蜂蜜博物誌

映画や舞台や読んだ本。たまに思ったこと

映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(2016年)_感想

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原題の直訳は「釜山行き」 娘を別居中の妻の元に連れていくため、日本の新幹線にあたる高速列車に乗ったファンドマネージャーのソグ。自らの利益や一人娘のためならば何を切り捨てても構わないと考える徹底的な合理主義者だった彼は、周囲が次々とゾンビと化すパンデミックの惨状の中、次第に柔和な父親としての顔を取り戻す。

極限の環境の最中、利己主義と利他的行為のはざまで揺れる人間ドラマとしての見応えは、ゾンビ映画の緊張と焦燥に何一つ陰りを落とさない。一方で、徴兵制を基盤に頼もしい武力を持つ自国が、状況次第では非武装の自分たちにも銃口を向けるだろうリアリズムにも容赦がない。前日譚にあたるアニメーション『ソウルステーション/パンデミック』にもその警告は込められている。たった30年前まで軍事政権下にあった韓国。それはシビリアン・コントロールに対する疑いや不安かもしれない。劇中でヨンソクが「感染しているかもしれない」ソグたちを自らの車両に入れることを拒んだように、社会防衛の大義名分さえあれば、ひとは容易に他者を排斥できるのだから。

スアンが父親に聞かせたくて練習したはずのアロハ・オエは彼女自身の生きている証として自らの命を救った。「一歩間違えていたら」国家を背後にした人間の手により、罪のない子どもと妊産婦が殺されていたのかもしれないと考えると背筋が凍る。生き延びた喜びと残酷なIFが同居する終わりは不思議と美しいと思った。

映画『チョコレートドーナツ』(2012年)_感想

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1909年に第1回「要保護児童に関するホワイトハウス会議」を開催したアメリカは「緊急やむを得ない限り児童を家庭生活から引き離してはならない」方針を定めた。これは「子どもの権利」がまだ社会的に認知されておらず、大人と同様に働かせてしまえるような社会において為された、子どもの権利擁護においてはじめての法的効力を伴う宣言だった。以降、アメリカは「児童を家庭から引き離さずに養育する」ことを子どもの権利と認め、社会的養護においても家庭的な場の提供に努めることになる。それが里親による子どもの養育である。

社会的養護とは
社会的養護とは、保護者のない児童や、保護者に監護させることが適当でない児童を、公的責任で社会的に養育し、保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援を行うことです。
社会的養護は、「子どもの最善の利益のために」と「社会全体で子どもを育む」を理念として行われています。

社会的養護 |厚生労働省

一方、日本では2011年「里親委託ガイドライン」を施行するなどの取り組みを行っているものの、4万人から5万人近くいる社会的養護を必要とする子どもたちのうち大半は大舎型の施設で暮らしている。もちろん専門職によるケアを受けられるなど施設養護のメリットもさまざまだが、それを考慮してもなおパーマネンシー(子どもの育つ環境の安定性と永住性)には欠ける事実がある。肉親という社会的に想定された保護者の手を離れた子どもたちの、養護施設を卒業したあとの人生に後ろ盾は少ない。自らの幸福のために子ども自信ができることは少なく、彼らが社会的弱者であることは言うまでもない。

映画『チョコレートドーナツ』はそんな子どもの養育環境を巡る大人たちの奮闘、あるいは攻防であり、「理不尽な偏見が彼らを引き離した」物語だが、悲劇的な結末についてはゲイへの偏見ばかりが原因とも言い難い。マルコの結末は「子どもの最善の利益」を理解していない判事たちが引き起こした重大事故のようにもみえるからだ。たとえゲイへの偏見があったとしてもマルコの意思を尊重する判断はできたはずし、養育に適さない実母のもとへ帰すことなどなかったはずだ。現に、マルコの担任教師や、聞き取り調査を担当したソーシャルワーカーにとって、最善策は自明の理だった。それは実母のもとに帰すことでも、心ない里親のあいだをたらいまわしにすることでも、彼に向き合わない施設の生活でもない。継続的かつ個人的な関係を得ることのできる、ルディたちの家庭に他ならない。おそらく判事たちは、知的な発達の遅れのあるマルコの意思を想定していなかった。はじめから「判断能力を欠く」と決めつけて、自分たちの価値観をもって彼を振り回したのだろうと思う。

偏見は絵空事から生まれるのではなく、その人の経験、あるいはそこから生まれる推測によってもたらされる。現代からすれば「ゲイカップルは子どもの養育に悪影響」などあまりに古典的でまじめに取り合うのもくだらないかもしれない。しかし、偏見というのは当人たちにとってはどこまでも「事実」に過ぎない。それを語るべき正当性や切実な想いが自分たちにはあるとたしかに信じている。判事たちは「子どもの権利」のためと信じて「監護権における正当な手続きを踏まなかった」「聞き分けのない」ルディたちをいかにマルコから引き離すか必死だったのだろう。当事者がどうしたいのか、どのような想いで暮らしているのか、そうした視点もなく、ただ教条的な「正論」を振りかざして、実態とかけ離れた言葉を振りかざす。あらゆる差別や偏見の共通項だ。

目を曇らせた相手にはどんな誠実な語りかけすらも通じない。そうして抗う言葉すら奪われたマイノリティはきっと歌うことしかできない。プリミティブに情動に訴えかけるものだけが相手に伝わることもある。自分たちの真実をみろ、と。ただあたり前の日々を生きている同じ人間なのだ、と。

 

参考文献

子ども家庭福祉[第2版] (新・基礎からの社会福祉)

児童や家庭に対する支援と児童・家庭福祉制度 (社会福祉士シリーズ)

 

舞台『サンドイッチの作り方』(2018年)_感想

記事の表題がいつも無味乾燥な「タイトル_感想」なのでそろそろキャッチーなサブタイトルをつけたほうが親切なんじゃないかと考えたりもするのですが、そのあたりに割けるセンスがない以上に、少なからず、なんでもかんでも読解の助けになるような副題をつけてしまう傾向に違和感を覚えるので悩ましい。(海外映画の邦題がすこぶる長い、みたいな)

ときに世の中では「わかりやすさ」がもてはやされて、ものごとの複雑な、あるいは絡み合ってほどけない美しさとか醜さとか、そうした重層的な事物がないがしろにされる傾向も多々あるけれど、「料理に込められたメッセージ」なんて、作り手と受け手の双方に感受性の奥行がなければとてもじゃないけど成立しないものなんじゃないかしら。《メッセージを届ける側も頑張らないといけないけど想いを受け取る側も努力が必要なんです》それはきっと、料理も、歌も、舞台も、日頃の些細な会話でさえ共通するものだろうと思います。

物語も演出もすごく好きだったけど、土日の4公演を通して何一つ飽きなかったのは、主演の西園みすずさんが小松恵美として一瞬一瞬ナマの喜怒哀楽をみせてくれたからだと思います。毎公演同じ場面でも「持ってくる感情」に違いがあるように見えました。「ああ今日はここで圭ちゃんにときめいたな」とか、「これは思わず泣いちゃったんだな」とか、「おお今日はがんばってこらえたな」とか、感情の波打ちが4公演すべてに別個のそれを感じました。うまく言えないけれど「同じ物語を繰り返し演じてる」というよりは「繰り返し同じ状況に立ち会った恵美の、そのときどきの感情」に立ち会った気分。恋人役の八島諒さんもとても似ている演じ方だったように思いました。圭介が食べているパスタを吹いたり、食べるはずのシチューが足りなくてカツカツカツカツ一生懸命搔き集めてたり(笑) そのたびに恵美の「あ~もう圭ちゃんなにやってるの~~~(好き)」みたいな気持ちが滲みでてる愛しげな苦笑い。よく彼の肩をパンパン叩いてたのがとてもお芝居には見えなくて。どのカップルもすてきだったけど、お互いに対する感情の高めあい方に、つくりものじゃない気持ちが滲みでる主演カップルが私は大好きでした。

公演が発表になったとき「現代日本の男女恋愛ものかあ。修羅場? うーんどんなもんだろう……」程度の反応だったんですけれど、まさかこんなに大好きな作品になるとは思いもよりませんでした。恋愛ものって下手すると〈記号〉の連続。「OL」がいて、「かっこいい先輩」がいて、「浮気」があって、「片思い」があって、「壁ドン」で女の子は恋に落ちて、「浮気は男の甲斐性」で、「女の嫉妬はおそろしい」みたいな。世間に流通してるイメージやカテゴライズを組み合わせて「ほらドキドキしたでしょう?」みたいな。そんな記号遊びも楽しいことには楽しいけど、言ってしまえば固定観念とか偏見とかを捏ね繰り回してるだけだと思うし、決して生きた人間の感情を描くものではないと思うんです。

『サンドイッチの作り方』も「売れないミュージシャンと支える恋人」「片思い」「修羅場」「幼馴染」「束縛彼氏とできる女」と、並べたら随分キャッチーな記号を並べ立ててるように見えるけど、そこには単純なカテゴライズに収まりきらないそれぞれの人生や価値観があって、何よりお互いを想う誠実さと優しさがありました。公演前、キャストの皆さんが「登場人物みんないい人ばかり」と言ってた理由がよくわかった!! だれも吾朗さんの浮気未遂を庇わないし、吾朗さんもちゃんと「我に返って」反省してる。そこに変な見栄はないの。気のない女の子に好かれた佐々木くんも、言ってしまえば一方的に好かれただけなのに、想いを向けてくれたことにきちんと心を寄せてる。そりゃ自分も咲江さんに片想いをしてるからっていうのもあるかもしれないけど、「困ったなあ」で終わらせない。えらい。すごい。みんな誠実なひとばかり。

ワンシチュエーションの会話劇かと思いきやダンスミュージカル風のポップな演出がとても軽やかですてきでした。音楽の使い方もとても好き。それぞれのカップルが背中合わせにスポットライトを浴びるあのシーンもすごく好き。「料理にこめられたメッセージ」を解読するのは難しい、と思ってしまうかもしれないけど、日常の会話だってみんないつも何かしらを期待しながら言葉を交わしてるんですよね。伝える気のない人が「察してよ」と言ったり、逆に想いを受け取る気のない人が「言わなきゃわかんないよ」と言ったり、そういうはなからシャットダウンする気満々のいじわるにうんざりすることも多いけど、自分も含めて、もう少しだけ、優しい世界を信じてがんばろう、と思います。

アンドロメダ瞬が女の子になったこととかついでに考えたこととか

聖闘士星矢が NetflixでフルCGアニメーションとして復活すると発表され、連載当時のそれとは異なる原作に忠実なアニメになるのでは?と期待を寄せるファンも多かったようだが、これまで公開された情報によればキャラクターの名前等変更箇所もそれなりにあるらしい。

なかでも話題になったのは主要登場人物であるアンドロメダ座の聖闘士・瞬の性別が男性から女性に変わるというものだった。この件も含めてメインシナリオライターであるEugene Son氏は原作からの改変の理由を丁寧に説明している。詳細は該当ツイートのツリーや有志による翻訳を参照。(2018年12月11日現在、Eugene Son氏の一連のツイートは削除されている)

現に2014年に公開された劇場版『聖闘士星矢 Legend of Sanctuary』でも敵対する黄金聖闘士の一人は女性に変更されている。もっとも、本作のキャラクターメイキングは、原作や連載時のアニメから特徴の一部を借りたオリジナルの要素が強いため、今回の性別変更とはいささか毛色が異なる。蠍座のミロ姉さんかっこいいのでぜひ見てください。あと双子座ジェミニ山寺宏一

なるほど性格や扱いや展開さえ変わらなければ身体的性別が変わったところで問題はないだろう。女性になったからといって扱いが変わるようであれば氏も上記のような説明はしないはずだ。女性キャラクターがジェンダーバイアスの中に閉じ込められ、多様性に満ちたひとりの人間として描かれない事実は依然として存在する。「男の子を女の子」にすることで時代柄描けなかった女性キャラクター表象を獲得することは手段として有効だとさえ思う。

一方で、ファンとして不思議に思う。「なんで選ばれたのが瞬なの?」

聖闘士星矢』における瞬のキャラクターメイク

原作における作画は性別にこだわらず平均して顔がかわいいのだが、アンドロメダ瞬はまぎれもない「かわいい」男の子として描写されている。同じくかわいい顔をしているようにみえる魚座アフロディーテは「まるで少女のような顔」と彼の容貌を評していた。

さらに、守護星座であるアンドロメダ座の逸話を背負う瞬は、戦いそのものを好まない優しい性格として描かれている。戦いにおいては兄の一輝が助けに入ることもしばしばあった。そんな彼は、命のやりとりを当然と捉えている登場人物の中でも異色の存在だったかもしれない。

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師の仇である魚座アフロディーテとたったひとりで対決する覚悟を決めた瞬。アフロディーテの美しさに思わず「あれが男かよ」と口走った星矢に対する返答がこれ(文庫版7巻)

今の時代であれば「男とか女とか決めつけんじゃねえ」「自分は自分でしょ」という結論になるだろうが、男女二元論的な「男らしさの美学」を信奉している作風のためジェンダーバイアスからの脱却には至らない。それでも瞬はどこかマチズモに浸りきれない立ち位置を確立していたのだった。

こうして美学として演出された過剰なまでのジェンダーロールから一歩引いたキャラクターとして描かれていた瞬を「女性キャラクター」としてリメイクしたのが今回のNetflix版だった。これに対しては異論が噴出した。

ファン :オリジナルシリーズのなかで瞬はしばしば『囚われの姫君』として一輝に護られてきました。『彼』が『彼女』になるにあたって、少なくない女子はジェンダーステレオタイプが強化されることを恐れています。

ライター:仰るとおり、我々はシェーン(Netflix版瞬の名前)を『囚われの姫君』にするつもりはありません。ご意見感謝します。

いちファンとして「青銅聖闘士の一人を女性キャラとしてメイキングする」発想自体は面白いと思う。自分自身がリアルタイム世代ではないため、好きになったときには既に『聖闘士星矢』には様々な派生作品が存在した。連載当時のTVシリーズでさえ原作に比較するとキャラクターの性格・振る舞い・選択にあきらかな差異が認められる。一人の作者の描いた物語作品の枠組みを超えて、神話のように語り継がれる懐が『聖闘士星矢』にはあると信じている。これまでのメディア展開から原作者も自身の作風を越えた挑戦に対して意欲的にみえるし、ビッグコンテンツにはビッグコンテンツなりのマーケティングの必要があるとも思う。

Eugene Son氏の語った動機それ自体に思うことはない。しかし、決定の経緯とその結果に座りの悪さを感じてしまう。彼が「青銅聖闘士の一人を女性キャラとしてメイキングする」と決めたとき、はたして他のキャラクターの顔を一人でも思い浮かべたのだろうか? 「少女のような顔をした」「心優しい」瞬だからこそ彼に白羽の矢を立てたとしたら? あるいは「男の目から見てそのまま女にスライドできそうなのが瞬だった」……結局そんなジェンダーバイアスの結果なのではないか? それは本人のツイートからは読み取ることはできない。

蓋を開けてみなければわからないが、これまでの娯楽作品における女性表象に批判的であればこそ、シェーンはアンドロメダ瞬と同じく「ジェンダーに縛られない一人の人間」として描かれなければならないだろう。ところがEugene Son氏は一連の説明のなかで「瞬を女性にすることで面白くなる展開がある」と述べている。(おそらく冥界編のあれのことだろう) それは要するに女性を人間として描くことではなく、フェティッシュなヒロインの量産に繋がるのではないか。性別の変更が成功するとしたらそれは視聴者が「なんだ、女になったところで何もかわらないじゃん」と拍子抜けしたときだろう。もともと色眼鏡だらけの世界、いくらクリエイターが頑張ったところできっとむずかしいだろうけれど。

とはいえ『聖闘士星矢』を原作のまんま再生産するのは厳しい気がする。たとえば「仮面の掟」

キャラクターの性別変更はさておき、ジェンダーバイアスにまつわる『聖闘士星矢』のテコ入れはそれ自体相当難しいのではないか。古めかしいセクシズムは世界観の根幹や台詞にしばしば垣間見えるので、特定の設定はパージして再構成しなければ、とてもじゃないが現代的な倫理観に対応できないとすら思う。物事が問題提起されていなかった時代の原作それ自体ではなく、現在に生きる人間が手掛ける「新しい作品」として世の中に発表するのであれば、表象における「価値観の再生産」の責任から逃れられるものではないだろう。大勢の人間が製作に関わるコンテンツならなおさらだ。

たとえば、自分が聖闘士星矢にハマったのは高校生のときだったが、批評性のかけらもなく濫読していた頃でさえ「仮面の掟」には気持ち悪さを感じてしまった。社会的な視点がまるでなかった子どものときだって少年漫画のセクシズムくらいうすぼんやりと理解できる。それでも好きになったものは仕方がないから、物語の価値観を内面化したり、あるいは目を瞑ったり、めちゃくちゃ深読みして自分にとって納得いく解釈を編み出したり、好きになったものを好きでいるための努力は考え方の変化の大きい二十歳前後の歳月において少なからず必要だった。今はもういい大人なので「無理なとこは無理だけど好き」と批評性をもって愛している。

とはいえ後年あたらしい派生作品が次々と生まれるなか、そのあたりをフラットに魅せる努力は絶え間なく続けられてたように思う。

聖闘士星矢Ω 3 [DVD]

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2012年に放映された『聖闘士星矢Ω』は展開上「仮面の掟」に向き合わざるを得なかったが、やはり手を焼いていた印象がある。主要登場人物である青銅聖闘士の一人に女の子を加えるにあたり、「聖闘士になるために女は仮面を被って女を捨てなければならない」という「女は顔が命だろう?」と言わんばかりの設定は障壁だった。結果、鷲座の聖闘士であるユナは「自分は自分」と仮面を外すことを選んだのだが、それはあくまで彼女個人の選択であり「仮面の掟」そのものへの批判には至らなかった。『聖闘士星矢Ω』シーズン1は馬越作画でほんとうにすてきなのでぜひ見てください。

すでに紹介した『聖闘士星矢 Legend of Sanctuary』では「仮面の掟」に触れることはなかった。原作における女性聖闘士の仮面は異なる演出に活用され、そもそも性別に関わりなく聖闘士の装着する鎧(聖衣)はすべてマスクのあるデザインに変更されていた。本作がオリジナリティの高い構成だったため可能だったことかもしれない。

そして2013年『セインティア翔』において「仮面の掟」はそのままに「女性のまま戦う女性戦士」の概念があらたに誕生した。これは原作者である車田正美がかねてよりあたためていた構想らしい。「聖処女であるアテナの身辺を守る少女・聖闘少女(セインティア)」たちがじつは『聖闘士星矢』の裏舞台で活躍していたのだ―――という物語は、かつてのホモソーシャル一辺倒な『聖闘士星矢』像を一転させるに相応しいものだった。

ほかにも漫画『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』では鶴座のユズリハという少女が「わずらわしい」という理由でほとんど仮面を外して過ごしている。このように派生作品ではすでにゆるやかに回避されている設定だが、Netflix版のシェーンについて「仮面はどうなるの?」と問い正すファンが絶えないほど『聖闘士星矢』にとって印象深い要素であることは事実だ。自分の顔をはじめてみたペガサス星矢に恋をする蛇遣い座のシャイナが魅力的だったこともそうした愛着の理由のひとつだろう。余談だが、「男らしさの美学」が根底にある車田作品の女性キャラはときに男性の手に負えない凶悪さを兼ね備えている。これは原作者のフェティシズムの賜物だと考えたりもする。

 

こうしてあらゆるアイデアを用いて現代的にアレンジされ、また原作の魅力や魂を抽出することに心血を注がれてきた『聖闘士星矢』派生シリーズだからこそ、今回のNetflix版に期待する気持ちはある。蓋を開けてみて「なんだ、いろんな心配は杞憂だったなあ」と言いたい。自分は山内重保監督の手掛けた劇場版が好きで、過去には『聖闘士星矢Ω』のために毎週早朝を楽しみにしていて、改変にも慣れ切ったファンだから、原作に忠実な『聖闘士星矢』を望んでいる仲間と分かち合えるものは少ないかもしれない。でもどうせなら、どんな作風であれ、どこかのだれかが新しい『聖闘士星矢』を好きになれる、そんな作品になってほしいよね、という気持ちは同じだろうと思う。

 ジェンダーの話が多かったので入門になりそうな文献や記事を載せとくね
ジェンダー (図解雑学)

ジェンダー (図解雑学)

 

wezz-y.com

 

 

 

舞台『Take Me Out 2018』(2018年)_感想

Take Me Out 2018

2018年思い入れの深い作品は多々あったけれどもカタルシスを得られた観劇は『Take Me Out』だけだったかもしれない。2016年の初演は私生活が慌ただしく機会を得られなかった。春先にようやく観ることのできた再演は最高だった。芝居・演出・音楽・脚本、どれをとっても質が高い。先日あらためてDVDで鑑賞したが、ブロードウェイにおける初演が2003年と知って驚いた。この間上演の契機が訪れなかったと言えばそれまでかもしれないが、たとえ条件に恵まれていたとしても、日本の観客の多くが「自分ごと」として捉えるためには10年以上の歳月が必要だったのかもしれないとも思う。

いち当事者としてLGBTQ・あるいはセクシャルマイノリティを巡る作品にそれほど多く触れてきたつもりはない。ジェンダーに動機を見出すことのできる「花の24年組」の少女漫画群、シスターフッドが心地よい百合、そしてボーイズラブ。これらはそれぞれに表現としての意義だったり愉悦だったりを備えているが、決して「LGBTQ・セクシャルマイノリティ」そのものを描いてはいないし、それ自体を巡る社会的なポリティクス(駆け引き)に焦点を当てるものではない。愛はすでにそこにあるものとしてだれにも否定されず、あるいは周囲の抑圧は愛を盛り上げるために存在する。その一方で「LGBTセクシャルマイノリティ」を「エグみ」として利用する作品やメディアも多々ある。昔の作品は同性愛やトランスジェンダーをグロテスクな味わいとして演出した。今でもマンガ・アニメ・バラエティにおける「オカマキャラ」「オネエキャラ」といえば、ピエロあるいは超越的な役割を期待されてるキワモノであって、それは一見似ているドラァグのエンパワメントと真逆の文脈を持っているように見える。まぎれもない当事者は番組づくりの中でキワモノとして演出され再構築されていた。断言するが、日本人として自然に触れることのできるカルチャーに「LGBTQ・セクシャルマイノリティ」はほとんどいなかった。

2016年『オフブロードウェイミュージカル bare』(原題:Bare:A Pop Opera)を観劇して目から鱗が落ちた。カミングアウトを巡る社会とのポリティクスを描くこの作品は、2012年アメリカで上演されている。自分自身の経験と重ね合わせて憑き物が落ちたような体験をした。

アリストテレスの所説は頻々と誤解を蒙っているようだが、要するに、演劇の機能が、感情を浄化して、怖れと憐みを克服することにあるというものである。だからオレステスオイディプスと自分とを一体化している観客は、その一体化から解放され、また精神的に昂揚された結果、宿命の盲滅的な働きを意に介しなくなる。生活上のさまざまな絆は、一時的ながら捨て去られる。なぜなら芸術が、現実とは異なった手立てでもって観衆を「魅惑」しているからである。そしてこの楽しい、つかの間の魅惑こそは、あの「愉悦」、すなわち悲劇作品からでさえもえられるあの喜びの特質なのである。―――『芸術はなぜ必要か』エルンスト・フィッシャー著(河野徹訳・法政大学出版局) 

 『Take Me Out』も同様に人々のカタルシスに訴えかける戯曲だった。あからさまな差別や連発されるFワード。観劇後はとにかく感動した覚えしかないのに、見返してみると台詞じたいは(現実にありふれている)ひどいものばかりで首を傾げた。ダレンと恋仲になるユダヤ人会計士・メイソンは最後に呟く。「本当に、悲劇だった」と。

芸術はなぜ必要か (1967年) (叢書・ウニベルシタス)

芸術はなぜ必要か (1967年) (叢書・ウニベルシタス)

 

DDD青山クロスシアターは地下の劇場らしく客席がステージを見下ろすかたちになっている。ステージは客席と客席の中央に位置する。それはスタジアムによく似ている。ただし、望むのは競技場ではない。ロッカールームを模した硬質な舞台装置で、密室の会話も、試合も、夜更けのバーも表現される。正面の観客の姿が常に視界にチラつくものの、「我々が彼らを覗き見ている」連帯と背徳感さえある。

ダレン・レミングはいわゆるパワーゲイの条件を満たした存在だが、周囲も自分自身も、彼がパワーゲイであることを許さなかった。白人の父親と黒人の母親から生まれたダレンはこれまで人種差別の対象になることはなかった。ダレンの性格は自己肯定力に満ちていて自分自身の能力や人格にぜったいの自信を持っていた。「自分がカミングアウトをしたところで自分が差別の対象になることはない。何故なら自分はダレン・レミングだからだ」―――一見傲岸不遜にも思えるセリフだが、ダレンは決して周囲の反応を予感していなかったわけではないだろうと思う。「カミングアウトをしたところで自分が差別の対象になっていいはずがない。何故なら自分は自分という人間だからだ」―――彼は何も間違っていない。ダレン・レミングはデイビー・バトルの言葉を受け、社会正義を信じて、祈るようにカミングアウトを決意したのだろう。

カミングアウト (朝日新書)

カミングアウト (朝日新書)

 

けれども当事者が考え、悩み、分析し、紡ぎだした哲学の蓄積に、世の中はおもしろいほどに追いつけない。アメリカ南部出身の白人であるシェーン・マンギッドが悪意なく有色人種を貶めたように、人間は自然に生きるなかで触れてきた価値観以上の視点を持つことができない。ダレンがリーグの最中「あえて」カミングアウトを決行したように、どこかのだれかが「あえて」議題設定を講じない限り、群衆には言葉も思いも届きやしない。チームメイトの無理解にダレンはあくまで正論を突き返していくのだが、これまで同性愛について真摯に考えたことのないトッディは、いまいち飲み込めないようで言葉のキャッチボールは成立しないのだった。

『Take Me Out』にあふれている差別的言動や振る舞いは、いずれかの差別に関心のある者であればどれも覚えのある典型だろう。ダレンのよき理解者に思えたキッピー・サンダーストームはシェーンの差別的言動を謝罪する「代筆」を行った。それは不遇な環境から学ぶ機会を得られなかったシェーンに対する同情だったかもしれない。裏を返せばキッピーはシェーンにこそシンパシーを感じて行動に移したが、一方で同性愛差別に関しては少なからず矮小化していたと思えてならない。賢く、優しく、ダレンに友愛を抱く彼でさえ、差別にまつわる社会関係への知見は疎かだった。群衆にとって同情されやすい特徴や美辞麗句をもって加害者は庇われやすく、対照的に被害者の困難は矮小化されやすい。同性愛差別に限らず、女性差別、障害者差別でもよく見かける典型だ。

思えばメイソン・マーゼックは不思議な存在だった。ダレンのカミングアウトに感銘を受けたゲイのひとりであり、ユダヤ人会計士というある種ステレオタイプな肩書を背負う彼は、ダレンの止まり木としての役割が与えられた。ホモソーシャルの権化のようなチームメイトたちと違って、メイソンは中性的なたおやかさがあって、知識欲に富みつつ、可憐で無邪気だった。これを「ヒロイン」と呼んでしまうのはジェンダーロールへの追従が過ぎるかもしれない。

劇中、ダレンのほかにはほとんど交流がないメイソンは、まるでダレン・レミングにだけ見えている妖精のようだ。『RENT』のドラァグ・エンジェルが仲間たちを結びつける「天使」であったならば、メイソンはメジャーリーグに関わるすべてをまなざした「預言者」だったのかもしれない。不遜なダレンは自分自身を神と呼んだけれども、預言者はきっとメイソンだった。野球における数字の符号を語る彼に、カバラ数秘術を想起するのは容易い。映像版でも抜き出された玉置玲央の表情は圧巻で、同時に謎も残した。愛し合うふたりが結ばれることはハッピー・エンドに違いない。それでもメイソンの慄くような余韻が、蠱惑的な悲劇がこれからも続いていく予感を抱かせる。

 

舞台『虹色唱歌』(2018年)_感想

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2009年に同じ紀伊國屋ホールで上演された作品の再演だそうです。初演は個人的に馴染みの深い入絵加奈子さんや椎名鯛造さんのお名前もあってびっくり。アフタートークで河原田巧也さんもお話されていましたが、舞台らしいテンポの速いセリフ回しが面白いコメディでした。

ベテランの俳優さんたちが多いこともあってセリフの間の長短がとても心地よかったです。幽霊の漫談から物語がスタートする舞台、はじめて観た(笑) 全体的にすごくくだらない感じの笑いだったんですけど、それがとても好きで。賑やかしの寿司屋とか尼さんとかジワジワ愛しい。あとカトリーナの振り切れっぷりがすごい。

三女の梅代役の須藤茉麻さんかわいかったな~!個人的にお久しぶりだったんですけど本当にかわいかった。割烹着ありがとうございました。萌え。三姉妹役の皆さんは三姉妹でありながら「潔子」の憑依先としてのオラオラしたお芝居も見られて二度おいしかったです。憑依されるときのスコーン!ガックン!みたいな演出、おもしろくて好き。キャラクターだったらHIROMUさん演じるミステリアス少年川嶋くんが大好き。

ただ、シナリオはとっ散らかってたかな?という印象。とにかく相関図に関わる情報が多くて観ながら処理するのがたいへん。次から次へと新情報来るし。だいじな設定なのかどうでもいい設定なのか判別つかないし。かと思えば重大な山場にかかる伏線がおざなりだったりして、物語の核になる一本道が見えづらいと感じました。

それからカトリーナの扱いも、うーん。わりとえげつない言葉の壁を標的にしたいじめが明かされたわりには、そんな関係の修復が為されるわけでもなく、彼女は最後まで虹川高校の「唱歌」に加われなかった。「お父さんはあなたのために温泉ファイブを用意したのにあなたは参加しなかった挙句デマクレームで潰したよなコンニャロー」的なこと言われても、カトリーナは自分をからかう集団に媚びてまで仲間にはなりたくなかっただろうし、校長の気遣いに気づいていたかはわからないけど、そんな連中が勝手に盛り上がってるのが恨めしかったんだろうな、と容易に想像がつく。おおよそコメディの作品なんだから「カトリーナとの溝」の原因はあんなにえげつないものである必要があったのかな、と思います。それでやっぱり大団円には彼女も参加してほしかった。みんなが歌ってるあいだもずっとカトリーナのこと考えて胸がチクチクしてたし。

それにしても主役は潔子だと思って観ていたんだけどパンフレット読んだら違った(笑)あと便利づかいされがちな姦しいおばちゃんキャラは女優さんたちが面白く演じてくれるから面白いだけで同じ女としてはステレオタイプでヤな感じ。

シナリオ周りの細かいもったいなさはたくさんあったけど、くだらない笑いはほんとうにくだらなくて大好きだし演出もお芝居も好きなので楽しい観劇でした。「死を乗り越えるのよ」あたりがほんと最高。

オフブロードウェイミュージカル『bare』(2016年)_感想

この記事は2016年7月にprivetterに掲載した感想に多少の修正を加えたものです。当時ありがたいことにTwitterのフォロワーさんをはじめ舞台のファン、「舞台は観ていないけど記事に共感した」という方から様々な反響をいただきました。今から思えば拙い点も多々あるのですができる限り当時のまま掲載しています。生まれてはじめて書いた観劇レポとして思い入れの深い文章です。(2018年11月)

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ameblo.jp

bareすごく面白かった!すばらしかった!ほとんど予備知識なく観劇したあとに公式ブログやパンフレットを読みました。2000年にアメリカで上演された『bare』が現地の学校でも上演されていることを知って、LGBTQの自殺率がきちんと問題化されているアメリカだからこそ、生々しいほどに真摯に当事者を描いた作品が生まれたのかなあと思いました。

ところでわたしはバイセクシャルです。

ここで「なんでいきなりカミングアウトしてんの?なにアピールなの???」と思ったひとはぜひ最後まで読んでくださいね。

さて、せっかくカミングアウトしたのはいいんですが、バイは「半分ヘテロじゃん」とあまり当事者扱いしてもらえません。しかも「バイならいいじゃん」みたいに思ったひとぜったいいるでしょ。読んでるひとのなかに。いやバイで「いい」んですけど!そういう問題じゃなくて!

でも、たしかに、「社会的に想定されている」異性愛も選択できる以上、世の中から爪弾きにされている感覚は、ゲイやレズビアンよりもやわらかなもので済んでいると思います。

それでも現実問題、バイセクシャルとして同性を好きになったとしても、なにもわからない他人からみれば、そんなことは関係ない「レズビアン」です。わたし自身、バイセクシャルというよりは「自分はレズビアンでありヘテロセクシャルである」という自認で生きています。加えて「どちらの性別の相手を好きになっても毎度なにかを騙している気分に苛まれる」おそらくわたし固有の不快感もあります。バイセク自認になるまでけっこう右往左往したし……それはいいとして……

『bare』のおおきなトピックはセクシャルマイノリティです。

けれども、根っこにあるのは、青少年のアイデンティティにまつわる葛藤や、それらと接する大人たちの人間模様です。ゲイであるジェイソンとピーターのみならず、すべての登場人物がそれぞれに生きているがための障壁を感じています。

それでも、セクシャルマイノリティだからこそ問題になる「固有の悩みの文脈」は、作品のなかでていねいすぎるほど描かれていました。それがほんとうにすごい。生々しい。勘弁してくれ。

こういう感想って、なんらかの近しいものがバックボーンにないと抱けないと思うので、せっかくだから、それについて解説を加えながら、個人的な読解を記していこうと思います。

初日、一回ポッキリの鑑賞でした。記憶違いがあったらご容赦ください。

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目次
1.ジェイソンが恐れた「アウティング
2. 苦痛を否認する大人たち
3.「クローズド」ジェイソンと「オープン」を目指すピーター
4.ぜんぶ世の中が悪い
5.「赦す」こと
6.BLとしての『bare』
7.登場人物それぞれと、俳優さんについて
8.『bare』には関係のない補足

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1.ジェイソンが恐れた「アウティング

カミングアウトと結果は似通っているようでいて、まるで意味が異なるものに「アウティング」があります。アウティングとは「ゲイやレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーLGBT)などに対して、本人の了解を得ずに、公にしていない性的指向性自認を暴露する行動のこと。(wikipedia)」です。

たとえば、レズビアンであることを打ち明けられた友人が、ほかの友人に「◯◯ちゃんレズなんだって~」と伝えてしまうこと。あるいは、性同一性障害のため社会的に男性として生活していたひとが、戸籍変更の手続きをしていないため、職場の書類で「女性」だと記載されている――――のを、公の目に触れるような場所に置かれてしまうこと、等です。

本編中でマットが周囲にピーターとジェイソンの関係を暴露したのは立派な「アウティング」です。ピーターがマットにジェイソンとの関係を打ち明けてしまったのも、ジェイソンの同意を得ないうちに行われた「アウティング」ということになります。本人の意思決定によるカミングアウトが当事者の尊厳の結果なら、アウティングは(たとえ本人がいずれカミングアウトをするつもりでいたにしろ)当事者に不信や絶望感を与えるには十分すぎるほどです。

だって、周囲が自分を見る目がいっさい変わってしまうんだから。

たとえるなら、小学生や、中学生の子どものとき、からかいの延長で、好きな人を友達に暴露されてしまったとか、そういうときの、どうしようもない気分。好きな人をバラされてから、まわりに「◯◯が好きなんだろ!」とはやしたてられるようになったときの羞恥心や、気まずさや、生活が一変してしまったことへの悲しさとか、そういうもの。

ジェイソンはカミングアウトを熱望するピーターに〈このときだけじゃない、永遠のものなんだよ〉と反論して、自分の評価が崩されることをひどく恐怖します。

「つまりセクシャルマイノリティに限らず、バラされたくないことをバラされるのは、怖気立つほどイヤなんだって話だよね!」という感想はきっと正しいです。共感をもつためには、人間普遍の心理として、思いを馳せてもらえるのがいちばんだなあと思います。

それと同時に、こういう問題に対して、まるで属性は関係のない事案であるかのように対処しようとする態度は、文脈によっては当事者の否定になってしまいます。たとえば先の感想が「バラされたくないことをバラすのはだれだってイヤなんだから、セクシャルマイノリティだからってそれが特別なわけじゃない」というような論旨にすり替わってしまった場合です。これは「社会的要因を無視した問題意識の否定」です。

なぜなら、どんなことでも、当事者が受ける打撃には、多かれ少なかれ社会の環境が関わっています。その塩梅によって「社会問題」は「社会問題」として取り沙汰され、個人対個人のそれを超えた議論の対象となっています。

この場合、同性愛が社会において「マイノリティ※」だからこそ生まれてしまう苦痛があるのは明らかです。それでも、こういう議論があるとしばしば社会的な側面をスポイルして問題を無化しようとする言論もしばしばでてきます。

(※「マイノリティ」とは単なる少数者という意味ではなく、社会構造を踏まえた上での言葉です。だから世の中で「マイノリティ」と呼ばれているものには、呼ばれるなりの社会的な合意があるので、自分たちの恣意的な感情から弱者アピールをしているわけではないことはご留意ください。)

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じゃあ具体的にどんなのが問題ある環境だってのよっていうお話です。

ほとんどのセクシャルマイノリティは共通して「無理解」「差別」「存在を想定されずに構築された社会」に囲まれています。

んで、めんどくさいことにだれよりも正確に現状を認識しています。

「おおげさだな悲劇の主人公気取りかよ、みんなつらいなか生きてるんだよ」と言ってくるひとたちもいますが、どんなに周囲が否定しても、大小具体例をあげればキリがないくらいの事実が、そこにはあります。こういうことにアンテナを巡らせていれば自然にわかることなので、具体例については割愛します。

このなかでアウティングされてしまう恐怖は「存在を(人生や生命を)脅かし得る恐怖」です。

ある日まわりがみんな自分をしらけた顔で見るようになったら? 好奇の目を向け始めたら? 「へえ……◯◯ってゲイなんだ! うふふ!」みたいなね。身に覚えあるひともいるかもわかりません。

ジェイソンはそれらにひどく怯えていました。〈我慢が大切〉とものわかりのいいふりをしてピーターを説得し、だれもが憧れるふるまいで周囲を魅了しながら、はじめからだれよりも怯えていたのは、ほかでもないジェイソンです。

いっぽうでピーターは、人生の今後や、自分の意志において、ジェイソンよりも自覚的な立場にあったのですが、それは後述します。

2.苦痛を否認する大人たち

「同性愛差別」がいまいちピンと来ないどころか、『bare』の「マットによるアウティング→みんながドン引き」シーンからのジェイソンのダメージに思いを馳せるのがむずかしかったひとも、なかにはいるんじゃないかしらと想像しました。

もちろんそれが悪いという話ではなくて、自殺に向かう負のエネルギーを前にすると、「なんでそれくらいで死んじゃうの!?!?(;_;)」と、当事者の苦しみを「否認」する心理も、あたり前の気持ちとしてあるだろうと思うからです。

ピーターのお母さん。それから、神父も、当事者の苦しみを否認した「あたり前の人々」でした。

ぶっちゃけ、いきなりカミングアウトされても、どう反応していいか困ると思います。だって、そんなこと言われても、打ち明けられた個人は「なにをすることもできない」んですから。

ところで、わたしがバイセクシャルであると書きましたが、フォロワーさんは率直に、どう思いました? そんなこと言わずに感想書いたらいいのにって、思いました? 特になにも思わずスルーしました? あと、知ってたわ〜〜とか。いろいろ思うか、べつになんとも思わなかったか、それぞれにあると思います。

もし日常の場面でカミングアウトされて、戸惑ったとしても、それはふつうの感覚だと思います。

そりゃあカミングアウトされたところで、聞いたひとはセクシャルマイノリティが受け入れられる社会にできるわけでもないし。応援するっていったって他人の恋路だったりするからラブイデオロギー鬱陶しいなって思うだろうし。

あるいは「解決できないのにそんな話を振られても困る」と思うのかもしれません。「アドバイスを求めてないのになんで悩み相談なんてするの?」案件と根っこは同じかもしれません。「わたしにどうしろっていうの? いきなり理解者ヅラしろって?」

人間は自分のストレスを回避するために「打ち明けられた苦しみを否認」します。

「望まない妊娠」の加害者になり、はてにはゲイであることをアウティングされ、追いつめられたジェイソンの告解を受けた神父は〈人はそういうとき解決を私に求める〉と自らの思うところを語りはじめました。

結論から言えば、神父は「ジェイソンが自分に解決を求めている」と感じ、かまえてしまったんだと思います。ただでさえ苦痛にボロボロの姿をみたら「なんとかしてあげなきゃ」と思ってしまうのは、人情として、当然ですよね。

でも、「なんとかする」ための言葉は単なる「指導」です。〈君は若い。未来がある〉〈卒業までは耐えろ〉と神父はジェイソンに「指導」します。これはジェイソンのような立場の人間のことを、これまで考えたことのない神父ができる、唯一の「助言」でした。

なんの解決にもなっていないことを、さも解決策であるかのように。

ジェイソンはそこで「シャットダウンされた」と感じたんだろうなあと思います。すがりついた壁にはなんの手がかりもなくって、つるつる滑るばっかりで。あとは真っ逆さまに落ちるだけ。

ならどうしたらよかったの?
神父はああいうしかなかったよね?
なにが不満だったの?
結果的にジェイソンは自死をしてしまったから神父が悪いことになったけど、わたしが神父だったらああ言う以外なかったと思う!

あんまり神父を責めていると、こんなふうに、逆張り論陣大好きマンのわたしが出てきて、勝手に脳内バトルをはじめちゃうんですが。

思い出してほしいのは、自らの黒人であるバックボーンに寄せて、ゲイであるピーターに心からの共感を示して、〈わたしはあなたの味方〉とはっきり宣言してくれたシスター・シャンテル。あるいは〈わかんないけどとにかくパパには言わないわ〉とジェイソンを抱きしめたナディア。そんなふたりと比較すれば、彼がなにを欠いていたのか、わかると思います。

それでも、神父が冷徹だったわけでも、とりたて悪人だったわけでもないと思います。ピーターのお母さんも同じです。

神父はキリスト教の教義において同性愛が罪である「原則的な」価値観で生きてきた人だろうし、あたりさわりのない言葉を口にすることだけが、彼の経験からできる「ふつう」の行動だったと思います。

また、ピーターのお母さんも、冒頭で、まるで偏見のようなゲイへのイメージを語っていました。(シングルマザーだから子どもがゲイになってしまったと言いたげな持論や、そのほか諸々)それは彼女にとっての「ふつう」だったと思います。

――――神父にとってあのときのジェイソンは苦しむ若い友人ではなく「罪の香りをさせた対処できない異物」でしかなかったのだろうし、母親にとってピーターのセクシュアリティは、「愛する息子にベッタリくっついた得体のしれない不可解」でしかなかったのだろうと思います。

それはひどくふつうで、当たり前で、常識の範疇で、悪人とは呼べません。

彼らは、ふつうに生きてきたなかで、あたらしい常識や良識や教養を、自ら学びに行くことなく、ふつうに得られるだけの価値観をもって、他者の苦痛を否認する、あたり前の感覚をもったひとたちでした。

3.「クローズド」ジェイソンと「オープン」を目指すピーター

ゲイであるジェイソンは生きている限り、いつヘイトクライムや排除を受けるかわからない恐怖のなかで揺らいでいました。

彼の動揺はピーターがカミングアウトを熱望したことにより徐々にあらわれましたが、ジェイソンはもともと自己に対して抑圧的で「自分がどう生きていたいか」という欲求には人並みに鈍感だったように思います。成績優秀で才能に恵まれて、愛する恋人ともいちゃいちゃしていたジェイソンは、父親の期待については複雑な気持ちを抱えつつも、現状に対して大きな不満は持っていなかったと思います。

ただし、それは「ゲイである自分を切り離した」なかでの順風満帆です。

だからこそピーターの希望により、カミングアウト後の社会との関係を想像することを迫られ、ひどく動揺したんだろうと、思っています。

いっぽうで、ピーターは「やんわりと自分を否定する母親」がつねに頭の片隅にありました。

母子家庭のピーターは母親を愛していたし、母親も自分を愛しているのを知っているけど、自分がゲイであることだけは受け入れてもらっていない。セクシュアリティはピーターの一部でしかないけれども、それを否定され切り落とされている事実に、母親を愛しているからこその葛藤があったと思います。

〈ママ、愛しているよ〉と母親の愛を何度も何度も問い直しながら、きっといつか受け入れてくれるはずだと、ピーターは折れそうになる意志を必死に繋いでいました。

ピーターは母を代表する他者と自分の未来に対して罪悪感を持ちたくなかった。だから追い詰められたジェイソンが「ふたりで逃げよう」と持ちかけても、彼は悲しそうな顔をして、断固として応じなかったんだと思いました。

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そういえば、前半が終わった休憩のとき、近くの客席から「ピーター落ち着いて!黙ってようよ!って思ったんだけど…」というような感想が聞こえてきたんですね。ピーターのカミングアウトの熱望は、一見すると聞き分けのない子どものように見えるのかもしれません。

わたしも実際、序盤にはそんな感想を抱きました。だってアウティングギリギリだったし、ジェイソンもかわいそうに、あからさまなくらいビビッてたし。「勘弁してあげてよ~!(笑)」みたいな反応、すごくよくわかる。言ってた人がゲイをオープンにできない気持ちに寄り添っていたのならすごくよくわかる。

でも、そうじゃなくて、「ゲイであることを黙っているのが大人」みたいな、マジョリティの立場からだったとしたら……?

それはやんわりとした抑圧にほかならないと思いました。厳しいこと言うと「差別」でよくある文脈だなあと思いました。

ピーターは他者や自分に対して誠実でありたかっただけなのに、それもわがままのように受け止められてしまったのだとしたら、現実のレインボープライドは、どんなふうに映るのかしら。ねえ、ゲイパレードみて、これを読んでる方は、どう思います?

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もちろんカミングアウトが必ずしも「正しい」わけではありません。

「クローズド」という生き方も、選択肢のひとつです。たとえ社会が遠回しにクローズドを強要するようなものであったとしても、「身を守る生き方」は肯定されてしかるべきです。本人の意思決定の結果であれば、尊重されてあたり前。

ピーターがカミングアウトを熱望しているのを察して、クローズドでいたい意志を伝えたジェイソンですが、ピーターにもピーターなりの「カミングアウトしなければいけない理由」があります。ピーターの存在や、未来にとって、それは乗り越えなければいけないことだったから。でもジェイソンはそれを受け入れません。

ジェイソンはそこで「クローズドである自分たちの未来」をきちんと伝えなければいけなかったんだと思います。将来設計みたいなもの。ピーターにとって、クローズドでいることは自己肯定の結果ではない。神さまはぜんぶ知っているのに、それでも黙り続けてることに、罪悪感ばかりが募って、悪夢ばかり見てしまう。黒人のマリアさまだって応援してくれるはずなのに!だから勇気を持って未来への布石を打ちたい。

しかし、ジェイソンが叫んだのは未来への展望や、クローズトを肯定する言葉どころか、〈言ってみろよ。君のママがオレの父親に電話して、父親はオレを殴って勘当して病院に入れる〉という強迫じみた反論でした。

彼はその強迫から、恐怖から、ほんとうの望みを見失い、周囲を傷つけて、アイヴィに対する決定的な「加害者」になりました。

ジェイソンがピーター以上に怯えていたのは、社会を通して、教条的で権威主義的な父親の陰を見ていたからだと思います。

彼は生まれたときから「自分を絶対的に否定する人間」のそばにいました。家族とはだれにとっても、いちばん最初にコミュニケーションの方法を学ぶ基礎的な集団です。

「人間関係における否定」をジェイソンは絶対的な父親からヒシヒシと感じていたんだと思います。

ジェイソンにとって社会は「理想的に振る舞えば認められて、そうじゃなければ徹底的に否定する」父親のようなものだったのかもしれない。遠回しに拒絶されながらも母親の愛を確信していたピーターほど、希望を持つためのエネルギーを、育むことができなかったのかもしれない。

得体のしれない強迫観念に振り回されて、罪を背負って、絶望して、理性がすべて意味のない境地に至ったとき、ジェイソンはやっと〈bare〉の安寧を得ました。

4.ぜんぶ世の中が悪い

公演終了後、ぼちぼち「ジェイソン被害者ヅラしてるけどいちばん可哀想なのアイヴィだよね……」というため息がちらほら聞かれました。すごくわかる。恋の代償にはあまりに重い。女体はしんどい。ジェイソンが日和ったばっかりに。なぜか避妊しなかったばっかりに。このやろう。

とはいえやっぱり、ジェイソンは加害者だけど、だから同情してはいけないなんてことはなくて、結局「世の中が悪い」と思います。

社会とか、世の中っていうのは、自分も含めたぜんぶ。「相手にとっての社会を形成している自分」という当事者意識がないために、他人を無意識に傷つけてる自分。無神経なことばっかり言ってしまう自分。相手に寄り添えない自分。ゲイであるその人が社会から与えられている苦しみを、まるで他人事のように語る自分。

目の前の人を「わたしの世界」の住人としか語れない自分。「いきなりレズバレしてくるってなんなの?どうしてほしいの?そんなこと言われても困るんだけど(苦笑)」みたいな態度の、常識人さま。ガチヘテロさま。

世の中が彼らの存在を想定したものであったとしたら、ピーターはうっかりアウティングに走ってしまわずに済んだし、ジェイソンは自分の愛を曲げて加害者になって死んだりしなかっただろうし、アイヴィだってただの切ない片想いで終われたんだろうと思います。

存在を肯定されないから、ロールモデルがないから、だれも正しい道を教えてくれないから、手探りで自分を律していくしかなくて、世間の価値観に動揺して、流されて、好きな人を傷つけて、笑いながら自分の気持ちに嘘ついて、斜め上の行動に走って、また世間の評価で嗤われる。

物語の文脈で「世の中が悪い」のは必然のような装置です。そういうオチの物語を、みんなが消費しています。
 
じゃあ、現実はどうかってお話です。
わたしや、ほかの人も含めて、現実社会だって、ジェイソンを殺すには十分な世界だって思ってます。これは制度の問題ではありません。

いつだか「同性婚が認められると切ないBLができなくなる」という発言が炎上したことがありました。

このとき、主流は「こういう馬鹿げた発言は内側から潰しておかねば未来のためにならねえ」というものでしたが、その話題が盛り上がるなかで、こういう体験談や持論、たくさん見かけました。

 「でも実際、同性愛者は自分たちのことを特別と思っている感じが鼻につく」
 「ファッションレズにこんな目に遭わされたことがある。メンヘラが多いのをわたしは知ってる」
 「同じように人間を愛してるだけなのに同性ってことでアピールしてくるのがわけわからない。同じものだって言えばいいのに」
 「カミングアウトされて悩みを聞いてあげたのに逆ギレされた。トラウマ」
 「あのときレズって言ってた子、結局結婚したんだよね~笑」
 「恋人のいない私たちよりリア充してるセクマイのほうが恵まれているんだから同性婚なんて敵に塩を送るようなもの」
 「子どももできない同性愛者が結婚で保障を得たいとか図々しいにもほどがない?」
 「同性愛者が生理的に無理なわたしを否定しないでほしい。逆差別だ」

うん!(笑)

えっと、こういう経験談や価値観について、否定するつもりはありません。そういうことがあったのなら、それが現実なんだろうなあと思いますし、そういう価値観なら、なんかもう感性とか良識とか教養とか法的感覚とか、そういう根本から違うんだなってことで、お互いにお近づきにならないほうがしあわせかなって思います……。

でも、それぞれへの感想はさておき、これがわたしの見えてる世界です。
そしてこんなことを言ってる人たちは、それぞれが大真面目に、あるいは無神経に、これを放言しています。つよい。

一点だけ反論するなら、人権やそういうレイヤーの話に「個人的体験」や「国への貢献」や「経済効果」ほど馴染まないものはない、ということです。

こういう人たちはおそらく自分たちが「事実」をフラットに話していると信じ込んでいますが、それは「偏見」というものが、絵空事から生まれるものではなく、個人的体験の積み重ねによるものであることを、きっと知らないまま生きてるんだろうな、と思いました。

なにより、その偏見に一縷の事実が含まれていたとしても、「人権を認められるのに人格は関係ない」のに、どうしてわざわざそんな話を、この流れで、持ち出すのかしら。なんの意図があって?

現実ってこんなもんなんですよ。

 

同性愛差別にいまいちピンと来なかったり。

ホモやレズという言葉は蔑称だと言われても「そんなつもりないし……」としか言えなかったり。

BL作品で「オレはホモじゃないけどおまえが好きなんだ」と言わせてみたり。

「キャラをホモにするのはキャラへの侮辱だ」と言ってみたり。

BLという言葉がまず先にあって作られた「NL」の単語をフラットだと言い張ったり。

 

そういうオタク界隈も、すごく「ふつう」だと思います。

ふつうで、現実で、そういうものだなあって思います。いきなり差別とか人権とか言われても、先生にいきなり杓子定規なこと言われたみたいな気分になるの、ふつうだなあって思います。あるいはそういうこと言ってるのはジンケン派で、リベサヨで、フェミで、PTAで、意識高い系、みたいな認識。でも日本にはそんなに差別はないって信じてるひとの、認識。世界観。みえてる世の中。ふつうの世の中。

アメリカが舞台の『bare』ですが、ついでに日本の与党が出してるLGBTについての見解がこちら。(http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/132489_2.pdf

ジェンダーフリーについてが、某極右団体のサイトにあるデマ記述の流用でびっくらこいたこと以外は、ふつうすぎるほどふつうです(極右団体は日◯会議で検索だ!)
 
どこがふつうかっていうと、「ついていけないなあ~じゃないよ!!!!どこ向け案内だよ!!あくまでパンピーさま目線かよ!!!カミングアウトという自己決定の側面はスポイルか~~~~!!!!」っていうあたりです。

でもこれってすごくふつう。国を運営してくれてる政府のふつう。国から大衆まで、これが当たり前。異物扱いのまま、まあアリなんじゃない、国際的にはそうだしね、みたいな態度。

『bare』も同じように、こんなふつうの世の中の物語です。特別悲劇的な世界観でも、なんでもない。ジェイソンを哀れみ、同情をよせる、ほかでもない観客のあなたがこの悲劇を生んだパズルのピースです。

5.「赦す」こと

ここまで書いて「そんなふうに世の中を僻んでるからセクマイさまが認められないんじゃないの(笑)」という仮想敵の声が聞こえてきました。いや、じっさいよくみかけるんですこういうの……あながち被害妄想じゃないの……。

でも、生きていく以上は、そういう世界を、自分が死なない程度に赦しながら、それなりに関係を繋いでいかなければいけないのは、ちゃんと知ってます。

ピーターは母親からやんわりと拒絶され続けました。これは「コミットしないことによる消極的な否定」です。ジェイソンはカミングアウトを望むピーターを〈夢でもみてるのか〉と怒りますが、まったく逆で、ピーターは「現実」を知った上で、これからのためにカミングアウトが必要であると確信していました。

そんなピーターを理解していたのはシスター・シャンテルです。

彼女は〈正義をおろそかにしちゃだめ!〉と歌います。キリスト教の福音でこそ同性愛は否定されていますが、いまは当たり前の「天賦人権論」はほかでもないキリスト教的発想の賜物です。神さまが与えてくれた人権という正義に基づく立場を明確にし、カミングアウトの欲求じたいをひたすら否定されてきたピーターに寄り添ってくれたシスターシャンテル。彼女は神さまによって与えられてるはずの黒人という属性を否定されてきたのだろうと思います。

愛する母親でさえ、ピーターの神さまから与えられた属性を(セクシュアリティ)をすんなり受け止めてはくれない。

でも、たしかに母子の愛情はあって、母親は決して自分を「切る」存在ではないと信じたい。

たとえゲイに対する理解はなくても、友達だし家族なのに変わりない。
それが自分たちを傷つけるものと同一であったとしても、愛も加害も紙一重で、人間どうしは生きていかなきゃいけない。

〈無言と 無音と 無情の 向こうは 心つなぐ 愛 そして 光 真実 響く 生の声〉とジェイソンを喪ったピーターが歌います。

終盤は、すごく残酷な筋書きにも見えます。けれども、あんなに怯えて自分を見失っていたジェイソンが、理性を喪ってやっと、〈偽りだらけの世界で見つけた本物〉であるピーターを素直に求められたこと。愛とかしあわせとか、そういうすべてを彼に託して、眠れたことは、うつくしい終わりだと、そう思いました。

6.BLとしての『bare』

大真面目なセクシャルマイノリティの話として『bare』を語って来ましたが、『bare』はBL作品としてもすごく楽しめるしセクシーだし、ドキドキすると思います。(すごくドキドキした)

なんでこんなことを書いたかっていうと、こういう話をしていると、同性愛作品をBLとして消費することに罪悪感を覚えたり、責められてるんじゃないかと感じる人もいるんじゃないかしらと思うからです。

細かいことはそろそろ書くのがしんどい感じなんですけど(徹夜でこれ書いてます)少なくともわたしにそれを責める意図はないです。

だけど、同性愛をBLだけで受け止めるのは、個人の自由だけど、ちょっと寂しいかなって思います。

セクシャルマイノリティに限らず、自分とはちがう視点で世界をみてるひともいて、 自分とはちがう、助けのいる、そういう人が、どんなふうに見えて、傷ついたり、絶望したり、自分を見失ったりするのか、『bare』にはたくさん、その手がかりが散らばってると思ったので、それぞれの感受性で受け止めても、すごく豊かな物語が得られるんじゃないかって、そういう意味で、味わう手がかりになってくれたら、もう、勢いでぜんぶぶちまけた甲斐もあるってやつ……。

7.登場人物それぞれと、俳優さんについて

■ジェイソン/鯨井 康介

登場した途端ぱっと視線を引く日本人離れしたフィジカルに、なんて華やかな役者さんだろうと打ちのめされる心地がしました。さすがジェイソン!そこにシビれるあこがれるゥ!されてる姿の、どんなにか似合うこと似合うこと……。お顔立ちは化粧映えする歌舞伎役者みたいだって思っていたんですけれど、はじめてこんなに間近で観て(TDCHの上階客席からしか拝見したことなかったのよ)、あのびっくりするほどスラッと長い手足と骨っぽい胴に小さな顔が乗ってるの。何頭身あるんですか。遠近歪むわ。

鯨井さんの伏せ目+流し目のコンボが最高にうつくしいと思うんですね。それで田村ピーターを背中から甘くホールドしちゃって、やんわりじっとりママとの電話を邪魔しちゃうの。キスで黙らせるのもお上手ですこと。なんだこれ洋ドラでも観てるみたい。いや洋モノだけど。えっちでした。

セクシーなのはもちろん、内面の部分、器用で人気者でコミュ力の高いと見せかけて、根っこは繊細で真面目な青少年が、ほんとうに板についてる。手嶋純太もね、そんな感じで演じてくださいましたね。加えてジェイソンには、揺らぐ気持ちのストレスから、男性的な傲慢さや横暴さを感じたんですけど、カミングアウトをあきらめないピーターに〈言えばいい!〉と声を高くしたり、妊娠のことを告げたいアイヴィを、しつこいと言わんばかりにうんざり振り払うの、いかにも「イラついてる男性」の怖い感じがあふれてて、いちいち客席でビクビクしてしまった。あ~……デキる男のこういう我の通し方すごく想像つく……。すごくわかる……。

ルーカスからデリバリーされたドラッグでトランスのうちに、いままでの見栄も、背伸びも、社会性も、ぜんぶなかったみたいに、ピーターに甘えて、愛しい気持ちでいっぱいになって、生涯をとじたジェイソン。あれだけ彼に対してイニシアチブを取りたがっていたのが嘘みたいに、ピーターに縋って、いまとなっては素気なくされて(だってほかでもないジェイソンがピーターにそういう態度を取りつづけていたのだから)、それでも、唯一の真実だった、彼への愛だけを残した、まるで純度の高いかたまりになって、世界が終わるの。

流れ落ちるみたいな終盤のそれを、痛みの蓄積を感じさせながら空気をじんわりやわらかくして、変化していくジェイソンに、照明じゃなくて舞台の色が変わったみたい。

そういえば、死後、真っ白い服を着てあらわれたジェイソンに、2012年版映画の『レ・ミゼラブル』のラストを思い出しました。今際のきわのジャン・ヴァルジャンのもとに、ずっと昔に亡くなった、アン・ハサウェイ演じるファンティーヌが、やっぱり白い服で迎えにくるの。鯨井さんがアン・ハサウェイになった…………って感じ入ったんですけど文章にするとよくわからない。

■ピーター/田村 良太

罪の意識を感じれば感じるほど「なんとかしなきゃ!!!!」っていうポジティブさがあふれてくる芯のつよい子。ジェイソンとは異なる意味で真面目で、夢想家で。きっと想像力が高くて空想に心をあずけられるタイプの少年だったから、現実の材料からじゃどう考えても絶望的な未来さえ、ふわっと羽ばたいて求めることができたのかもしれないなって思いました。

お顔立ちといい(鯨井さんと比べた)身体つきといい、歌声だって少年めいてかわいいんですけど、筋がピシッと通ってる印象が頼もしいくらい。ジェイソンが理性型だけど揺らぎやすい感情を抱えているなら、ピーターは直感型だけど向かうべき真理を本能ですっかり理解している感じ。家族や周囲を騙しながら生きている罪悪感と、それでも自分自身のこの魂が、なんら恥じるものではないと確信しているから、パワフルなマリアさまに熱く励まされる夢だって見ちゃう。それはおそらくジェイソンが自慢の恋人で、ピーター自身のぜんぶを賭けて「大好き」だって言えるようなひとだったから、「隠すなんてこんなおかしい話はない」と思う気持ちもあったのかもしれないね。

ところがどっこい、彼は先見の明があり過ぎたんだと思っています。カミングアウトにはいろんな動機があるけれど、当事者じゃない人にとって、カミングアウトはほとんど「自己PR」と理解されるんじゃないかしら。「わたしをわかって!」みたいな。でも、ピーターの場合は個人的なそれを越えて、「社会への還元」という使命感もあったと思います。どういうことかというと、自分自身が周囲に認知されるよう働きかけることが、ひいては社会のあらゆるひとや、同胞や、大切な恋人のためになるという信念。駆け落ちを提案するジェイソンに対して静かに〈隠してなんか生きていけない〉と言ったのも、自分が暗数となることがすなわち、社会的正義の不履行状態を先延ばしにすることに繋がると、なんとな~く理解していたのかもしれません。

とにかく賢さと迂闊さのハイブリッドみたいなたくましいピュアボーイだと考えたんですけど、めげずにカミングアウトを渇望できる姿に、だいぶ尊敬とか理想化したい気持ちを詰め込んでしまってるので、もう一度観たらまたべつの印象になるのかも……(しかし観れない)

■アイヴィ/ 増田 有華

皆本麻帆版アイヴィがぱっと見、ゆるふわセクシーな女の子なら、増田有華アイヴィはまあ~~~気位の高そうで気も強そうで男の子たちなんかみんなアッシーにしてるんだろうな!!!!くらいのツンと澄ますのがいかにも似合いそうなお嬢さんなのに中身えらいぴゅあっぴゅあやんけ。踊りに誘うマットにやんわり〈次の曲でね〉と断るやりとり、いくら想い人のジェイソンに心を傾けてウットリしていた最中とはいえ、ふつうにやわらかくて可愛くないですか。ビッチなんて周りに言われてるけど、女豹的なガッツキはいっさい感じられなくて、どちらかといえば自己承認欲求の結果として男が絶えないだけなんじゃ……と思っていたら、アイヴィはだれよりも「子ども」である自分を背伸びで隠してる、ただの歳相応の女の子でした。

少女漫画脳なのでてっきりマットとくっつくと思っていたんですよ。〈二番手〉の彼だけど、アイヴィを真実に愛しているのはマットだった!不毛に愛するより、健気に愛されるうちにエロスではないアガペーとしての愛情をマットに抱きはじめるアイヴィ……!まで妄想していたんですがマットがジェイソンとピーターのアウティングに走りやがったのでその空想はぜんぶおじゃんになりました。

でもナディアとのケンカ百合っぷるも同時進行していたのでなにも困ることはなかったです。ひどい男に恋しちゃって、ただの片想いに見合わない代償を払ってしまったアイヴィだから、もしもジェイソンの子どもを産むことに決めたのだったら、腐れ縁で親友のナディアとふたりでたくましく赤ちゃん育ててほしいなって思いました。そして、現れる不穏な陰――――アイヴィから子どもを奪おうと画策するのは、息子を喪い「代わり」を求めるジェイソンの父親だった!ナディアはアイヴィとその子どもを、愛するパパから護ることができるのか!?!?みたいな続編は脳内で妄想しとくね。

ところで、ジェイソンが避妊をしていなかったのは、ピーターとセーフセックスの習慣がなかったからかなあと思いました。あるいは、精神的に不安定だったからすっかり頭から抜けていたか、「アイヴィはビッチだからピル飲んでる」と偏見を抱いていたのか、まさか一回でそうなるとは思っていなかったのか。好きな人といい感じになったと信じてセックスしたらまさか避妊されてなくてリプロダクティブ・ライツ/ヘルスを犯された挙句に相手にその気がないとわかったアイヴィどれだけ可哀想だよ。つらいよ。やっぱりナディアとしあわせになるべき。

■ナディア/ 谷口 ゆうな

青少年である登場人物のなかでいちばん「悩みを過去においていくらか悟った段階にあるひと」。もちろん、ナディアだってコンプレックスの胸のチリチリから逃れられたわけではないんですけど、神さまがあたえた理不尽をまともに背負い込むステップは過ぎて、どうにかガス抜きできているような状態。谷口さんがこれまたパワフルですてきでいちいち笑わせにかかってくれるんですけど、これは笑わないとナディアに対して失礼だという気持ちと、笑ってしまうには根っこの重たさをヒシヒシ感じてしまって、いや結局笑っちゃうんですけど、「ギャグとして面白かったから」というよりも「彼女の存在が切なくて愛しいから」笑っちゃうような、とてもふくざつな気持ちにさせてくれました。

腐れ縁のアイヴィはナディアにとって愛すべき仮想敵だったと思うんです。自分が滑稽をウリにした女であるために、アイヴィはお高く止まっていけ好かない、それはそれはかわいいビッチであるべきだった。なのにアイヴィは女の不幸を背負い込んで、いつまでもナディアの仮想敵のままでいてくれない。

とはいえナディアは自慢の兄の古女房のようなポジションのおかげで、ささやかな心の安寧を得ていたと思うんです。だから、その兄すらもアイヴィに奪われたときは、さすがに傷ついてしまった。

それでもナディアはきっと、アイヴィの不幸な姿を見るくらいなら、自分が傷つくだけの未来のほうがよかったって、そう願うようなやさしい子だったと思います。だれよりも賢くてやさしいからあきらめだって早くって、自分の悩みだってたくさんあるのに、ちゃんと笑って友達や兄を抱きしめてあげられる子。

■シスター・シャンテル/ 入絵 加奈子

子供の頃に観ていた大好きなアニメ『ビックリマン2000』に声優として出演されていたのが入絵加奈子さんなんですね。個人的にはそんな感じで、入絵加奈子さんの生演技を観れたのがほんとうに感激でした。『bare』は鯨井さんが出ているからチェックしていたけど、よし観たい!!!!とまで気持ちを持ってこれたのは、入絵さんがご出演されていたから。そしてじっさいに、歌って踊っておどけて演じている入絵さんを目の前にして、そのパワフルさと「観客を楽しませてくれる」圧倒的なかんぺきさに、女神さまはここにいたんだって心震えるくらい。女神さまというかマリアさまだね。

シスター・シャンテルもマリアさまもピーターを導き鼓舞する存在です。現実の演劇指導においてはピーターを認め、幻想の夢のなかにおいてはピーターの迷いを晴らしてくれます。脚本のトリックとしては、まず「なぜかシスターに似てるマリアさまが夢に出てくる」ところからはじまり、その不思議はそのままに物語は進行して、「現実のシスターもまたピーターの味方である」と明かされて、ハイコンテクストにおいて夢と現実がリンクするきれいなオチ。これだけじゃなくて『bare』の脚本のなかには対人関係ごとにそれぞれ物語が用意されていて、それらが平行して進んでいくような印象を受けました。構成としてきれい。

すでに書きましたが、シスターが〈すべては神にとって必要なもの〉と説き、それが〈おろそかにしてはいけない正義〉と語るのは、既存の言葉を使うと「天賦人権論」にあたります。ひとがひととして受容されなくてはいけない「人権」の根拠は、なにかの役に立つからでも、なにかしらに優れているからでもなく、ただ「それが神に与えられた命」であるからです。

いまいち浮世離れしているみたいな論拠ですが、損得勘定や偏愛を伴わない、純粋な博愛とか、ひたすらにきれいなものは、決して人間の理屈ではつくれないものなのかもしれません。でも人間にはきれいなものが必要だし、それがなければ生きていけないから、キリスト教の信仰がなくたって、まるで現実には存在し得ないイデアを、大真面目な顔で、渇仰してもいいんじゃないかしらと思います。

 

8.『bare』には関係のない補足

※同性愛の話題になると定期的に「レズはメンヘラばっかり」「レズにこんな目に遭わされた」というツイートを見かけますがほんとうに御愁傷様です。彼女、ジェイソンみたいに自分を見失ってたのかもしれないよ。ぶっちゃけ正直わたしにも身に覚えがある。

※こうしてネットには書いてますけど、わたしがバイセクシュアルであることは家族にはぜったい言えないです。正確にいえば、十代の頃、母親になんとな~く「わたし女の子が好きかも…」と言ったら(当時はほぼほぼ付き合ってる女の子がいました)「思春期の気の迷いだよ^^」とバッサリ切られてしまったので、それ以降はお口チャックです。思えばたったささいな一言ですが、人生において決して口にしてはいけないことを思い知ったような気分だったし、こんなにネットで騒いでるいまでさえ、同性愛を自らの心体に関わるものとして、家族に発信する勇気はないです。たとえ打ち明けて否定されなかったとしても、その理解はきっと偏見を帯びたものであるだろうし、そんなことを考えると、とてもピーターのように「理解」を求めていく気力はない。活動家を揶揄する当事者、とても多いけれど、フリーライダーでいるからには先陣を切ってくれる人たちをバカにしちゃいけないよ。ピンクウォッシュについての批判はともかくね。

※カミングアウトされたらどうすればいいのって話があると思うんですけど、人それぞれとしか言いようがないなかで、踏まえておきたいのは「必ずしも自己PRが動機ではないよ」ということかしら……。「なにアピールなの???」とか思ってしまったら、それはもうフィルターがガッツリかかってる状態じゃないかと思うので、色眼鏡を外して目の前のひとの真意を汲んであげてください。やけっぱちとかその場のノリとか酒のいきおいで口に出しちゃうひともいると思うから。(ちなみにわたしが冒頭でカミングアウトしたのはこの記事を書くために必要だった、それ以上でもそれ以下でもないですからね)

※それからカミングアウトまで至るようなだいたいの人は「セクシャルマイノリティであること自体を悩んでるわけではない」どころか、自分なりの自認を持って生きてると思います。だから、一方的にカミングアウトしといて、わがままかもしれないけど、あんまりセクシャルマイノリティに対する自分の考察というか価値判断は挟まないで、等身大で受け答えをすればいいんじゃないかしらと思います。あらゆる自己開示を受けるときにも共通してるけど、人間それぞれの事情で生きてるのに対して、生半可に評論家ぶるのがね、いちばん相手を傷つけるから。とにかくうなずいて、聞き役に徹すればいい話。センシティブな打ち明け話はみんなそういうもんじゃないかしら。