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舞台『みんなのうた』(2019年)_感想

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2014年に第26回池袋演劇祭に出品されたIKKAN氏脚本演出の再演である本作はテンポよく飽きさせないサービス精神に溢れる戯曲だったが、安堵と爽快感を覚える結末に至るための道程は、狙いこそ察せられるものの伏線とおぼしき要素要素がちぐはぐだった。「みんな」から愛されていたはずの主人公の人柄を語らず、能力ばかりを強調し、わかりやすい悪人や下層社会の描写はときに成立させるための無理が目立つ。男女関係にまつわるシーンの山場は告白・セックス・プロポーズ、そして妊娠。記号性の目立つ恋愛描写は主題に不可欠であるはずの絆の在り方がほとんど描かれない。肌に合わない以上に「これをできる人がどうしてここには無頓着なんだろう」ともどかしさに苛まれてしまう脚本だった。次から次へと場面が切り替わり二転三転する演出は観客を退屈させないことには優れているし、薄暗いテーマに軽妙さを与える戯画化された端役たちのお祭りは楽しかった。とりわけフィクショナルな端役たちを巡る「わかりやすさ」は世界観の妙として魅力のあるものだったと確信している。一方で、複雑な現実が横たわっている問題をワイドショー的な理解のまま物語に引用する「わかりやすさ」に関しては、倫理観にまつわる議論以前にステレオタイプへの依存と無知がダサい。例えば劇中、痴漢冤罪のときには息子を庇いきれなかった父親が殺人容疑になってようやく「そんなことするような子じゃないんですよ」と涙ながらに口にする場面があった。信じることや愛の在り方を巡る対称性を狙った意図は理解できるけれども、その象徴性ひとつのために「痴漢冤罪」を扱うにしては、提示された文脈・表現は巷の偏見と何も変わらず、せっかく虚構の土俵に乗せながらクリエイティビティのかけらも見当たらない。

「転落」を描きながらトラブルのほとんどは主人公を貶めきれず、物語終盤の詐欺被害と「殺人」をもってはじめて彼は全てを失う。「順風満帆だった男の人生が徐々に狂い始める物語」ではなく「プライドを満たせない状況を受容できなかった結果詐欺に引っかかる男の物語」として受け止められた。(もちろん現実の詐欺において被害者に落ち度はない) であれば大井川一郎という人間の在り方を台風の目として君臨させてもおかしくはないが、主人公の自分自身に対する評価が不明瞭なまま状況だけが様変わりしていく。取り巻く環境は「極端に悪意がある」か「不自然に悪意がない」かのどちらかで「主人公を悲劇のヒーローに仕立てたいけどフルボッコはかわいそう」とでも言いたげな煮え切らなさが常に横たわる。手ぬるい処遇が却って大井川一郎のキャラクターのうまみを追求し損ねている。『みんなのうた』は目に見える違和感と共に、たくさん生み出されていたはずのおいしい材料がいずれも調理されないまま終わっていたように思えた。

いかんせん台詞での「説明」が多い。時の流れの目まぐるしさのために独白を挟む演出は好きだった。それでも一郎が何を目指して何を忌避していたのかはわからない。劇中、嫌味な後輩・後白河が最難関である理Ⅲに合格したことに劣等感を覚える描写があった。ところが終盤になって一郎は幼くして母親と死に別れ、いっときでも医者になりたいと願ったことが明らかになる。ならば理Ⅲこそ他でもない医学部への登竜門であるはずが、彼がそれに挑戦した形跡は伺えない。むしろ一郎は慢心とも取れるほど早くに勉強を切り上げていた。「新東大であれば学科はどこでもいい」認識だったのだろうか? 教授を父親に持つセリナの影響だろうか? 勉強のペースを落としたタイミングから考えるとその線はないだろう。いずれにせよ進路選択は人生を描くために注視すべき要素であるにも関わらず、大学名だの学科の難易度だの、本質には程遠いステータスの話ばかりで彼の青写真は不明瞭だった。新東大ブランドを気にするわりには学科ブランドに無頓着だったのも解せない。ようするに彼は「何がしたいかわからないけど新東大でなきゃダメ」と強迫的に思い込んでいたのだったが、それを示す鍵は影によって表現されたどこに住んでいるかもわからない親戚の群れだった。身内としての肉体を持たないがゆえに一郎にしか見えない幻のような彼らとの交流の程はわからない。親戚ではなく有象無象からの重圧の表現であれば適切だったかもしれない演出に大きな違和感はないが、その記号性で「なんかすっごいプレッシャー」を連想できるに留まって、関係性の不明な彼らの期待さえまともに受け止めてしまえる一郎の、繊細過ぎるほど生真面目な(あるいはプライドの高い)パーソナリティの中身に触れらることはなかった。一郎が新東大にこだわる理由について姉も首を傾げていた。そんな姉の鈍感さを責めるように「わかってもらえない」と独りごちる彼もまた、世間並みに弟の受験を心配し、世間並みに彼の幸せを願い、世間並みに同じ両親から生まれた子どもとして、弟と適切な距離を保ちながら人生を歩みたかったはずの彼女を、まるで好き放題甘えられる母親のように扱っている。

ストレスに至るために必要な環境因子と個人因子の相関のうち、後者についての描写が圧倒的に不足していたのだと思う。環境因子にしても、最も身近な父親や姉に権威性はなく、彼の行く先を縛るほどには頓着していないので、親戚たちのガヤだけでは説得力として不十分だと感じた。せっかく母親との関係で「賢い自分」の自意識を確立した回想を用意していたのだから、いっそ他人からのプレッシャー云々は省略してもよかった。「一郎が他人からの期待だと信じていたものは他でもない自縄自縛だった」推測に至るには、大井川一郎の自意識の在り方についてあらゆるコンテクストが無頓着だったと感じている。

現実に大学を除籍になった経歴を持つ牧村朝子さんの下記コラムを読んで、私は「勉強ができる」ことで教員から「点取り虫」「可愛くない」と言われつづけ、一方では生徒会役員を期待されたりクラスメイトからは「頭いいキャラ」として距離を置かれ揶揄われた中学生時代を思い出す。勉学にまつわる自意識と自己承認欲求と他者評価と寂しさの相克。私は一郎に共感できるはずだった。それでも一郎の描き方に痛みを感じることはできなかった。

学生の身分を失って社会に放り出された後の展開はいよいよシリアスなんだかコメディなんだかわからない。ヨージと鈴子の家に転がり込むところまではよかった。その後の身の振り方として「就活に失敗」とか「アキラたちに対抗して劇団を立ち上げるも振るわず酷評」とか「城内塾時代のつてで起業したが裏切られる」とか、これまで散りばめられた材料を活かすかと思いきや、大井川一郎は突然きれいめのウシジマくんへと変貌してしまったのだった。しかもスカウトの理由は顔。びっくりするほどフィーリング。もちろん、全編を通して彼の「顔」に何らかの象徴性を持たせたかったことは理解できる。顔によって惚れられ、顔によって評価され、顔によって目をつけられ、顔を隠し、顔を変え、「もっともっと褒められたかった」自意識の象徴としての顔は、再会した息子に「顔がいい!」と無邪気に肯定されることで救済を得る。台詞回しはとことん下世話だが、目の付けどころとしてはシンボリズムを想起させる美しさがあった。とはいえ、いきなり顔を理由にスカウトされるのは唐突が過ぎる。もう少しやりようがあったんじゃないかと思う。あるいは、あそこまでフィクショナルなシチュエーションに持っていきたいのであれば、もっと顔の象徴性をひとつ輪郭として固めるべきだった。

謎の男がいきなりハードボイルドなアンニュイ感を醸し出すのは面白かった。けれどもそれ以降、生真面目に世界観に没頭する気力を失った。もしかしたら名前のない男と逃亡生活中の一郎を重ねたかったのかもしれないが、既に述べたあらゆる伏線狙いのファクターと同じく、キーワードを「考察待ち」と言わんばかりに並べただけで、それらを統合するための処理を怠っている。下層社会に足を踏み入れるにしても「働かずに済むなら」と独白した直後めでたく就職先が決まってしまうのはあまりにもジェットコースター展開だった。なんならネットカフェ難民として生活する描写があってもよかった。繁華街を通り過ぎる人間から見下され、暴行され、福祉事務所に保護を求めようとするもプライドが邪魔してとんぼ返り、等々。一郎を追い詰めようと思えばいくらでもできるのにひたすら手緩い。あるいは社会問題性の高い描写を意図的に避け、娯楽としての表現にこだわったのかもしれないが、であればもっと気を配らなければならない点はいくらでもあったはずだ。「ああすればよかったこうすればよかった」と言いたいのではなく、彼が何を忌避して、何に限界を感じ、何を妥協し、どこで自暴自棄になったのか。いまいちわからないまま物語が展開していくことに、いい加減遣る瀬無さを感じ始めたのをよく覚えている。

主人公がどんなに「転落」してもかつての仲間たちから白い目で見られないことも不自然だった。彼女と同棲してる友達の家に転がり込む非常識な行動は、仲間内に後々の禍根を残せるほどおいしいエピソードなのに、それが十分生かされていないのがもったいない。鈴子の親友である栞が変わらず一郎に想いを寄せてるのも不可解だった。片思いの相手が異性のいる家に転がり込むの、よっぽどのマゾじゃない限り冷めるどころじゃ済まなくない? それとも栞ちゃん、恋に盲目なのかしら。どうせなら鈴子の相談を受けて「先輩、もしよかったらうちに来ませんか…?」なーんて誘うくらいかましてもよかったのに。

結論から言えば後半の栞の失恋は「マジ泣きするほどか?」と違和感があったのだった。高校卒業後、ほとんど会ってもいない男性に想いを寄せ続け、結果真に受けてもらえずマジ泣きする姿は、アキラとの確執に繋げるためのご都合主義としか思えなかった。どうせなら、親友がどんなに迷惑を被った男であろうと、ここぞとばかりにアプローチをかける「恋に恋するエネルギッシュな少女」としてキャラクターを確立させていればよかった。彼女の一郎に対するあっさり感と実は秘めていた想いのバランスは魅力的なように見えてシーンによっては唐突さも覚える。繰り返しになるが、アキラの想いをジョークとして流してしまった因果応報として彼女の失恋を表現したかったのであれば、もっと丁寧に栞のキャラクターを描くべきだった。パーソナリティ描写の不足は大井川一郎に限らない。「一郎先輩はゆりえ先輩と付き合ってるのかな…」と心配しながら彼女へのサプライズに一郎をあてがう栞の警戒心の程度にはさすがに首を傾げた。自滅があまりにも鮮やか。

話は逸れたけれども、いっそ鈴子が栞の家に行ったきり帰って来なくなってもいい。その結果、ヨージとのあいだにさえ亀裂ができてしまってもよかった。鈴子の苛立ちをあれだけ無視しておきながら(気づいてないのか?)わかりやすい揉めごとをきっかけに自主的に出ていくのは肩透かしもいいところだった。ほかでもないヨージに拒絶されるほうがドラマとして面白い。口ではつい乱暴なことを言いつつも、ヨージがなんだかんだ鈴子を大切にしている証にもなる。「なんでおれの言うとおりにできないんだよ」と恫喝したヨージは紛れもないモラハラ彼氏なのだが暴言を撤回するフォローすら入らない。 あれに危機感を覚えない女性も少ないと思うが、ふたりはその後も円満らしい。一郎も一郎で、あの状況で「どこでも疎まれる」って当たり前やん。恋人でもない異性がうちに住み着いてたら女の子は嫌で嫌でたまらないよ。なに拗ねてんだよ。

ともかく、私には彼が最後までチヤホヤされて恵まれているようにしか見えなかった。「転落」といっても、彼のプライドを満たせない状況が続いているだけで、側からみれば浮き沈みはあっても、彼は決して孤立しなかったし、わりとすぐにスカウトされてウシジマくんになったおかげで経済的困窮もしなかった。彼の人生は心理的障壁による選択の迷走がほとんどで物的・社会的側面での剥奪はほとんどなかったといってよい。追い詰められたにしては不自然なほど過去の栄光が生きていた。ひたすら手緩い、と感じた。

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

一郎の自縄自縛の内面にドラマを見出したかった。もっと窮迫し、孤立してもよかった。そこから再び「みんな」との信頼関係を取り戻し、それでもたったひとりの人間・アキラとのわだかまりによって殺人未遂に至ってしまうのであれば悲劇性があった。この事件を通して、仲間たちがあらためて彼に対する受容のかたちを模索するのであれば、呼び込みどおりの「みんなとの絆の物語」として成立したと思う。ところが、既に述べたとおり登場人物は一貫して一郎に対して寛容で、不自然なほど悪意がない。再会した鈴子も「おかえりなさい」と戸惑いの笑顔を浮かべながら、それでもかつて自分が受けた苦痛について本心を明かすことはない。とうの一郎も鈴子に頭を下げることはない。彼女が文句を言えない立場であることを知っているはずの一郎に誠意は伺えない。あのシーンは明らかに「赦し」の描写だが、「水に流す」ことを年下の女の子に強いる構図は美しい表象とは言えない。つまらないリアリティはあるけれど、二人の間柄に「絆」を見出すのは難しい。

そもそも高校時代から一郎が「人気者」足り得る理由は「一郎先輩はすごいなあ」に終始している。「すごいなあ」の中身は彼の性格ではなく顔や才能なのが物悲しい。輝いていた時代の求心力を容姿・能力に限定するのは解せなかった。そこは「一部の評価」としての取り扱いでよかった。だって、高校時代の彼には、優柔不断で情を捨てられない優しさがあったじゃないか。めんどくさがらずにさまざまな部活を助けた。アキラだって受験を控えているはずの一郎に救われた。ヨージも彼のお節介で強がりを解きほぐすことができた。そうした大井川一郎の美点は強調されない。「みんな」が愛した彼の人柄が語られないまま、ただ「すごいひと」として仲間の口の端に上り、上滑りの幸と不幸を行ったり来たりする人生の顛末は、「結婚」というあざといほどわかりやすい幸福のシンボルに辿りつく。

大学受験にせよ、できなかったアルバイトにせよ、一郎は「ステータス」の価値観から自由になれないことで不幸になった。にも関わらず物語は既存の幸せのステージを疑わない。好きな子からの告白・セックス・そして結婚。ならば、はじめからこの物語の中で一郎が自由になれる余地などなかった。大切なのは告白のイベント性ではなく恋愛の豊かさであり、セックスの事実ではなく心を交わした過程であり、結婚ではなく二人がどんな日々を紡いでいるか―――であるにも関わらず、主人公を巡ってのそれが描かれることは一切なかったと記憶している。大井川一郎がいったいどんな人間なのか、自分らしい生き方とはなんだったのか、どこで間違えたのか、どう起動修正すればよかったのか、それでも自分はたった一度の命を幸福に生きる権利があるのだ―――そんなさまざまな疑問、悩み、願い。物語のそうした視点の欠如は彼の不幸の要因を外部に求める。<きみのせいではないよ、ひと一人の死も、思いがけない妊娠も、きみはいろいろなひとを傷つけたけど、それでも軌道修正のできない「悪」だけはきみのせいではなかったのだ>と。

それでもガス抜き効果の高いコメディを挟む卓越したテンポのよさが功を奏して、あれよあれよと大団円を迎えたため、終演後に爽快感を覚えたことは嘘ではない。とりわけ森公平の存在の説得力は凄まじく、エモーショナルな挙動を抑えているにも関わらず、多重のストレスによって表情を失った人間の、ぐるぐるとした頭の中がにじみ出るような様子とニヤニヤ笑いが素晴らしかった。背中のチャックが閉まりきってないアイドルも可愛かった。それでも、思い返すと戯曲と自分とのジェネレーションギャップに鬱々とした感覚が蘇る。借金の取り立ての場面で「風俗でもなんでも紹介して」と元カレに頭を下げる女の、中高年男性の妄想めいたセックスアピール。女の子のほっぺを乱暴に掴み「やっちまうぞ」とイキる、20代の若者の口から飛び出た台詞にしては時代を感じる雄々しいアピール。

ゆりえが一郎と復縁したかったのは火を見るよりも明らかだが、部屋に通って甲斐甲斐しく世話を焼いていたからといってまるでセックス待ちのように扱われ、暴力的な扱いで男女の関係にもつれこみ、にも関わらずめでたく縒りを戻す展開はカンチガイ男の妄想と区別がつかない。そういう趣味の女もいるだろうが、ゆりえは高校時代の優しい一郎に恋をしたのだから、いくら復縁したかったとはいえ、女を人間と思わない元カレの変わりように何のリアクションもないのが不思議だった。もちろん恋に理屈はいらないが、レイプまがいのセックス導入で円満に至るのであれば、ゆりえの献身的な愛の在り方やその必要性を強調する必要があったと思う。

青年誌の世界に放り込まれたような女たちの媚態や、痛々しさすら感じる暴力性アピールの激しい男たちも、作品の端役として活躍するぶんには面白い。倉木や御影もエンタメ性が高いし、セリナのような「悪女」であればなおさらマンガ的な痛快さがある。けれども一郎とゆりえだけは誠実な関係性を築いてほしかった。『みんなのうた』はエロやアングラを楽しむ作品ではなかったと思うし、そうした過剰性は戯画化の対象として扱われていたはずだ。それにも関わらずテーマ性を背負ったふたりを古臭いねっとりとした男女観に巻き込めば、それがエンタメのスパイスではなく作者の感性の古さとして受け止められてしまう。愛と性にまつわる表現手法について、もっと繊細な眼差しが欲しかった。

不幸に結びつくにはあまりに強引だと感じる分岐点も多かった。物語の組立自体がフィクションの「お約束」に頼りすぎている。「お約束」と言っても可愛らしいものではなく、性差別的な社会に支えられたステレオタイプだが。

例えば既に批判した痴漢冤罪の一件は、2007年の映画『それでも僕はやってない』以降に流行りだしたイメージに過ぎない。痴漢のシチュエーションも、鉄道員からの聞き取りの場面も、父親の発言も、巷に蔓延る誤謬や偏見を再生産しているだけで、わざわざ物語の俎上に載せる価値があったようには思えないのだった。倫理観とか正しさとか誰かが傷つくとか、そうした問い掛け以前に、世間の「あたり前」を疑える数少ないフィールドである創作において、くだらない世間のくだらない言説のくだらない尻馬に乗っただけの再現がクリエイティブや知性や感性としてクソダサイ。どうかプライドを持って戯作をやってくれと尻を叩きたくなった。これは『みんなのうた』に限らない、あらゆる戯曲への願いでもある。尖った表現のつもりで世間の尻馬に乗ってるだけのセンスが演劇では未だ通用してしまう怠慢にはそろそろうんざりする。

恋人が思いがけず妊娠したために一郎は大学を除籍となるが(それも無理筋な展開だが)本当の父親である倉木に認知が期待できないと知ったセリナは、おそらく一郎を子どもの父親にしたかったはずだ。子ども自身の扶養や相続の権利に関わる嫡出の問題をそのままにしておくわけにもいくまい。にも拘わらず、セリナの父親はなぜ認知もさせず一郎を大学から除籍にする「だけ」で済ませてしまうのか。「孕ませたのは悪いけど孕ませた後のことは構わないでいいからね」と言わんばかりの処遇はまるで罪が射精の一瞬にあるような言い分だ。いくらストーリーの都合といっても、妊婦や子どもに対して一切責任を追わない立場のまま放逐させる方向性でよしとした判断の基準がわからない。倫理的な話ではなく受け手を物語に集中させるための「説得力」如何の問題だ。中絶費用の折半もさせない。手術の立会い場面もない。産んだ子どもの噂も聞かない。一郎が疑問に思わないのもおかしい。自分の子どもと言われた存在の生死について、彼が一切気に留めてないのも恐ろしい。

あの状況であればセリナは中絶してもおかしくはないが、何の心境の変化か(嫡出推定の裁判でも起こされたんだろうか)倉木はお腹の子を認知したようだった。その後セリナの懐妊は「一郎のせい」ではないと明らかになるが、どうやら彼女はこれを自覚的に悪用したらしい。少なくとも倉木はセリナをそう扱い、セリナも「やめてよ」と言いつつ具体的な言い訳を口にしない。在学中の妊娠なんて本人がいちばん動揺するはずだろうに「女が妊娠を利用して男を貶める」物語の種明かしに、これが女ぎらいな男性の被害者願望を満たすステレオタイプ以外の何物だろうとげんなりした―――そもそも、妊娠4週を2カ月と偽る時点でアホらしく、彼女の懐妊を巡るエピソードは初めから破綻している。7年後、セリナが無事に子どもを産んで、倉木となんだかんだ楽しそうにカフェを訪れる終盤に胸を撫でおろしたのは事実だった。けれどもそれは彼女が不幸にならなかったことへの安堵であって、一郎が彼女に対して八つ当たりのようなセックスをした挙句、避妊を怠ったこと(紛れもないレイプだバカヤロウ)が免責されたわけではない。

もちろん一郎が家族と共に「今まで傷つけた人たちに謝ろう」と決意したことを仄めかすシーンはある。それでも大団円の爽快感のために取り返しのつかない「殺人」や「妊娠」の責任をパージしたかったことは物語の意図として明らかだった。はたして避妊もせずにセリナをレイプしたことは不可逆的な罪に当たらないのだろうか。それとも「自分の種じゃなかった」し「セリナは悪女」だから行為の責任を背負うに値しないのだろうか。……繰り返しになるが、この無茶なセリナの妊娠エピソードがたとえゆりえとの対比だとしても、男を巡る聖女と悪女の構図をいまどきマジで描くのは怠慢でなければ、よっぽどの自信と知見があっての冒険だと思う。

みんなのうた』の焦点が一郎とアキラに絞られたものであればよかったのにと心から思ってしまう。同性間の拭いきれない羨望や嫉妬、それでも確かに存在した愛情めいたもの。ハイテンポの中であっても丁寧に描けば、青春の感情の揺れ動きや眩さ、そうしたものがくすんでいく様子さえ、一種の夢のように受け止められたのではないか。初演のフライヤーのイラストは彼らだろうか。私はあれがとても好きだった。

「演劇にのめり込む」とあらすじで語られていた一郎だったが、気持ちは明らかに受験勉強に寄っていて、仲間への情と試験への焦りの狭間にある様子はよく理解できたけれども、全編通して芝居への熱意が描かれていたかといえばそうではない。一郎にとって芝居はあくまで美しい思い出だったように見える。息をするようにそれを為すライフワークには至らない、あくまで瞬間的な体験。昔取った杵柄。演劇にのめり込んでいるのは一郎ではなかった。不器用ながら将来を掴み取ったのはアキラのひたむきさだった。一郎は才能がありながらも目移りして、どこにも腰を落ち着けられず器用貧乏に収まった。

行動力のあるアキラとプライドに縛られた一郎。二人の生き方は対照的で、それでもアキラは一郎を見上げていたのだったが、最期のドス黒い感情が吐露される前に描かれていたのが恋敵としての妬みばかりだったのはもったいない。アキラが栞を傷つける男たちに対して敵意を顕にしていく過程は意外な本性の発露としてのおもしろさがあったけれど、一郎に対しての黒い感情は、たかが恋敵のそれではなく、不器用な自分のアイデンティティを揺るがす焦燥感だったのだから、ふたりの人生が唯一交わっていた学生時代に憧れの先輩への愛憎が仄めかされてもよかった。一郎は小ばかにすることはあってもなんだかんだアキラを可愛がっていたし、アキラも天上の存在か救世主のように一郎を尊敬していた。アキラはいつから一郎を「同じ人間」として嫉妬の対象に据えたのだろう。

それは芸能人として成功して、それでも栞に振り向いてもらえなかったときかもしれない。アキラの気持ちを想像してみる。<どうして可愛いあの子は僕を好きになってくれないんだろうか。芝居だって知名度だって、僕はあの人よりもよっぽど上になったのに。……> 理解し難い感覚だけれど、どうにも一部の卑屈な男性たちは、容姿が優れて能力さえあれば、それに応じて女心が手に入ると信じている。女性の存在は業績に対して与えられる報酬であると、まるでサンタクロースのプレゼントを待ち望む子どものように信じている。そんな下世話な憶測を当てはめたところでアキラの本心はわからない。それでも、人間と人間の愛情は必ずしもステータスに左右される質のものではないにも関わらず、現に彼の失恋は容易に一郎への憎悪に結びついてしまった。合同公演で助けられたとき、アキラは何を思ったのか。純粋な感謝だろうか。それとも嫉妬だろうか。ふたりにとって大切なエピソードであるそれを彩る感情は少ない。

双方の決裂はロマンティックにさえ思えるのに、揉めている最中のアキラの吐露が解説として機能したくらいで、ふたりの確執が描かれたシーンは物語のボリュームからすると終盤の微々たるものだった。二人の再会から殺人未遂までワンシーンしかないのももったいない。ドラマの撮影所の近くであんなに揉めて、それでも駆けつける人がいなかったのに違和感を覚えたこともあるが、もっと二人の立場の反転を印象づけてもよかったのにと考えてしまう。互いに顔を合わせることもなく離れているからこそ仮想敵としての恨みが募る側面も確かにあるけれど、あっさり暴力沙汰になってすんなり受け止められたのは演者たちの熱演によるところが大きい。そもそも受験のときの風邪をアキラのせいにしてもよかったのに一郎はアキラを一切責めない。これは当時の一郎の優しさだったはずだ。あからさまな伏線のように演出されておきながら、それとも一郎は気づいていなかったのだろうか。大きな分岐点のひとつだったはずのそれに最後まで光が当たることはない。

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

 

既に少し触れているが、一郎とゆりえの関係をもっと愛情のあるものにしてほしかった。卒業以降、一郎がゆりえを一人の人間として尊重した場面が思いつかない。ゆりえとの復縁も「恩を売る」立場に乗じて男女の関係にもつれ込んだだけで、当時勝手に「自然消滅」を決め込んだことに決着をつけた様子もなく、力関係の不均衡なふたりが再び対等な立場で愛を育む様子は描かれなかった。お互いに腰を落ち着けて向き合う場面がひとつでも欲しかった。高校時代のきらきらした彼でなくなってもゆりえは一郎を愛すると決めた言葉がほしかった。それまではプライドが邪魔してたものの、ゆりえのために地に足をつけて誠実に生きると決めた一郎がみたかった。そんな2人の元に詐欺師の誘惑が訪れたのであれば悲劇的だったのにと口惜しく感じる。あれだけブルーカラーの職種を嫌がっていたにも関わらずゆりえの勧めで介護スタッフを選んだ一郎はもしかしたら「地に足をつける」示唆だったかもしれない。それでも間口が広いだけの介護職を「誰でもできる」と上から目線で論じる一郎に感じるのは周囲に対する致命的な共感性の欠如だったが、これまでと同じように彼のいやらしさを物語がどう眼差しているかは不明瞭だった。

はたして一郎はゆりえを愛していたんだろうか。一郎はゆりえに「一緒に逃げよう」と迫るが、彼女が妊娠していることを知りパニックのまま逃げ出した。もし彼女が妊娠しておらず、あのまま2人で逃げていたらどうなっていたか。一郎がゆりえに暴力を振るっていたことは想像に難くない。「いつも支えてくれた」とゆりえにプロポーズをした一郎。ゆりえに母を見出していた一郎。彼女の幸せも考えず、恐ろしいから自首もできず、ただ一緒にいてほしいから逃避行を迫った一郎。逃亡中の保身のために彼がゆりえの行動を制限し、束縛することは容易に想像できるが、それ以上に、ゆりえを聖女化し対等のパートナーであると見ていない一郎はきっと己の寂しさや苛立ちを彼女にぶつけてしまう。彼にはセリナに対する前科がある。一郎は女性に依存するばかりでまともに愛せた試しがない。であれば再会までに自分の心を見つめ直すかと思いきや「アキラにも彼を大切に想う人がいた」描写に終始している。人の命や人生は、たとえだれかに愛されていなくても大切には違いないのに。それは一郎だって同じはずなのに。家族が待っていなくたって、ゆりえが待っていなくたって、友達がみんな離れたって、一郎は一郎として生きていいはずなのに。

ゆりえは行方不明になっていた一郎の姿を見て産むことを決意するのだが、帰ってくるかもわからない男を我が子を産むための判断材料にする親には違和感がある。「産むことは決めていたけど一郎の姿をみて勇気づけられた」のだったら理解できる。ゆりえには恐ろしいほど一個の人格としての保身がなく、我が子の命を巡る倫理的な葛藤さえ自律した人間として描かれない。それでも「容疑者の妻」であり、かつシングルとして生きるゆりえについて、逃亡生活中の一郎が想いを馳せる様子はない。自分の子どもについて案じる様子もない。これらは意図的に自己中心的な彼の性格を示唆したものだろうか? それとも描く必要性について検討すらされなかったのだろうか? 恋人を聖女化して甘える男に物語は批判的な眼差しを与えない。「成長」なんて上から目線の言葉では括りたくないけれど、テーマであるはずの絆の在り方は「主人公が他者から受容されること」に留まり、彼自身が周りを受容する視点に欠けている。

もちろん演者それぞれの役づくりの方向性や熱量やひたむきさはすばらしかったし「面白い」と感じさせる演出やギミックには優れている。物語の大半が7年後の彼による白昼夢のようなものだ。過去と未来によって隔てられた大井川一郎が、互いの顔を見て「しょうがないな」と言いたげに笑ったり、バツが悪そうにはにかんだりする姿は、自己受容の瞬間のようで胸を打つ。要所要所、いいシーンも確かに多かった。受け手が「面白さ」をどこで認識するか、娯楽における快の誘発をよく心得てる実にこなれた作品だと思った。けれども透けて見える世の中への見識や他者への誠実さの描写に関して軽薄さを感じてしまう。エクスキュースなく挿入された介護職への理解だって90年代の偏見そのままだ。作品は時代性に依拠するものだと考えてるので記事には必ず年号を入れるけれど、これを2019年の作品です、とは言い難い。

有料コンテンツでIKKAN氏の裏話を読むと、上演までの苦労が伝わってきて、本当に尊敬の気持ちが溢れてくるけれども、それを加味してもやっぱり好きになれないシナリオだった。『みんなのうた』は「こなれた作家がこれまでの貯金と手癖で書いた脚本」という印象で、世の中に対する視座を広げる意思が感じられなかった。もしもこの作品が、愛や、性や、命や、学びに対する誠実さとは何か、大井川一郎に語りかけるまなざしを絶やさず物語に散りばめたものでさえあったなら、彼を彩るさまざまな迷いや煮え切らなさやエゴも昇華されたのだろうが、残念ながら、それらのメッセージを伝えるには、奥行きを持たせたいがために用意されたあらゆる価値観は、苦しみの根っこを飛び越えるには至らない。