蜂蜜博物誌

映画や舞台や読んだ本。たまに思ったこと

舞台『トンダカラ 2nd flight』(2019年)_感想

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第一回公演が海と死と夢の物語なら、第二回公演にあたる本作は「あたらしい家族」の物語だった。それもまた夢の話かもしれない。私だって、どこかの女性のパートナーになって子育てをしたい。異性と結婚をする未来絵図よりも胸が高鳴るし、私の妄想メーターは振り切れて、目の前のことを忘れてしまう。そうして余韻のまま二丁目のビアンバーに足を運んだが、ちょっとのロマンスだけ味わって収穫はなかった。物語は赤ん坊ぎらいの青年・ダニーが、下宿先の主・タイラの預かる乳児、アンナの扱いに戸惑うところからはじまる。

乾燥した欧州の日照りすら感じた第一回公演からずいぶん遠くに来た。お互いの意図や本心を知らないまま同じ時間を過ごしたふたりの男が、死に至る病と、ある女性への想い―――ひとりにとっては片想いの恋人で、ひとりにとっては妹だったが―――を共有しながら、夢のような死を迎える物語。それまでの人生がどんなに孤独でも、たとえお互いの真実や、自分自身の真実さえ知らなくても、最期の日々を彼らは共に生きた。閉鎖的な病院と、彼らの語る海への行道。想像に拠る戯曲の、さらに入れ子のような空想の数々に幻惑されたのをよく覚えている。

第二回公演は抒情的な前作と毛色の異なるハートフルコメディで、脚本・演出も前作の登米祐一氏がお休みしての高木凜氏だったが、詩的で幻惑的な雰囲気はそのままトンダカラの魅力として定着したのだと感じた。幕のない一枚の板の上、客入れから鮮やかに物語へ転換される瞬間は、繰り返して味わいたいほど演劇の面白みが詰まっている。時代はおそらく20世紀中頃の欧州。テナウ山にある木に囲まれた教会。ふたりの男と運命的なひとりの女。ダニーとタイラとモーラ。前作のキーを用いながらもあたらしく、幻想の海で死んだはずのダニーやタイラはたしかに遠くに来たのだと思った。ひとりの女性を巡るふたりの男が、今度は「死にはしないさ」と笑っている。

アンナの泣き声がピアノなのがいい。よその子どもの泣き声は相好を崩すほど大好物なのだが、不安を掻き立てる旋律は、子どもぎらいだったり、育児に疲れたひとにとって、赤ちゃんの泣き声はきっとこんな風に聞こえるのかもしれない。

原田優一演じるタイラはエキセントリックで可愛らしい。消えた恋人を探す鯨井康介演じるダニーの話から「妄想メーター」をフル稼働させた彼は、ウィッグを被り、彼の恋人の女優、ソフィア・テイラーを空想のままに演じる。愛らしくも滑稽な「ソフィア・テイラー」はダニーの恋人であるその人ではない。それでも演劇空間では彼のコミカルな芝居が回想として成立するのだった。そもそもダニーを介して思い出として語られる彼女はすでに彼女そのものではないが、さらにフェイクとしての「ソフィア・テイラー」が重なったとき、モーラ・クニットの本名を持つ幻の女性は、彼女を演じる俳優としての身体を持たないにも関わらず、架空と実在の狭間の地位を獲得した。ふたりの知るひとりの女性はすでにこの世になく、観客がモーラの姿を知ることはない。

妊娠したモーラは子どもぎらいのダニーの前から真実を告げることなく消える。それは笑えない男女の現実かもしれない。それでもモーラは血縁に拠らず子どもを慈しむことのできるタイラと出会えた。タイラがアンナを「同僚の子」と偽った背景にはシングルの経済難があった。これもシングル家庭の貧困率が50%に至る私たちの社会そのものかもしれない。それでもアンナは性愛に拠らない関係から成るふたりの父親を得た。

物語は現実のやりきれなさを軽やかに飛び越えて、夢のような瑞々しい世界をみせてくれる。ダニーは自分の子どもと知らずにアンナを愛する。彼らは子どもを介して「あたらしい家族」になった。いまの現実では夢のような話だけれども、あの光景は、いつかどこかで見れたらいい、胸のすくような未来だった。現実の悩みを置き去りにせず、それでも悩みを飛び越えていく、やわらかい救いのようなお話に、忘れていた妄想メーターがフル稼働する。

 

ふたり芝居といえば、いつかふたり芝居で観れたらいいな、と空想している映画がある。ポール・ダノダニエル・ラドクリフの『スイス・アーミー・マン』。本作とはあまり関係ないけど、ナラティブで攪乱するこれまでのトンダカラの雰囲気が好きなひとはきっと好きだろうと思うのでおすすめさせてください。

映画『ロマンティックじゃない?』(2019年)_感想

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ラブロマンス映画を醒めた目で見ている主人公・ナタリーがあたまを打ち付け目覚めると、そこはラブロマンス映画の世界だった。

子どもの頃に愛したラブロマンスの世界はあまりに非現実的でご都合主義、かつ偏見表現に満ちている(寝起きのヒロインはメイクばっちり、女の同僚は対立的に描かれ、ゲイはまるで主人公を助けるためだけの存在する魔法使いポジション、職場には人種的多様性が存在しない)ことをナタリーは痛烈に批判する。ところが、ひったくりと格闘した彼女が目を覚ますと、ニューヨークの街の様子にとどまらず、自宅も、同僚も、上司も、お隣さんも、ひそかな想い人さえ、まるでラブロマンス映画のように様変わりしてしまったのだった。街の人はナタリーを「美しいひと」と誉めそやし、仕事でも一目置かれ、現実ではプロフェッショナルである彼女をお茶くみ係として扱ったエリート男性は彼女に夢中、普段何してるかわからない謎の隣人はオネエ言葉のステレオタイプなゲイへと変貌を遂げる。しかし、ひそかな想い人だけは、美人モデルと電撃的な恋に落ちる。歯の浮くようなセリフや展開にナタリーは「うえ~!」とドン引きしながら、元の世界に戻る方法を探っていく。

パラレルワールドで自信を取り戻し、現実の世界に戻ったナタリーは、仕事での栄誉も想い人も勝ち取ることに成功する。「まるであなたラブロマンスの世界みたいね」と同僚は感激するが、物語は「結局批判してたラブロマンスと同じ展開になってしまった」評価にはあたらない。ラブロマの世界でナタリーが気づいたのは「自分を愛する喜び」だった。それは他者の承認がすべてになるラブロマンス世界との決別であり、自分を愛することで、結果的に仕事における評価に繋がり、想い人に本心を告げる行動力へと昇華された。さらに、ステレオタイプのゲイとしてパラレルワールドで活躍していた隣人は、ラブロマ世界と同じくゲイだったことが判明する。それでも彼は淡々と言うのだ。「ゲイはオネエ言葉をしゃべるって?ドラッグの売人はできない?それは偏見だよ」

ラブロマ世界と、現実と、たしかな類似点がありながら、そこには決定的な「ずれ」が存在する。ラブロマ世界のナタリーと、現実に戻ったナタリーにも、そこにはあきらかな「ずれ」がある。たとえ彼女がハッピーエンドを迎えても、それはナタリーがボロクソに貶したラブロマンスの再現ではないのだ。仲良しの同僚と、自分を愛する恋人と、ステレオタイプにあてはまらない隣人。むしろ現実のほうがすてきかもしれない。不完全な夢のような世界から、たくさんの自信と、いい気分だけ持ち帰って、偏見にはけっこうモヤりつつ、現実を生きるパワーにかえたナタリーの一挙一動は、まるで私たちの娯楽に接する営みそのものに見えた。

舞台『BLUE/ORANGE』(2019年)_感想

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『Take me out』(2018年)以来の青山DDDクロスシアターだったが、この『BLUE/ORANGE』に足を運んでやっと「はさみ舞台」の視覚効果としての意義を理解できたように思う。オフホワイトの空間の中心には鮮烈なオレンジ。照明を落とす演出には青い光。ウォーターサーバーのてっぺんの青いボトル。果実の飾られたボウルさえ硝子は青みがかっている。色彩を極限まで絞り込んだ書き割りのないステージの明かりを一切消すと、奥行きのある空間がオレンジを中心にギュッと絞られて、視界が暗転する平面的な圧迫感とも違う立体的な体感があった。くぼみに白い長方形を敷いたような「板」の上でやりとりされる光景はまるで眼前の幻のようだった。作品のキーである青と橙の補色は、私にとってファン・ゴッホの「夜のカフェテラス」を想起させる。自らの耳を切り落として後世には統合失調症を疑われている画家の存在が本作の主題とオーバーラップする。

研修医ブルース(成河)は境界性パーソナリティ障害の診断を受けた担当患者・クリス(章平)の病態を統合失調症のそれであると疑い、退院を明日に控える中、自らのスーパーバイザーである医師・ロバート(千葉哲也)に彼の病状にまつわる助言を求めた。私自身、所持資格は社会福祉士*1のため、中盤まではかなり深刻にそれぞれの意見の妥当性を思案していたし、無言で会議に参加しているような感覚さえあった。

率直に言って、自傷・他害行為がないにも関わらず本人が同意しない措置入院を長引かせようとするブルースが「異端である」のはロバートの言うとおりに思える。「若い正義感」で済ませるには大切な手順を失念している。同時に、年配医師の、クリスの退院後の適切な診断やケアにさも無関心であるかのような物言いもおかしい。患者であるクリスも含め、『BLUE/ORANGE』の登場人物は、一方で正論を吐きながら、一方では決定的な何かを欠いている。

日本の精神科入院の歴史構造: 社会防衛・治療・社会福祉

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退院間際になってクリスを統合失調症ではないかと疑い、再診断を提案・退院後の生活に懸念を抱いている研修医ブルース。入院の延長は本人のQOL・制度・ベッドコントロールの観点から同意しない医師ロバート。病識・適切な現状認識に欠け、そのことに一切不安を覚えていないようにみえる患者クリス。はじめはクリス一人が「狂気」を抱えているようにみえるが、ブルースやロバートもまた、積み重なった人生の鬱屈や、性質と環境の取り合わせ、急性的なストレスによって、やがて「正気」とは思えない言動や行動に走るようになる。さらに中盤を超えると、三者三様に「狂気」と「正気」の混在した乱痴気騒ぎを繰り広げ、「冷静」な人物は消え失せて、各々のエゴにすべてが帰結する。『BLUE/ORANGE』は現に信じられている人と人との「境界」を疑う戯曲である。

正直なところ、本作を紹介する記事で「狂気」や「正気」などという言葉があまりに軽々しく扱われているようにみえて、現実の精神疾患を扱う作品としてのスタンスに若干の不安を覚えていた。序盤にブルースがクリスの「きちがい」発言を咎め、「精神分裂病」が「統合失調症」へと名称変更になった経緯―――翻訳元は2000年以前の執筆なので、ブルースが当時二十代後半であるなら学生時代にDSM-Ⅳの改訂を最新のものとして学んだ世代だ―――を説明しているが、彼の語る理由とほぼ同じ動機といってよい。なぜなら、我々には、原因や表出の異なる精神疾患発達障害をすべて一緒くたにして、ケアを怠り、非人道的な私宅監置・長期収容・ヘイトクライム・手術や「治療」を行ってきた歴史がある。それを支えたのが「きちがい」や「狂気」という乱暴な言葉および人々の無理解だった。

だからこそ、エクスキュース*2の伺えない表出は実害を生ずる。以前とあるライトノベル作家が「言葉狩り」の文脈で「きちがいが使えなくなるのはおかしい、言葉が貧しくなる」と述べているのを見かけたが、現実から生まれた言葉にはそれなりの歴史の重みがあって、ファンタジーではなく、決して娯楽作品の道具ではないことを理解しないようでは、あまりにクリエイターとしての誠実さや教養に欠けるのではないか? 一方で、『BLUE/ORANGE』の「狂気と正気」にはどんな印象を受けたか。

【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況

【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況

 

身も蓋もないことを言えば「狂気と正気」とはあくまでわかりやすく文学的な用法であって、よくある乱暴で軽薄な動機に基づくものではなかったものの、作品の主題を厳密に表現するなら「病理化されるものと病理化されないもの」だろうか。「他者を判断するに際しての妥当性と恣意性の境界」と言い換えてもいい。医学は様々な事物を病理と位置づけてきたものの、その権威の下に暴力的な扱いが横行した事例をあげれば枚挙に暇がない。乱痴気騒ぎを繰り広げた研修医と医者を「診断」しようと思えばいくらでもできるのに、クリス一人が治療すべき対象と位置づけられる。スーパーバイザーであるロバートに嫌われたブルースは研修医としての正当性を剥ぎ取られ、そのパーソナリティは精神分析に値するものと見做される。個人にせよ、社会にせよ、さまざまな権威が「治療の対象」を決定し、彼らの在り様を病理化する。

もちろんそれをもって「精神疾患は恣意的な基準だ」とは言わない。本作の主題も精神医学そのものを疑う話ではないだろう。一方で、歴史的に医学が「病気」と見做したさまざまな在り方は、当事者たちによる運動や研究の進展を経て「脱病理化」の対象となってきた。こうした医学の過ちを踏まえると、ロバートの「脱西欧中心主義」はまっとうなポスト・コロニアルの視点にさえ思えてくる。

それでも、ロバートの思想はどこかおかしい。「脱西欧主義」の用語は社会的な観点からすると至極まっとうな言葉なのだが*3、彼の論調は根本からズレているように思う。多様性に基づく思考とは、たとえばロバートのような健常者かつ異性愛者の白人男性中心ではなく、その他の人々にとっても心地よい世界を示唆するものであるはずなのに、彼はアフリカをルーツに持つ人々の属性を他でもない「白人男性であるロバート自身が」分析・決定しようとしている。そこに当事者たちの入り込む余地はない。

一方的に彼らを研究対象とし、スティグマを与える行為は、帝国主義的かつ植民地主義的な態度に過ぎないのに、何故かこれを「黒人である彼らへの理解」と勘違いしている。それを治療に持ち込むなど、医学の名のもとに女性を曲解してさまざまな自由を制限した19世紀*4の二の舞だ。措置入院からの退院についても、倫理的なガイドラインの点からまっとうな意見を述べているようにみえて、退院後のクリスの利益については歯牙にもかけていないところがゾッとしない。

彼の話を聞いていると、どうやら彼は現場仕事に倦み、コンプレックスを抱え、華やかな(と彼が思っている)教授職に舵を切りたいようだった。それ故にロバートは研究テーマをでっちあげたい。目の前のものをすべて自分の理解できる、思考しやすい物事として捻じ曲げて、医師としての適切なアセスメントを忘れている。これはいわゆる「無意識」の行いかもしれない。少なくとも彼は多くを学んで医者になったはずなのだから。

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

ポストコロニアル (思考のフロンティア)

 

すでに述べたように、研修医ブルースが措置入院の延長を求めているのは教科書的な倫理観からすれば異例の事態だと思う。少なくとも2019年の現在、患者の長期収容が問題化されている日本においてさえ、本人の意思に基づかない措置入院には厳格なガイドラインがある。ベッドコントロールや地域移行後のケアへの無関心を除けば、ここに対してはロバートが「正論」を述べている。ブルースの「問題を起こさないうちに隔離をして治療すれば本人の利益になる」と言わんばかりの考え方は「傲慢で支配的」のそしりを免れない。そもそも―――退院間際になって診断の変更の必要性に気づいた時点で、一旦退院させる意外に道はないと思う。クリスが反発するのも当たり前だ。にも拘わらず、ブルースはまるで彼を、聞き分けのない子どものように扱っていなかったか?

原則として、生命・安全を脅かす切羽詰まった状況でない限り、本人の合意は何よりも優先される。そもそも、統合失調症の疑いがあるからといって、当人の望まない隔離を続ける必要性はない。どんな疾患を抱えていても、本人が望む限り、望む場所で生きる権利はあるし、それをサポートするためにイギリスでは地域福祉が発展したのだから、「クリスにいちばん必要なのは医療ではない」と判断して他職種に依頼をかけてもよかったのだ。それをしない独りよがりは「若い研修医」だからでは済まないだろう。もし、生活を維持するのが難しい状況に陥った場合―――たとえば、クリスが入院するきっかけになったのはマーケットでの性的逸脱行為だったが、そうした反社会的な行動によって繰り返し逮捕されるなどの不適応が生じた場合―――再び入院による治療が必要になる可能性もあるだろうが、ただ「統合失調症である」というだけで行動を抑制することに意味はない。通院治療や服薬をなんとか続けてもらえるよう、コミュニティソーシャルワーカーなどが地道に関わりをもっていくしか手立てはないのだ。

ブルースは終盤になって統合失調症に対する極端な「予後予測」を開陳してクリスを恫喝するが、もしかしたら、はじめから、退院後の生活への心配ではなく、疾患に対する社会防衛主義的な差別だったのかもしれないと疑ってしまう。けれどもそれはあまりにも悲しい。彼は自分自身が追い詰められていたがゆえに、クライエントに対して被害者ぶってしまっただけなのかもしれない。「こんなに頑張ってるのに、患者は、クリスは、ブルースの気持ちのいいように動いてはくれないどころか、自分に不利益を与えるのだ」と。医師と患者の権力勾配も忘れて。子どものように。

患者はコントロールの対象ではないし、肌の色の異なる他者は「自分とは違う」研究対象ではない。*5ブルースは専門職倫理をよくわかっていたはずなのに、わかっていなかった。同じくロバートもさも倫理的なことを語りながら、倫理面において圧倒的に欠けていた。この二面性は不思議なようにみえて、クライエントと密に関わる職種では珍しくない光景に思える。感情労働を伴いながら他者の利益にエネルギーを割く私たちは、ときにひどく被害者ぶる。一部の支援者に至ってはクライエントに「振り回されている」と感じることがある。いずれも対象が意思をもった人間であることを忘れて接しているから、相手の本音や指摘にドキリとする。

相手の言葉尻を拡大解釈する傾向にあったクリスだけれども、はたして本当にクリスの数々の認識は「誤解」だったのだろうか? クリスは初めからブルースを信頼していなかった。たった一か月間の担当医にも拘わらず、馴れ馴れしくされて、きわどいジョークを言われて、子ども相手のように誤魔化されて、気分がいいはずないだろうと思う。自分自身の行動・言動がすべて精神医学のフレームに嵌められようとするのを、ほかでもないクリスがいちばん鋭敏に感じ取っていたのではないか。

まるで追い立てられるように青い世界へ「解放」されたクリスの行方を、あんなにも熱心だったブルースが見届けることはない。病識のない彼の、不安げなまなざしに答えるものを、結局彼らが提供することはなく、ただ自分たちの「問題」について語り合う。青い世界はクリスの見えるままの世界だろう。それは医師たちが見ることのない世界であり、彼の病院外での生活であり、おそろしい「隣人」の群れであり、自由でもある。

ポスター ゴッホ/夜のカフェテラス TX-1848

ポスター ゴッホ/夜のカフェテラス TX-1848

 

*1:ただし、日本の場合、世界的には同じ職種であるはずのソーシャルワーカーはふたつの職能として分割されている。広範な相談援助を行う社会福祉士と、コメディカルである精神保健福祉士と、それぞれが取得要件の異なる国家資格だ。そのため私が精神保健福祉の世界に明るいわけではない。

*2:「差別は差別として描く」のが表現上のエクスキュースだろう。よくある勘違いが、表現から「悪」を消し去るのが批判者の目的である、という理解で、批判の対象になっているのが「自身の内面化している価値観に対して無批判なクリエイターが、それを創作物として適切な加工を施さずに開陳してしまっている怠慢」であることをわかっていない。

*3:2014年に採択された『ソーシャルワーク専門職のグローバル定義』には「ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。」とある。

*4:医学が女性にどのような不適切なアプローチを施してきたかは花伝社のコミック『禁断の果実』がユーモラスに描いている。

*5:「多様性の尊重」とは相手を自分と同じ尊厳ある人間であると認めることであって、「非寛容」とは自分と相手をまるで違う生き物かのように扱い共感性を持たないことである。「みんなちがってどうでもいい」キャッチーなフレーズが多様性を表現しているように語られることもままあるが、あらゆる差別は相手を「どうでもいい」と切り捨てて、極端な無関心と無感動でもって接した結果、彼らが自分にとって不都合な行動をしたときに怒りを生ずるものだと考えられる。

舞台『舞台版「魔法少女(?)マジカルジャシリカ」☆第壱磁マジカル大戦☆』(2019年)_感想

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周囲が初演で続々とドハマリしているのに影響されてシリーズ第二弾にあたる本作にはじめて足を運んだのですが、前作を観ればピタリとハマるだろうピースの数々を感じつつも初見でもじゅうぶん楽しめる内容でかなり満足度の高い作品でした。ただ単に初見の不利益が少ないだけではなく、キービジュアル以外なんの予備知識もなく触れたことでラストの驚きもいっそう大きかったのは初参戦の特権であると感じて嬉しかった。強いて言えば中途半端にビジュアルの知識があったことでマジカルリエコとマジカルジャシリカの区別がつかず、時系列に混乱を来したりはあったのですが、四月の再演を観れば解決することなんだから問題なんてなかったね。ぜったい行きます。

主人公であるちえみの演劇の愉悦を引き出すような長台詞や独白の妙だったり。お祭りのような群像劇の豪勢だったり。魔法の概念にコストを見出すことでファンタジーをよりシビアにした『鋼の錬金術師』およびそれを様式美として決定的なものにした『魔法少女まどか☆マギカ』以降のサブカルチャーにおける共同幻想をフル活用した(端緒になったものはこれ以前にもあるかもしれないけど浅学なので割愛)いわゆるオタクならみんな好きでしょ?的宝箱な本作の魅力だったり。これらについてはほかの人がいっぱい語ってると思うのでここでは触れません。あとキャラ萌え語りも。だってキリねえじゃん、みんな可愛いんだからさ。

『第壱磁マジカル大戦』ではシリーズ第一作に引き続き「魔法少女」の半数は生得的男性によって構成されています。その理由について本作では明確な答えを提供されてはいないけれども、「We are not boys !!」と歌い、過剰なほどのジェンダー記号に依拠した女言葉を話す異性装(トランス・ヴェスタイト)の彼らはトランスジェンダリズムの化身のようでありながら、女性であるパートナーの疑似的伴侶として男性の輪郭さえ際立ちます。伝説の魔法少女であるマジカルシリンダーから魔法少女になるための「糸」を渡されるのは必ず男性です。彼らが信頼し、ときに愛する女性に「糸」を渡すことで、彼女たちはパートナーと共に「魔法少女」へと転身します。それは疑似的なエンゲージ・リングの贈与のようでありながら、元男性の魔法少女のほとんどは彼女たちの補助的な立場であることを自認しており、ときに健気に尽くします。異性装だけ取り上げれば声を大にして「クィア作品」を定義することもできるでしょうが、ある面ではクィアであり、ある面では異性愛主義的であり、ある面では実態的なジェンダーの攪乱が為され、一方で極端に男女二元論的でもある。『第壱磁マジカル大戦』はけっしてリベラルな価値観を土台にしていないにも関わらず物語の重大な骨子としてクィアを導入する、日本のオタクカルチャーにおける愛されポイントを熟知した構造であったように思えます。

社会学者である三橋順子ジェンダーにおける男性性・女性性双方を兼ね備える対象に感じる魅力を「双性原理」と呼び、日本神話から稚児・白拍子・歌舞伎役者、戦後のニューハーフへの人々のまなざしを通して「性別越境好きの日本人」を論じました。

(前略)むしろ、異性装の要素を持つことが日本の芸能の「常態」なのではないかと思えてきます。性別越境の要素をもつ芸能・演劇を好み、逆に性別越境や異性装の要素が皆無な芸能・演劇に物足りなさを感じる私たち日本人の感性の原点は、異性装を「常態」とする中世芸能にあるのではないでしょうか。

女装と日本人 (講談社現代新書)

女装と日本人 (講談社現代新書)

歌舞伎や陰間茶屋など、近世まで性別越境ビジネスの顧客は男女双方だったのが一転して、現代における女装者に好意を向ける大半が女性だという本書の論は実感として頷けます。女のほとんどは男の女装が大好きです。その証拠として私がホイホイジャシステに釣られたんだから間違いありません。だからこそ、男性客が多くを占める演目で、こうした異性装の作品が(魔法少女である彼らが過剰にキワモノ扱いされることなく)上演されたことは、ホモソーシャルに毒される以前の近世的な価値観が蘇ったようで嬉しい気持ちにさせられます。

冒頭で打ち明けたように本作が初見の私にとってちえみが10代目黒幕の女として覚醒することは予想外の展開でした。なんなら「ちえみは私だ」と感じる台詞、推しを持つオタクなら(自分と重ねるかどうかはともかく)「言ってることはわかる」と頷く場面も多かったのではないかしら。一方で、彼女の一見すると個人崇拝のように見える愛が強烈な娯楽性を伴う性質のもの―――消費者として対象に関わるがゆえに双方向的なコミュニケーションを得ることのない、そのぶん感情をエスカレートさせやすい―――であることを理解できなかった唯一の人物が、彼女の崇拝対象である山寺裕大でした。

いちファンであるちえみを若手俳優である裕大は「認知」しています。その上で彼はちえみに個人的な感情を抱くに至り、優しさに満ちた愛で彼女を守ろうとするのですが、自分を熱心に応援するちえみにかけがえのない気持ちをおぼえる裕大と、彼を偶像崇拝の対象として娯楽的な好意を向けるちえみには序盤から言い様のない乖離がありました。裕大はちえみを有象無象のファンではなく一人の人間として認識し、大切に感じていたのですが、ちえみにとっての裕大はコミュニケーションにより関係性を培うべき相手ではなくあくまで幻想の偶像でした。ショービジネスに生きる存在を応援するオタクの姿勢としては大正解なのですが、この「推しを愛する」ミニマムでエモーショナルな娯楽が人生のすべてになっていた彼女の前に、「世界の存亡」や「ひとりの人間である推し」が現れたとき、幸せな「底なしの沼」は負の感情へと一変します。

登場人物の、おそらく全員が持っていた世界や社会へのまなざしに、ちえみはたったひとり無縁の存在でした。さまざまな魔法少女が、その正義や妥当性はさておき、他者や社会の存在を意識した動機で戦っていたにも拘わらず、ちえみにはそれがありません。「男女差別なんて感じたことがないから男女差別と騒ぐ女のせいで推しが悲しむならキックボードでうんぬんかんぬん」と語る彼女の姿はとても象徴的です。社会への関心は乏しいくせに威勢のいいことを言いたがる「あっよくいるわ」と思わせるふつうの女の子。「うーん、どこから説明したらいいのかな……」って大人にあたまを抱えられてしまうタイプの、大人になれない女の子。

とはいえ、それは社会にコミットメントする、あるいは批判を伴う手続きをどこか過度に「政治的で、意識が高い」と感じがちな日本人にとって常態でしかない態度なのですが、そんな「普通の女の子」だったちえみが闇に導かれてしまった要因は、ミニマムな幸福の中で葛藤を知らずに過ごしていたからこそ、突如訪れた「嵐」に耐えられなかったのではないかと思えてなりません。世界の存亡なんて自分の快不快を基準に生きてきた女の子にはあまりに荷が勝つし、祐大の、苦痛というかたちで露出した人間性に動揺したちえみは殺害というかたちで彼を再び受け身の偶像に仕立てます。ちえみは「普通の女の子」として生きて、「普通の女の子」のまま、さもあたり前かのように闇に誘われたように見えました。

ちなみにサラリーマン・タケダテツオの古めかしいジェンダーステレオタイプを自明とするナレーションから、ちえみの「男女差別なんて知らねえ(大意)」発言まで、言うまでもなく性的偏見や認識の誤謬にあふれていますが、これをまるで世界の真理かのように信じているひとも多いのは事実です。なので、「We are not boys!!」に繋がる伏線とはいえ、なんのエクスキュースもなかったので「なんかいきなりアンチフェミの講演みたいになったな?」とせっかく浸っていた気持ちがスッと現実に引き戻されてしまって、再び物語に没頭するまでいささか時間を要したのは私の側の問題かもしれません。それでも、彼らである魔法少女とそのパートナーの関係性は、古めかしいジェンダーロールに収まらない多様性に富んだものであるのですから、いきなり「男は家事をしない生き物で」みたいな話をされても何が何やら。タケダテツオの家庭内事情だったら納得する。

彼ら魔法少女は、異性装をしながら男性性の輪郭も鮮明であるとすでに述べました。しかし同時に彼らは完全に「女性」です。「Boy Meets Girl?? No!! Girl and Girl!!」の歌詞をあらためて読んだとき、「百合は感じなかったなあ。あれは男女カプだ」というのが正直な感想であり、彼らのパートナーとの絆は異性愛的なロマンにあふれていたと思うのですが、別の階層として「Girl and Girl」でなくてはならない意味はきちんと存在した。彼らが女性として魔法少女になることで、まさしくタケダテツオの語るような古めかしいジェンダーロールを攪乱していたんです。

初登場してからしばらく、彼ら魔法少女に個別性のある人格はうかがえません。男性の身体的特徴を隠さない彼らは、不自然なほどの女言葉を繰り出し、女性ジェンダー・イメージを過剰に演出することで、「心が女になった」(より厳密には、ジェンダーアイデンティティを女性に変化させた)ことを観客に知らしめます。それは「女言葉という記号を使わなければ人物を女と表現できない一昔前の小説」のように彼ら魔法少女の人格を画一的に隠ぺいしていました。(※序盤からヘテロ男性的欲求がポロリしていたカンカンカーン除く)

一回だけの観劇だったのでそういう台詞があったのかは覚えていないのですが、彼ら魔法少女は身体的な意味で「性転換」したわけではありません。ジェンダーアイデンティティが女性だからこそ、彼らは紛れもない「彼女たち」なのです。たとえば現実のトランスジェンダーも世間的に「心が女/男」と表現されることがあります。性別違和を抱くタイプのトランスジェンダーは、ジェンダーアイデンティティと出生時に割り当てられた性別の不一致から生じるものというのが教科書的な理解です。(トランスに対する無理解には近代の産物である男女二元論への盲信が関わっているのですが割愛します。)少なくとも、メタ的には男性の身体性を有しながら女性の性自認を持つ魔法少女たちは、トランス女性が女性であるのと同様に、まぎれもない女性なのです。

「女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない」という主張に、フェミニストやトランスはどう抵抗してきたか - wezzy|ウェジー

そして、そんなnot boys!!な魔法少女たちも中盤に差し掛かるにつれて、いち個人としての人格が見えてきます。このとき魔法少女たちは女性ジェンダー記号を脱ぎ捨て、男性としての側面を垣間見せます。その中にはアクセスのように「暴力」という男性ジェンダーに結び付けられがちな要素を開陳してしまった人物もいます。カンカンカーンのように異性への性的関心であたまがいっぱいな人もいます。もちろん男性たちの人格や想いはさまざまで、どれもかけがえのない個別性をもっていますが、「自分は男である」という意識を捨てなければパートナーへの健気な気持ちを表現できなかった男の子も中にはいたかもしれません。「男はこういうもの、女はこういうもの」という自縄自縛のジェンダーに縛られた人々―――それはきっと、登場人物ではなく観客である私たちも同様に―――にとって、同性同士でなければ紡げない関係も現実にはあるでしょうし、受け手にとってさえ直截的に男女の絆を描くことでべったりとしたいやらしさを感じてしまう可能性もあったかもしれません。残念ながら、世の中は、作り手も受け手も性的偏見表現の記号性に頼って芸術を創造/受容していますから。

長くなりましたが、どこまで意図的かはわかりかねるもののジェンダーの攪乱を効果的に使った作品でとても面白く観ることができました。ひとつ付け加えれば、カンカンカーンの「トランスを経験したことで次は同性にも恋できるかも(大意)」はバイセクシャル的にはちょっと不思議な発言だったのですが、自分を異性愛者と信じてる彼にとって魔法少女になったことはあらたな可能性の発見でもあったのかも? なーんて、せっかく明るいラストの予感にさわやかな気持ちになってたのに、おい、ちえみ、おまえ、おい、しんどい、愛しい。

舞台『となりのホールスター』(2019年)_感想

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トリプルコラボ公演 第6弾 舞台《となりのホールスター》 | 合同会社シザーブリッツ・公式BLOG

演劇集団イヌッコロさんとのコラボ企画を初めて見たのは9月公演の『スペーストラベロイド』でした。ごまかしや勘違いによってもたらされる誤解の連鎖。「嘘」を守るために右往左往する主人公。追い詰められて凶行に及ぶメインキャラクター(未遂)。いくつか重なる部分もありながら、『となりのホールスター』はワンシチュエーションコメディを打ち出した前者より、じっくりと羽仁修さんのテクニカルなコメディを堪能できたように思えます。言葉は悪いのですが、スペトラでは「笑い」に対して欲をかいたように見えて、せっかくの優れた勘違いコメディを味わうには雑味が多かった印象でした。一方で本作は比較的抑えが効いていたのでとても見易かったです。パンフレットのスタッフ座談会で、羽仁さんはとなスタを「笑いのシステムが細かすぎちゃうから、分かりづらいんですよね」と語っていましたが、だからこそ観客への信頼を感じて心地よく感じる部分も大きかったかもしれません。もちろん、それも演出家さんや俳優さんたちのテンポよく仕上げる努力あってのものだと思います。

初日Aキャストを見た直後(公式ではキャスト違いを☆/★で表現していましたが、わかりづらいので便宜的にA/Bとして後述します)「何も考えずに楽しめる、なんていい作品なんだろう!」とか「古谷大和がやばい」とか「某舞台で古谷大和のブロマイドが完売したあの伝説の意味を理解した」とか「古谷大和………」とか、だいたいそんな感じの脳天気な感想で頭がいっぱいだったのですが、翌日Bキャストを観劇してそのあまりの違いに打ちのめされる想いがしました。演劇の面白さを丸裸にして突きつけられたような、そんな衝撃。

   ※

好きな漫画の2.5次元舞台から観劇の習慣ができた自分にとって、演劇の文化であるWキャストはいまいち腑に落ちない存在でした。過去には「Wキャストってなんのためにあるの?俳優さんが休憩するため?」なんて、今から思えば変な質問を友達に投げかけていたのをよく覚えています。(もちろんそういった理由での起用もあるでしょうが) 舞台の味わいのためだったり、俳優の休憩のためだったり、集客に繋げるためだったり、新人のチャンスの場だったり、起用俳優の仕事の事情だったり、さまざまな理由からWキャストによる公演が行われますが、観客いち個人としては正直なところ面白さと戸惑いが同居するシステムです。

何故なら「比べてしまう」から。メインキャラクターであれサブキャラクターであれ、よっぽどでない限りWキャスト双方それぞれの面白さや魅力があるに決まっています。それでも半強制的に比べることを強いられるんです。受け手としての感性があり、好みがある以上、「○○はAのほうがよかったな」とか「○○はBのほうがよかった」とか。ふたつを観劇すれば比較しないでいるほうが難しい。シンプルに「一粒で二度おいしい」と思えるほど気持ちが前向きであればよかったんだけど、どちらにも魅力を感じてなお、そんな心持ちにさせられるのは胸が苦しい。同じ「比べる」行為を伴うものでも、縦軸のキャスト変更と横軸のWキャストでは心構えがぜんぜん違う。自分にとってWキャストシステムは感情の持って行きどころがわからない存在です。

それでも『となりのホールスター』は個人的にとてもおめでたいWキャストでした。特に大見拓土さんに対しては、2.5次元舞台のDVDや事務所イベントの即興劇(劇…?)のお芝居は見たことあるけれど、生の舞台を拝見するのは初めての体験になるので、本当にもうワクワク。きっとふたりの猿渡はお互いを食い合う勢いでやってくれるはず、とか。でもそうしたら私はあの可愛いふたりを比べちゃうのかな、とか。キャストへの期待と、自分自身への不安を行ったり来たりしながら。

話題を戻します。A公演とB公演、あまりの違いに打ちのめされました。
ふ、古谷大和~~~~~~!!!!!(敬称略)

事前に仄めかされていた情報で彼がほうぼうから「セルフWキャスト」と呼ばれていたのに初日まで首を傾げていました。初観劇後購入したパンフレットを読んで、「ああ、八島猿渡と大見猿渡でキャラが違うから、古谷さんもキャラを変える試みをしているのね? なるほど」といちおうは理解したものの、今から思えば軽く考えていたことは否めません。B公演初日、古谷さん演じる馬場の登場シーン。

えっ 昨日と別人がでてきたんだけど。酔っぱら……え~~~~~~~?????

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もちろん八島猿渡と大見猿渡も別人です。お兄さんたちにどつかれて、かまってもらうのが似合うようなお調子者の八島猿渡と、最年少なんだけれど参謀的な趣のある、どこか潔癖ふうの大見猿渡。同じセリフなのにまったく別々のパーソナリティが見えてくるのが本当に不思議で面白い。パンフレットの「Q.ご自身の役と似ているところ」、ふたりとも人物像に対する着眼点が180度違う。たとえWキャストでも演じ方や技量の違いだけの、目立った差異のない登場人物も世の中には数いる中で、ここまで性格の異なる仕上がりもなかなか珍しいんじゃないかしら。

そんな猿渡が毛嫌いしているのが、古谷さん演じる馬場。八島猿渡のいるA公演では「ニーチェを読むお高く止まった嫌味な男」、大見猿渡のいるB公演では「いつでも酔っ払ってるへらへらしたいい加減な男」として立ち現れました。ふたりの猿渡と同じように、同じセリフを言いながら真逆のパーソナリティを演じる、ただそれだけでもおもしろいのですが、この馬場は、まるでそれぞれの猿渡のためだけに存在しているかのように思えました。だって、違和感なく「八島猿渡が嫌いな馬場」と「大見猿渡が嫌いな馬場」として成立しているんです。

八島猿渡がヘラヘラ酔っ払っている馬場をあんなに毛嫌いするかしら? どちらかというとわりと面倒を見てしまう気がする。大見猿渡がニーチェを読む馬場を毛嫌いするかしら? むしろお互い感じ入るところがある気がする。

たとえ馬場Aと馬場Bが入れ替わっていても物語として違和感なく受け止めてしまえるとは思うけれど、自分にとってこれは説得力のある組み合わせのように見えました。キャラクターのバランスを整えるために「明るい八島猿渡にクールな馬場」と「冷静な大見猿渡にヘラヘラうるさい馬場」にしたのだ、と言われてしまえばそれまでなんですが、猿渡が馬場を嫌いな理由のほとんどを占めると思われる一種の生理的嫌悪感の根拠として、馬場のキャラクターの違いが存在すると捉えたほうがよっぽど楽しい。「自分主義だ!」と責め立てながら、結局猿渡が馬場を嫌いな理由って、倫理観とか正義感じゃなくて、「なんかこいつヤダ」っていう子どもっぽい(誰にでもある)わがままだと思うから。大好きな行きつけのカフェレストランなのに、チラチラ見かけるオーナーの息子はどうも生理的に気に食わなくて、小さなときからずっとずっと「なんかこいつヤダ」って思い続けて、でも大好きな犬飼さんたちが構うから我慢して、なんかやだな~なんかやだな~って思い続けて、とうとう爆発しちゃったんだね、猿渡くん。でも馬場さんはずっと察してたと思うよ。以上、妄想でした。

この組み合わせが功を奏して、演劇の文化である「Wキャスト」がメタ的な認識を超えた「パワレルワールド」として成立したんだと思います。彼らにとって重要な人物を演じるキャストがキャラクターを激変させたからこそ生まれた効果じゃないかしら。例えば馬場もセルフじゃないWキャストで、ふたりの猿渡並に性格を変えてきたら、それでもパラレルとして成立したと思うけれど、やっぱり演者ひとりによる試みには及ばない。なんていうか、エモさが段違い。古谷大和がエモい。

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ふたりの猿渡の印象。

八島猿渡はたとえるなら年長者をアニキアニキと慕うマイルドヤンキーの舎弟のようなお調子者。犬飼さんたちへの大好きを隠せなくて、人懐っこくて、杏奈さんを犬飼のカノジョに仕立てたのはおバカゆえの善意だし、ドラゴンを焚き付けたのは票を獲得するためのもあるけれど、気持ちとしてはきっと甘えるみたいなイタズラ心。今回の票獲得戦もお遊び感覚であまり真剣には考えてなさそう、というか「みんなレストラン続ける方向選んでくれるよね~」くらい楽観視してそう。そしてお高く止まってる馬場が嫌い。だって犬飼たちとワイワイしてるところに水をさしてくるから。「邪魔すんなお前なんか嫌いだ」っていつも思ってる(言わないけど)

大見猿渡はアホな年長者たちが愛しい参謀的な弟分。真面目で潔癖だけど、その真面目さを例えるなら「万引きするなら完璧に」。杏奈さんを犬飼のカノジョに仕立てたのは歪んだ善意。ドラゴンを焚き付けたのは票を獲得するための頭脳戦。票獲得戦に対してはマジ。そしてヘラヘラしてるだけの甘えた馬場が嫌い。犬飼たちとの和を乱すとか許せない。「中途半端なことするならはじめからいなけりゃいいのに」っていつも思ってる(言わないけど)

猿渡が子ども時代を語るシーン。八島猿渡はエモーショナルに訴えかけるお芝居であれを泣きどころに仕上げた一方で、大見猿渡はぎゅっと濃縮された緊張感で馬場への糾弾に繋げていた。あそこ、ふたりのお芝居の方向性がはっきり分かれて面白いと思いました。私は馬場Aを嫌いになる気持ちのわからない人間なので、共感性を引き出すような八島猿渡のお芝居を見たときは「なにもそこまで言わなくても~どうしたんだいいきなり~~(つられ泣きしながら)」って感じだったんですよね。ところが八つ当たりのような大見猿渡の馬場への糾弾を見て「あっ猿渡はとにかく馬場が気に食わないんだ」とやっと腑に落ちたんです。今まで正論を言ってるように見えた大見猿渡が、いきなり難癖のように馬場を責めはじめたので余計にわかりやすかったのかもしれません。「いつだって自分主義だ」と馬場を責めながら、大見猿渡には無意識に屁理屈を捏ねている感じがあって。対して八島猿渡はそもそも仲間に対する情愛がヤンキーめいてるからあれはきっと心の底からそうと信じている言葉だった。同じセリフ、同じ脚本でも、演者と受け手の交感性によって、受け取ることのできる情報には振れ幅があるのだと感じた瞬間でした。だから、猿渡→馬場の感情のわかりやすさも、私とは真逆の感想をもつ観客だって当然いたと思います。

前置きでいろいろ書きましたが、結局、私はふたりを比べています。でも、不思議と今までのようなモヤモヤはありません。やっと観客としてWキャストのシステムの醍醐味を理解できたと思うからです。それを贔屓にしてるふたりのWキャストをきっかけに気づけたのはうれしいなと。ほんのちょっとの罪悪感より、その喜びのほうが勝っています。

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「Wキャストでありながらそれを超えた別人」「Wキャストを支えるように世界観をガラリと変えたセルフWキャスト」 この二点の試みからわかったのは、「脚本だけじゃ芝居は成立しない」当たり前の事実でした。

演劇鑑賞初心者である私にとっていちばん感想を言語化しやすい対象が脚本です。複合的な空間芸術である舞台のなかで、演技や演出や美術は言語化するのに訓練の必要なものだと感じています。それとも、そう思うのは自分が文芸に馴染みが深いからかしら? そのため、今までのブログもシナリオに言及するものがほとんどでした。

でも、今から思うと、あれらは本当に「脚本」からもたらされた感想だったんだろうか? できることなら、もう少し感性を研ぎ澄ませたい。そう思いました。

 

 

 

 

大河さんにコテンパンにされる馬場さん、AとBで反撃できる回数すら違うのめちゃんこカワイイ。すごい。エモい。お読みいただきありがとうございました。

舞台『SORAは青い The Sky's The Limit』(2019年)_感想

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ここのところ小劇場の観劇が続いていたので久しぶりの中規模の舞台はとても贅沢に思えた。惜しみなく照らされるライトに加えてBGM・SEの多用も豪勢な感じがしたし、衣装もキャストの骨格に似合うものが選ばれていて衣装スタッフの腕のよさが伝わる。「お金がかかっている」と言うとひどく俗な表現になるが、趣向を凝らして観客を楽しませる努力がよくされていたように思う。

メジャーデビューを目指している同じ児童養護施設出身の三人組バンドが意図せず過去へと飛ばされ、実在した悲劇の少女・駒姫の運命を変える―――という筋書きだが、史実のチョイスがよかった。「最上家は有名だよ!」とは歴史好きの談だが、戦国時代はおおまかな流れしか知らない自分にとって彼女のエピソードは初耳だった。この時代、妻や子どもは、あくまで家を継いだ男の所有物でしかなかったのだろう。太閤秀吉の悪逆を象徴するものとしては朝鮮出兵における耳塚が教科書に載るほど有名だが、駒姫たちの処刑も惨烈をきわめる。

平松可奈子さん演じる駒姫は世界観が提供し得る最高のかわいらしいお姫さまだったと思う。活舌よく、鈴を転がしたような高い声は、まるでアニメを見ているようで歴史ファンタジーの世界観によく馴染んだ。未来からきた主人公の音楽を物珍しいと賞賛したり、異性の前で着替えをしてしまえる無邪気さは、いわゆる典型的Manic Pixie Dream GirlやBorn Sexy Yesterdayに相当するキャラクター像である。これらは主に映画に描かれる女性像に対する批判的な文脈で用いられることの多い言葉だが、少し前の少年漫画らしい作品なので、駒姫のヒロイン像として違和感なく魅力的だったと思う。少女としての可愛らしさと凛としたお姫さまとしてのバランスにとても艶があった。

駒姫で唯一惜しかったのは衣装が中村誠治郎さん演じる悪役・ウルジに負けていたことだろう。髪飾りは素晴らしかったのだが、ウルジのスワロフスキーを散らした(いちばんの歌舞伎者はお前だと言いたい)毒々しい華やかさを前にしてしまうと、着物の安っぽさが目立つ。衣装替えの多い役どころなのできちんとした和装は難しいと思うが、ウルジと対照的に伝統的な着こなしにすればいくらか印象が違ったのではないかと思う。古典柄の浴衣に帯揚げ・帯締め帯留めを着脱しやすいようにセットして、打掛でも羽織ればじゅうぶん「お姫さま」にみえたはずだ。ちなみに手元の日本史の便覧によれば安土桃山時代の女性の装いは小紋が中心だったそうである。

特殊な状況下におかれた主人公が「未来人」ゆえにその世界でもてはやされ、しかも歴史上の有名人の生まれ変わり(?)で、ほかでもない自分の得意分野でヒロインを救うという物語は、娯楽作品における類型的な題材だが、前述のように駒姫という史実のチョイスがよかったために大筋の陳腐を免れている。しかも、役者がいい。ウルジ役の中村誠治郎さん・弁慶役の星智也さん・又吉役の丸川敬之さんは紛れもない実力派で、ファンタジーの世界観に安心感を与えていた。

八島諒さん演じるタケルと弁慶のやりとりが可愛らしくてよかった。公演を追うごとに例の距離が縮まっていくので、千秋楽にはいったいどうなってしまうのかとヒヤヒヤしながら楽しめた。ヒーローヒロインより絡みがセクシーなのはどうかと思う。ごちそうさまでした。

義経だけではなく、タケルも道真も名前の由来になった歴史・神話上の人物の生まれ変わりなのだろうか? タケルはともかく道真が覚醒したら雷操る系ラスボスになるような気がする。また、安土桃山時代とは一転して、未来の世界のウルジこと漆間が貧乏くじを引いているオチはおかしみがあった。転生モノのおいしさを詰め込んだようなエピソードだった。

物語の大筋の着眼点は本当によかったし、コメディ・シリアス問わず、細かいシーンひとつひとつが面白かった。俳優陣の厚みにも助けられて全体的に飽きの来ない出来栄えだったと思うが、一方でシナリオが洗練されていたかと言うと疑問が残る。

たとえば、児童養護施設出身と一口に言ってもさまざまな経緯があるにも関わらず、作者が持っている「施設」にまつわるぼんやりとしたイメージが大前提にされているために、受け手は義経の具体的な背景を一切知らないまま終わってしまう。これでは共感のしようがないし、いきなり「恋愛に臆病なおれ」の話をされても唐突で困ってしまう。

保育士資格を取得する際は児童養護施設(あるいは障害児施設)で実習を受けることが義務付けられているので、観客にもそのあたりに詳しいものは相当数いたと思う。保育士ではないが、私も施設で一か月近く実習をした。その経験から「施設=親に捨てられた子どもが集まるところ」はフィクションをもとにした偏見的な言い回しに思えたし、実際にそこで暮らしていたはずの義経がそうした認識を持つことに違和感を覚える。児童養護施設は「さまざまな事情で親と暮らせない子どもが養育を受ける場所」であり、義経は乳幼児の頃に実親のもとを離れたがゆえに「自分は捨てられた」と認識している―――のであれば、彼の生い立ちもよくわかるのだが、そうした説明が一切ないために、義経まわりの心理描写は「雰囲気で察してくれ」と言わんばかりになってしまった。

ついでに意地悪を言えば、もしもThe Sky's The Limitの3人が名付けられないうちから実親の手を離れたのであれば行先はまず乳児院だし、名づけは施設長じゃなくて自治体の役割だし、究極のところ児童養護施設は国と自治体から措置費を受けて運営されているので資金繰り云々でつぶれることはありません。だってそうじゃなきゃ子どもが安心して暮らせないでしょ。

そのあたりはフィクションなのでいいとして。

現実に即した描写を、という話ではなく、世界観のためのエクスキュースが圧倒的に不足していたと思う。「施設とはこういうもので(偏見)こういうイメージのつきまとうものだから(主観)それでキャラクターの背景は説明されたものとする」と言わんばかりのシナリオでは観客を置いてけぼりにしてしまう。これは作品のキーフレーズである「たまらなく空は青い」にも言える。"The sky's the limit" が副題にも使われている以上、この台詞には「あなたに限界はない(あるいは「だから希望をもって」)」の意味が込められていると推測するのは難しくない。けれども、恋愛に臆病だと語った直後に「大丈夫。たまらなく空は青い」と慰めのように言われても唐突感が凄まじい。もう少し台詞と構成の兼ね合いを吟味してほしかったのが正直なところである。

義経たちはセーラームーンのほたるちゃんみたいに死後何らかのすげえパワーで赤ちゃんに生まれ変わって未来に送られて園長先生に拾われた存在だからそもそも親がいなかったみたいな設定を予想してるんだけどどうなんでしょうね。

あらすじが発表されたとき真っ先に萩尾望都『あぶない壇之浦』が思い浮かんだ。タイムスリップものは歴史ものよりもわかりやすく、ちょっとした教養的楽しみもあるところが魅力的だ。事前放送では次回作を見据えているような話もあったので、ブラッシュアップされた物語を期待したい。

 

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あぶない丘の家 (小学館文庫)

あぶない丘の家 (小学館文庫)

 

 

 

 

映画『お嬢さん』(2016年)_感想

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サラ・ウォーターズ『茨の城』を原作に、1939年・大日本帝国植民地時代の朝鮮半島を舞台にした、女性同士の性愛を描くガールズ・ムービーである。

舞台設定を含めて『お嬢さん』は重層的な支配からの解放を示唆している。日本人の令嬢である秀子は5歳で朝鮮半島に引き取られて以来、日本の官能小説を好事家の男たちの前で朗読させられる性的虐待を受けていた。(和綴じの官能小説には春画が挿絵として用いられている。劇中では稀覯本とされているため江戸時代発行の黄表紙と思われるが、内容は現代語のオリジナルストーリーのため実在するものではない)

秀子にそれを強いた叔父の上月は生まれも育ちも朝鮮だが日本人女性と結婚してからはあくまで日本人として振舞っている。また、秀子に結婚詐欺を持ち掛ける藤原男爵も、朝鮮半島における被差別地域から日本の爵位を手に入れてのし上がった詐欺師。男と女のあいだにある支配。日本と朝鮮半島のあいだにある支配。そして朝鮮人でありながら支配者である「日本」を装うことで支配者と一体化する男たち。彼らは秀子を利用し、支配する。

そんな彼女の愛はただ正直にお金持ちになりたいだけの少女・盗賊一味のスッキに向けられていた。藤原伯爵の口車に乗り、女中として秀子の元へやってきたスッキだったが、やがて彼女の周囲の男たちに怒りと嫉妬すら覚えていくのだった。

設定だけならば朝鮮人の貧しい娘と日本人の華族令嬢が手に手を取って支配者かぶれの男たちをこらしめるシスター・フッドの物語である。ただし、秀子を演じるのはキム・ミニ。日本人役でありながら韓国の女優である彼女は、メタ的に見れば植民地支配時代に「日本人」とされ日本語を強制された朝鮮半島の人々に重なる。

一方で、支配者である日帝に擦り寄る上月や藤原の姿は一見すると不思議な光景に見える。しかしアメリカとの諸問題を抱える私達の社会を思い浮かべればその心理は想像に難くない。ジレンマを解消したい一心で自らを傷つける対象に積極的に好意を寄せる「捻れ」の防衛機制。ストレス忌避に根ざした心の動きのため「その振る舞いはおかしい」とも断罪し難いのが厄介だ。(もちろんそのために加害をしているのだから無色透明ではあり得ない)

ところで、新鮮だったのが「春画」の扱いだった。同じく韓国映画『哭声(コクソン)』でも小道具としての春画は演出の中でおどろおどろしいイメージを掻き立てる。国内における春画のパブリックイメージは「明るい変態」のため(そうした手放しの賞賛には忌避感情を持っているが)そのギャップにショックがないわけではない。

「支配からの脱出」がテーマの本作だが、それ自体は重々しいものではない。支配にすり寄る側をあくまで滑稽に描写することで少女たちの瑞々しさが際立つ。加えてふたりのセックスシーンはとても楽しそう・かつ官能的で「男性器抜きでもセックスは成立するしちゃんとエロい」仕上がりにはいち女性として勇気付けられるものがあった。大笑いした好きな台詞はスッキの「天性の才ですね!?」