蜂蜜博物誌

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舞台『となりのホールスター』(2019年)_感想

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トリプルコラボ公演 第6弾 舞台《となりのホールスター》 | 合同会社シザーブリッツ・公式BLOG

演劇集団イヌッコロさんとのコラボ企画を初めて見たのは9月公演の『スペーストラベロイド』でした。ごまかしや勘違いによってもたらされる誤解の連鎖。「嘘」を守るために右往左往する主人公。追い詰められて凶行に及ぶメインキャラクター(未遂)。いくつか重なる部分もありながら、『となりのホールスター』はワンシチュエーションコメディを打ち出した前者より、じっくりと羽仁修さんのテクニカルなコメディを堪能できたように思えます。言葉は悪いのですが、スペトラでは「笑い」に対して欲をかいたように見えて、せっかくの優れた勘違いコメディを味わうには雑味が多かった印象でした。一方で本作は比較的抑えが効いていたのでとても見易かったです。パンフレットのスタッフ座談会で、羽仁さんはとなスタを「笑いのシステムが細かすぎちゃうから、分かりづらいんですよね」と語っていましたが、だからこそ観客への信頼を感じて心地よく感じる部分も大きかったかもしれません。もちろん、それも演出家さんや俳優さんたちのテンポよく仕上げる努力あってのものだと思います。

初日Aキャストを見た直後(公式ではキャスト違いを☆/★で表現していましたが、わかりづらいので便宜的にA/Bとして後述します)「何も考えずに楽しめる、なんていい作品なんだろう!」とか「古谷大和がやばい」とか「某舞台で古谷大和のブロマイドが完売したあの伝説の意味を理解した」とか「古谷大和………」とか、だいたいそんな感じの脳天気な感想で頭がいっぱいだったのですが、翌日Bキャストを観劇してそのあまりの違いに打ちのめされる想いがしました。演劇の面白さを丸裸にして突きつけられたような、そんな衝撃。

   ※

好きな漫画の2.5次元舞台から観劇の習慣ができた自分にとって、演劇の文化であるWキャストはいまいち腑に落ちない存在でした。過去には「Wキャストってなんのためにあるの?俳優さんが休憩するため?」なんて、今から思えば変な質問を友達に投げかけていたのをよく覚えています。(もちろんそういった理由での起用もあるでしょうが) 舞台の味わいのためだったり、俳優の休憩のためだったり、集客に繋げるためだったり、新人のチャンスの場だったり、起用俳優の仕事の事情だったり、さまざまな理由からWキャストによる公演が行われますが、観客いち個人としては正直なところ面白さと戸惑いが同居するシステムです。

何故なら「比べてしまう」から。メインキャラクターであれサブキャラクターであれ、よっぽどでない限りWキャスト双方それぞれの面白さや魅力があるに決まっています。それでも半強制的に比べることを強いられるんです。受け手としての感性があり、好みがある以上、「○○はAのほうがよかったな」とか「○○はBのほうがよかった」とか。ふたつを観劇すれば比較しないでいるほうが難しい。シンプルに「一粒で二度おいしい」と思えるほど気持ちが前向きであればよかったんだけど、どちらにも魅力を感じてなお、そんな心持ちにさせられるのは胸が苦しい。同じ「比べる」行為を伴うものでも、縦軸のキャスト変更と横軸のWキャストでは心構えがぜんぜん違う。自分にとってWキャストシステムは感情の持って行きどころがわからない存在です。

それでも『となりのホールスター』は個人的にとてもおめでたいWキャストでした。特に大見拓土さんに対しては、2.5次元舞台のDVDや事務所イベントの即興劇(劇…?)のお芝居は見たことあるけれど、生の舞台を拝見するのは初めての体験になるので、本当にもうワクワク。きっとふたりの猿渡はお互いを食い合う勢いでやってくれるはず、とか。でもそうしたら私はあの可愛いふたりを比べちゃうのかな、とか。キャストへの期待と、自分自身への不安を行ったり来たりしながら。

話題を戻します。A公演とB公演、あまりの違いに打ちのめされました。
ふ、古谷大和~~~~~~!!!!!(敬称略)

事前に仄めかされていた情報で彼がほうぼうから「セルフWキャスト」と呼ばれていたのに初日まで首を傾げていました。初観劇後購入したパンフレットを読んで、「ああ、八島猿渡と大見猿渡でキャラが違うから、古谷さんもキャラを変える試みをしているのね? なるほど」といちおうは理解したものの、今から思えば軽く考えていたことは否めません。B公演初日、古谷さん演じる馬場の登場シーン。

えっ 昨日と別人がでてきたんだけど。酔っぱら……え~~~~~~~?????

   ※

もちろん八島猿渡と大見猿渡も別人です。お兄さんたちにどつかれて、かまってもらうのが似合うようなお調子者の八島猿渡と、最年少なんだけれど参謀的な趣のある、どこか潔癖ふうの大見猿渡。同じセリフなのにまったく別々のパーソナリティが見えてくるのが本当に不思議で面白い。パンフレットの「Q.ご自身の役と似ているところ」、ふたりとも人物像に対する着眼点が180度違う。たとえWキャストでも演じ方や技量の違いだけの、目立った差異のない登場人物も世の中には数いる中で、ここまで性格の異なる仕上がりもなかなか珍しいんじゃないかしら。

そんな猿渡が毛嫌いしているのが、古谷さん演じる馬場。八島猿渡のいるA公演では「ニーチェを読むお高く止まった嫌味な男」、大見猿渡のいるB公演では「いつでも酔っ払ってるへらへらしたいい加減な男」として立ち現れました。ふたりの猿渡と同じように、同じセリフを言いながら真逆のパーソナリティを演じる、ただそれだけでもおもしろいのですが、この馬場は、まるでそれぞれの猿渡のためだけに存在しているかのように思えました。だって、違和感なく「八島猿渡が嫌いな馬場」と「大見猿渡が嫌いな馬場」として成立しているんです。

八島猿渡がヘラヘラ酔っ払っている馬場をあんなに毛嫌いするかしら? どちらかというとわりと面倒を見てしまう気がする。大見猿渡がニーチェを読む馬場を毛嫌いするかしら? むしろお互い感じ入るところがある気がする。

たとえ馬場Aと馬場Bが入れ替わっていても物語として違和感なく受け止めてしまえるとは思うけれど、自分にとってこれは説得力のある組み合わせのように見えました。キャラクターのバランスを整えるために「明るい八島猿渡にクールな馬場」と「冷静な大見猿渡にヘラヘラうるさい馬場」にしたのだ、と言われてしまえばそれまでなんですが、猿渡が馬場を嫌いな理由のほとんどを占めると思われる一種の生理的嫌悪感の根拠として、馬場のキャラクターの違いが存在すると捉えたほうがよっぽど楽しい。「自分主義だ!」と責め立てながら、結局猿渡が馬場を嫌いな理由って、倫理観とか正義感じゃなくて、「なんかこいつヤダ」っていう子どもっぽい(誰にでもある)わがままだと思うから。大好きな行きつけのカフェレストランなのに、チラチラ見かけるオーナーの息子はどうも生理的に気に食わなくて、小さなときからずっとずっと「なんかこいつヤダ」って思い続けて、でも大好きな犬飼さんたちが構うから我慢して、なんかやだな~なんかやだな~って思い続けて、とうとう爆発しちゃったんだね、猿渡くん。でも馬場さんはずっと察してたと思うよ。以上、妄想でした。

この組み合わせが功を奏して、演劇の文化である「Wキャスト」がメタ的な認識を超えた「パワレルワールド」として成立したんだと思います。彼らにとって重要な人物を演じるキャストがキャラクターを激変させたからこそ生まれた効果じゃないかしら。例えば馬場もセルフじゃないWキャストで、ふたりの猿渡並に性格を変えてきたら、それでもパラレルとして成立したと思うけれど、やっぱり演者ひとりによる試みには及ばない。なんていうか、エモさが段違い。古谷大和がエモい。

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ふたりの猿渡の印象。

八島猿渡はたとえるなら年長者をアニキアニキと慕うマイルドヤンキーの舎弟のようなお調子者。犬飼さんたちへの大好きを隠せなくて、人懐っこくて、杏奈さんを犬飼のカノジョに仕立てたのはおバカゆえの善意だし、ドラゴンを焚き付けたのは票を獲得するためのもあるけれど、気持ちとしてはきっと甘えるみたいなイタズラ心。今回の票獲得戦もお遊び感覚であまり真剣には考えてなさそう、というか「みんなレストラン続ける方向選んでくれるよね~」くらい楽観視してそう。そしてお高く止まってる馬場が嫌い。だって犬飼たちとワイワイしてるところに水をさしてくるから。「邪魔すんなお前なんか嫌いだ」っていつも思ってる(言わないけど)

大見猿渡はアホな年長者たちが愛しい参謀的な弟分。真面目で潔癖だけど、その真面目さを例えるなら「万引きするなら完璧に」。杏奈さんを犬飼のカノジョに仕立てたのは歪んだ善意。ドラゴンを焚き付けたのは票を獲得するための頭脳戦。票獲得戦に対してはマジ。そしてヘラヘラしてるだけの甘えた馬場が嫌い。犬飼たちとの和を乱すとか許せない。「中途半端なことするならはじめからいなけりゃいいのに」っていつも思ってる(言わないけど)

猿渡が子ども時代を語るシーン。八島猿渡はエモーショナルに訴えかけるお芝居であれを泣きどころに仕上げた一方で、大見猿渡はぎゅっと濃縮された緊張感で馬場への糾弾に繋げていた。あそこ、ふたりのお芝居の方向性がはっきり分かれて面白いと思いました。私は馬場Aを嫌いになる気持ちのわからない人間なので、共感性を引き出すような八島猿渡のお芝居を見たときは「なにもそこまで言わなくても~どうしたんだいいきなり~~(つられ泣きしながら)」って感じだったんですよね。ところが八つ当たりのような大見猿渡の馬場への糾弾を見て「あっ猿渡はとにかく馬場が気に食わないんだ」とやっと腑に落ちたんです。今まで正論を言ってるように見えた大見猿渡が、いきなり難癖のように馬場を責めはじめたので余計にわかりやすかったのかもしれません。「いつだって自分主義だ」と馬場を責めながら、大見猿渡には無意識に屁理屈を捏ねている感じがあって。対して八島猿渡はそもそも仲間に対する情愛がヤンキーめいてるからあれはきっと心の底からそうと信じている言葉だった。同じセリフ、同じ脚本でも、演者と受け手の交感性によって、受け取ることのできる情報には振れ幅があるのだと感じた瞬間でした。だから、猿渡→馬場の感情のわかりやすさも、私とは真逆の感想をもつ観客だって当然いたと思います。

前置きでいろいろ書きましたが、結局、私はふたりを比べています。でも、不思議と今までのようなモヤモヤはありません。やっと観客としてWキャストのシステムの醍醐味を理解できたと思うからです。それを贔屓にしてるふたりのWキャストをきっかけに気づけたのはうれしいなと。ほんのちょっとの罪悪感より、その喜びのほうが勝っています。

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「Wキャストでありながらそれを超えた別人」「Wキャストを支えるように世界観をガラリと変えたセルフWキャスト」 この二点の試みからわかったのは、「脚本だけじゃ芝居は成立しない」当たり前の事実でした。

演劇鑑賞初心者である私にとっていちばん感想を言語化しやすい対象が脚本です。複合的な空間芸術である舞台のなかで、演技や演出や美術は言語化するのに訓練の必要なものだと感じています。それとも、そう思うのは自分が文芸に馴染みが深いからかしら? そのため、今までのブログもシナリオに言及するものがほとんどでした。

でも、今から思うと、あれらは本当に「脚本」からもたらされた感想だったんだろうか? できることなら、もう少し感性を研ぎ澄ませたい。そう思いました。

 

 

 

 

大河さんにコテンパンにされる馬場さん、AとBで反撃できる回数すら違うのめちゃんこカワイイ。すごい。エモい。お読みいただきありがとうございました。