蜂蜜博物誌

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映画『チョコレートドーナツ』(2012年)_感想

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1909年に第1回「要保護児童に関するホワイトハウス会議」を開催したアメリカは「緊急やむを得ない限り児童を家庭生活から引き離してはならない」方針を定めた。これは「子どもの権利」がまだ社会的に認知されておらず、大人と同様に働かせてしまえるような社会において為された、子どもの権利擁護においてはじめての法的効力を伴う宣言だった。以降、アメリカは「児童を家庭から引き離さずに養育する」ことを子どもの権利と認め、社会的養護においても家庭的な場の提供に努めることになる。それが里親による子どもの養育である。

社会的養護とは
社会的養護とは、保護者のない児童や、保護者に監護させることが適当でない児童を、公的責任で社会的に養育し、保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援を行うことです。
社会的養護は、「子どもの最善の利益のために」と「社会全体で子どもを育む」を理念として行われています。

社会的養護 |厚生労働省

一方、日本では2011年「里親委託ガイドライン」を施行するなどの取り組みを行っているものの、4万人から5万人近くいる社会的養護を必要とする子どもたちのうち大半は大舎型の施設で暮らしている。もちろん専門職によるケアを受けられるなど施設養護のメリットもさまざまだが、それを考慮してもなおパーマネンシー(子どもの育つ環境の安定性と永住性)には欠ける事実がある。肉親という社会的に想定された保護者の手を離れた子どもたちの、養護施設を卒業したあとの人生に後ろ盾は少ない。自らの幸福のために子ども自信ができることは少なく、彼らが社会的弱者であることは言うまでもない。

映画『チョコレートドーナツ』はそんな子どもの養育環境を巡る大人たちの奮闘、あるいは攻防であり、「理不尽な偏見が彼らを引き離した」物語だが、悲劇的な結末についてはゲイへの偏見ばかりが原因とも言い難い。マルコの結末は「子どもの最善の利益」を理解していない判事たちが引き起こした重大事故のようにもみえるからだ。たとえゲイへの偏見があったとしてもマルコの意思を尊重する判断はできたはずし、養育に適さない実母のもとへ帰すことなどなかったはずだ。現に、マルコの担任教師や、聞き取り調査を担当したソーシャルワーカーにとって、最善策は自明の理だった。それは実母のもとに帰すことでも、心ない里親のあいだをたらいまわしにすることでも、彼に向き合わない施設の生活でもない。継続的かつ個人的な関係を得ることのできる、ルディたちの家庭に他ならない。おそらく判事たちは、知的な発達の遅れのあるマルコの意思を想定していなかった。はじめから「判断能力を欠く」と決めつけて、自分たちの価値観をもって彼を振り回したのだろうと思う。

偏見は絵空事から生まれるのではなく、その人の経験、あるいはそこから生まれる推測によってもたらされる。現代からすれば「ゲイカップルは子どもの養育に悪影響」などあまりに古典的でまじめに取り合うのもくだらないかもしれない。しかし、偏見というのは当人たちにとってはどこまでも「事実」に過ぎない。それを語るべき正当性や切実な想いが自分たちにはあるとたしかに信じている。判事たちは「子どもの権利」のためと信じて「監護権における正当な手続きを踏まなかった」「聞き分けのない」ルディたちをいかにマルコから引き離すか必死だったのだろう。当事者がどうしたいのか、どのような想いで暮らしているのか、そうした視点もなく、ただ教条的な「正論」を振りかざして、実態とかけ離れた言葉を振りかざす。あらゆる差別や偏見の共通項だ。

目を曇らせた相手にはどんな誠実な語りかけすらも通じない。そうして抗う言葉すら奪われたマイノリティはきっと歌うことしかできない。プリミティブに情動に訴えかけるものだけが相手に伝わることもある。自分たちの真実をみろ、と。ただあたり前の日々を生きている同じ人間なのだ、と。

 

参考文献

子ども家庭福祉[第2版] (新・基礎からの社会福祉)

児童や家庭に対する支援と児童・家庭福祉制度 (社会福祉士シリーズ)