蜂蜜博物誌

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舞台『舞台版「魔法少女(?)マジカルジャシリカ」☆第壱磁マジカル大戦☆』(2019年)_感想

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周囲が初演で続々とドハマリしているのに影響されてシリーズ第二弾にあたる本作にはじめて足を運んだのですが、前作を観ればピタリとハマるだろうピースの数々を感じつつも初見でもじゅうぶん楽しめる内容でかなり満足度の高い作品でした。ただ単に初見の不利益が少ないだけではなく、キービジュアル以外なんの予備知識もなく触れたことでラストの驚きもいっそう大きかったのは初参戦の特権であると感じて嬉しかった。強いて言えば中途半端にビジュアルの知識があったことでマジカルリエコとマジカルジャシリカの区別がつかず、時系列に混乱を来したりはあったのですが、四月の再演を観れば解決することなんだから問題なんてなかったね。ぜったい行きます。

主人公であるちえみの演劇の愉悦を引き出すような長台詞や独白の妙だったり。お祭りのような群像劇の豪勢だったり。魔法の概念にコストを見出すことでファンタジーをよりシビアにした『鋼の錬金術師』およびそれを様式美として決定的なものにした『魔法少女まどか☆マギカ』以降のサブカルチャーにおける共同幻想をフル活用した(端緒になったものはこれ以前にもあるかもしれないけど浅学なので割愛)いわゆるオタクならみんな好きでしょ?的宝箱な本作の魅力だったり。これらについてはほかの人がいっぱい語ってると思うのでここでは触れません。あとキャラ萌え語りも。だってキリねえじゃん、みんな可愛いんだからさ。

『第壱磁マジカル大戦』ではシリーズ第一作に引き続き「魔法少女」の半数は生得的男性によって構成されています。その理由について本作では明確な答えを提供されてはいないけれども、「We are not boys !!」と歌い、過剰なほどのジェンダー記号に依拠した女言葉を話す異性装(トランス・ヴェスタイト)の彼らはトランスジェンダリズムの化身のようでありながら、女性であるパートナーの疑似的伴侶として男性の輪郭さえ際立ちます。伝説の魔法少女であるマジカルシリンダーから魔法少女になるための「糸」を渡されるのは必ず男性です。彼らが信頼し、ときに愛する女性に「糸」を渡すことで、彼女たちはパートナーと共に「魔法少女」へと転身します。それは疑似的なエンゲージ・リングの贈与のようでありながら、元男性の魔法少女のほとんどは彼女たちの補助的な立場であることを自認しており、ときに健気に尽くします。異性装だけ取り上げれば声を大にして「クィア作品」を定義することもできるでしょうが、ある面ではクィアであり、ある面では異性愛主義的であり、ある面では実態的なジェンダーの攪乱が為され、一方で極端に男女二元論的でもある。『第壱磁マジカル大戦』はけっしてリベラルな価値観を土台にしていないにも関わらず物語の重大な骨子としてクィアを導入する、日本のオタクカルチャーにおける愛されポイントを熟知した構造であったように思えます。

社会学者である三橋順子ジェンダーにおける男性性・女性性双方を兼ね備える対象に感じる魅力を「双性原理」と呼び、日本神話から稚児・白拍子・歌舞伎役者、戦後のニューハーフへの人々のまなざしを通して「性別越境好きの日本人」を論じました。

(前略)むしろ、異性装の要素を持つことが日本の芸能の「常態」なのではないかと思えてきます。性別越境の要素をもつ芸能・演劇を好み、逆に性別越境や異性装の要素が皆無な芸能・演劇に物足りなさを感じる私たち日本人の感性の原点は、異性装を「常態」とする中世芸能にあるのではないでしょうか。

女装と日本人 (講談社現代新書)

女装と日本人 (講談社現代新書)

歌舞伎や陰間茶屋など、近世まで性別越境ビジネスの顧客は男女双方だったのが一転して、現代における女装者に好意を向ける大半が女性だという本書の論は実感として頷けます。女のほとんどは男の女装が大好きです。その証拠として私がホイホイジャシステに釣られたんだから間違いありません。だからこそ、男性客が多くを占める演目で、こうした異性装の作品が(魔法少女である彼らが過剰にキワモノ扱いされることなく)上演されたことは、ホモソーシャルに毒される以前の近世的な価値観が蘇ったようで嬉しい気持ちにさせられます。

冒頭で打ち明けたように本作が初見の私にとってちえみが10代目黒幕の女として覚醒することは予想外の展開でした。なんなら「ちえみは私だ」と感じる台詞、推しを持つオタクなら(自分と重ねるかどうかはともかく)「言ってることはわかる」と頷く場面も多かったのではないかしら。一方で、彼女の一見すると個人崇拝のように見える愛が強烈な娯楽性を伴う性質のもの―――消費者として対象に関わるがゆえに双方向的なコミュニケーションを得ることのない、そのぶん感情をエスカレートさせやすい―――であることを理解できなかった唯一の人物が、彼女の崇拝対象である山寺裕大でした。

いちファンであるちえみを若手俳優である裕大は「認知」しています。その上で彼はちえみに個人的な感情を抱くに至り、優しさに満ちた愛で彼女を守ろうとするのですが、自分を熱心に応援するちえみにかけがえのない気持ちをおぼえる裕大と、彼を偶像崇拝の対象として娯楽的な好意を向けるちえみには序盤から言い様のない乖離がありました。裕大はちえみを有象無象のファンではなく一人の人間として認識し、大切に感じていたのですが、ちえみにとっての裕大はコミュニケーションにより関係性を培うべき相手ではなくあくまで幻想の偶像でした。ショービジネスに生きる存在を応援するオタクの姿勢としては大正解なのですが、この「推しを愛する」ミニマムでエモーショナルな娯楽が人生のすべてになっていた彼女の前に、「世界の存亡」や「ひとりの人間である推し」が現れたとき、幸せな「底なしの沼」は負の感情へと一変します。

登場人物の、おそらく全員が持っていた世界や社会へのまなざしに、ちえみはたったひとり無縁の存在でした。さまざまな魔法少女が、その正義や妥当性はさておき、他者や社会の存在を意識した動機で戦っていたにも拘わらず、ちえみにはそれがありません。「男女差別なんて感じたことがないから男女差別と騒ぐ女のせいで推しが悲しむならキックボードでうんぬんかんぬん」と語る彼女の姿はとても象徴的です。社会への関心は乏しいくせに威勢のいいことを言いたがる「あっよくいるわ」と思わせるふつうの女の子。「うーん、どこから説明したらいいのかな……」って大人にあたまを抱えられてしまうタイプの、大人になれない女の子。

とはいえ、それは社会にコミットメントする、あるいは批判を伴う手続きをどこか過度に「政治的で、意識が高い」と感じがちな日本人にとって常態でしかない態度なのですが、そんな「普通の女の子」だったちえみが闇に導かれてしまった要因は、ミニマムな幸福の中で葛藤を知らずに過ごしていたからこそ、突如訪れた「嵐」に耐えられなかったのではないかと思えてなりません。世界の存亡なんて自分の快不快を基準に生きてきた女の子にはあまりに荷が勝つし、祐大の、苦痛というかたちで露出した人間性に動揺したちえみは殺害というかたちで彼を再び受け身の偶像に仕立てます。ちえみは「普通の女の子」として生きて、「普通の女の子」のまま、さもあたり前かのように闇に誘われたように見えました。

ちなみにサラリーマン・タケダテツオの古めかしいジェンダーステレオタイプを自明とするナレーションから、ちえみの「男女差別なんて知らねえ(大意)」発言まで、言うまでもなく性的偏見や認識の誤謬にあふれていますが、これをまるで世界の真理かのように信じているひとも多いのは事実です。なので、「We are not boys!!」に繋がる伏線とはいえ、なんのエクスキュースもなかったので「なんかいきなりアンチフェミの講演みたいになったな?」とせっかく浸っていた気持ちがスッと現実に引き戻されてしまって、再び物語に没頭するまでいささか時間を要したのは私の側の問題かもしれません。それでも、彼らである魔法少女とそのパートナーの関係性は、古めかしいジェンダーロールに収まらない多様性に富んだものであるのですから、いきなり「男は家事をしない生き物で」みたいな話をされても何が何やら。タケダテツオの家庭内事情だったら納得する。

彼ら魔法少女は、異性装をしながら男性性の輪郭も鮮明であるとすでに述べました。しかし同時に彼らは完全に「女性」です。「Boy Meets Girl?? No!! Girl and Girl!!」の歌詞をあらためて読んだとき、「百合は感じなかったなあ。あれは男女カプだ」というのが正直な感想であり、彼らのパートナーとの絆は異性愛的なロマンにあふれていたと思うのですが、別の階層として「Girl and Girl」でなくてはならない意味はきちんと存在した。彼らが女性として魔法少女になることで、まさしくタケダテツオの語るような古めかしいジェンダーロールを攪乱していたんです。

初登場してからしばらく、彼ら魔法少女に個別性のある人格はうかがえません。男性の身体的特徴を隠さない彼らは、不自然なほどの女言葉を繰り出し、女性ジェンダー・イメージを過剰に演出することで、「心が女になった」(より厳密には、ジェンダーアイデンティティを女性に変化させた)ことを観客に知らしめます。それは「女言葉という記号を使わなければ人物を女と表現できない一昔前の小説」のように彼ら魔法少女の人格を画一的に隠ぺいしていました。(※序盤からヘテロ男性的欲求がポロリしていたカンカンカーン除く)

一回だけの観劇だったのでそういう台詞があったのかは覚えていないのですが、彼ら魔法少女は身体的な意味で「性転換」したわけではありません。ジェンダーアイデンティティが女性だからこそ、彼らは紛れもない「彼女たち」なのです。たとえば現実のトランスジェンダーも世間的に「心が女/男」と表現されることがあります。性別違和を抱くタイプのトランスジェンダーは、ジェンダーアイデンティティと出生時に割り当てられた性別の不一致から生じるものというのが教科書的な理解です。(トランスに対する無理解には近代の産物である男女二元論への盲信が関わっているのですが割愛します。)少なくとも、メタ的には男性の身体性を有しながら女性の性自認を持つ魔法少女たちは、トランス女性が女性であるのと同様に、まぎれもない女性なのです。

「女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない」という主張に、フェミニストやトランスはどう抵抗してきたか - wezzy|ウェジー

そして、そんなnot boys!!な魔法少女たちも中盤に差し掛かるにつれて、いち個人としての人格が見えてきます。このとき魔法少女たちは女性ジェンダー記号を脱ぎ捨て、男性としての側面を垣間見せます。その中にはアクセスのように「暴力」という男性ジェンダーに結び付けられがちな要素を開陳してしまった人物もいます。カンカンカーンのように異性への性的関心であたまがいっぱいな人もいます。もちろん男性たちの人格や想いはさまざまで、どれもかけがえのない個別性をもっていますが、「自分は男である」という意識を捨てなければパートナーへの健気な気持ちを表現できなかった男の子も中にはいたかもしれません。「男はこういうもの、女はこういうもの」という自縄自縛のジェンダーに縛られた人々―――それはきっと、登場人物ではなく観客である私たちも同様に―――にとって、同性同士でなければ紡げない関係も現実にはあるでしょうし、受け手にとってさえ直截的に男女の絆を描くことでべったりとしたいやらしさを感じてしまう可能性もあったかもしれません。残念ながら、世の中は、作り手も受け手も性的偏見表現の記号性に頼って芸術を創造/受容していますから。

長くなりましたが、どこまで意図的かはわかりかねるもののジェンダーの攪乱を効果的に使った作品でとても面白く観ることができました。ひとつ付け加えれば、カンカンカーンの「トランスを経験したことで次は同性にも恋できるかも(大意)」はバイセクシャル的にはちょっと不思議な発言だったのですが、自分を異性愛者と信じてる彼にとって魔法少女になったことはあらたな可能性の発見でもあったのかも? なーんて、せっかく明るいラストの予感にさわやかな気持ちになってたのに、おい、ちえみ、おまえ、おい、しんどい、愛しい。