸を打つ。要所要所、いいシーンも確かに多かった。受け手が「面白さ」をどこで認識するか、娯楽における快の誘発をよく心得てる実にこなれた作品だと思った。けれども透けて見える世の中への見識や他者への誠実さの描写に関して軽薄さを感じてしまう。エクスキュースなく挿入された介護職への理解だって90年代の偏見そのままだ。作品は時代性に依拠するものだと考えてるので記事には必ず年号を入れるけれど、これを2019年の作品です、とは言い難い。

有料コンテンツでIKKAN氏の裏話を読むと、上演までの苦労が伝わってきて、本当に尊敬の気持ちが溢れてくるけれども、それを加味してもやっぱり好きになれないシナリオだった。『みんなのうた』は「こなれた作家がこれまでの貯金と手癖で書いた脚本」という印象で、世の中に対する視座を広げる意思が感じられなかった。もしもこの作品が、愛や、性や、命や、学びに対する誠実さとは何か、大井川一郎に語りかけるまなざしを絶やさず物語に散りばめたものでさえあったなら、彼を彩るさまざまな迷いや煮え切らなさやエゴも昇華されたのだろうが、残念ながら、それらのメッセージを伝えるには、奥行きを持たせたいがために用意されたあらゆる価値観は、苦しみの根っこを飛び越えるには至らない。