蜂蜜博物誌

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舞台『PHOTOGRAPH51』(2018年)_感想

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あらすじ

世紀の大発見をしたのは彼女。ノーベル賞をもらったのは彼ら―――女性科学者が殆どいなかった1950年代、ユダヤ系イギリス人女性科学者ロザリンド・フランクリン板谷由夏)は遺伝学の最先端を誇るロンドンのキングスカレッジに結晶学のスペシャリストとして特別研究員の座を獲得する。当初、彼女は独自の研究を行う予定でキングスのポストを引き受けたのだが、同僚ウィルキンズ(神尾佑)は、出合い頭、彼女を助手として扱う。この雲行きの悪い出合いが、その後彼女たちの共同研究のチームワークの歪みを作るきっかけとなる。(公式サイトより一部引用)

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1.ロザリンド・フランクリン

舞台・公式サイトのイントロダクションを引用する。「男性社会の科学研究室。研究に没頭し続ける孤高のリケジョ、ロザリンド・フランクリン“世紀の発見”ともいわれる、DNAの二重らせん構造の発見に貢献。」

担当者の意図的なものか無意識によるものか「孤高のリケジョ」という表現は彼女の置かれた状況を現代の問題として再現することに成功している。無意識であればまさしく皮肉だろう。この言葉が可視化するものは、ただ科学に邁進する者を、他でもない他者が性別によって分断する好奇の目そのものといっていい。本作は史実を元にしたフィクションである。

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2.「孤高のリケジョ」のふれこみに潜む物語の本質

2015年、ニコール・キッドマンを主演に上演された本作だが、本編を通してロザリンド(板谷)の刺刺しさが目立つ。ウィルキンズ(神尾)が話しかける前からツンケンしていたようにも見えるが「気の強い女性」の表現だったのだろうか? とはいえ、ウィルキンズと出会ってからの彼女の頑なさには十分な「正当性」がある。

まず前提として、人間同士、思いやりのあるコミュニケーションの中で、目的意識を共有し、相互一致となって仕事をするに越したことはない。劇中でも繰り返し「あのとき協力しておけば」というような趣旨の俯瞰的なモノローグが挿入される。しかし、それはあくまで「お互いを尊重できる関係」での話に過ぎない。

断言しよう。もしロザリンドが「優しい女性」だった場合、ウィルキンズは彼女をあくまで補佐的な役割に留め、助手として扱い、彼女の成果を元に自分の論文を仕立てていたことだろう。それこそクリック(中村亀鶴)やワトソン(宮崎秋人)の登場を待つまでもない。

いや「優しい女性」は適切な表現ではない。「微笑みを絶やさず、明るく、男性を立てながらも出しゃばらない、仕事における女性一般と同じように、補佐的な扱いに甘んじる存在であったら」……ウィルキンズは後悔なく、彼女を助手として取り扱っていただろう。その裏づけに以下の記事を引用する。これは現代日本における女性研究者を取り巻く課題だ。「男性上司が、女性の学生、ポスドク助教などを秘書のように扱うケースがある。」と記載がある。女性たちの思いやりのあるコミュニケーションは男性にとって「奉仕」に歪められるのである。

科学に挑む女性研究者たち キャリアパスの現状と課題にせまる | Nature 日本語版 Focus | Nature Research

これを考えるとロザリンドがピシャリと跳ねのけていたのは賢明だった。現在の日本でこの有様なのだから、よっぽど周囲に恵まれない限り、まともな態度で女性研究者の独立など望むべくもない。

ところがウィルキンズにとってはそんなロザリンドの態度も青天の霹靂だ。「何か悪いことをしたわけでもない」のにいきなり不機嫌な態度を取られてしまう。さすがに同情せざるを得ない。また、ウィルキンズはこうも考えたかもしれない「いや、助手扱いしたのは確かにちょっと悪かったかもしれない。しかし、口が滑っただけだし、自分はすぐに考えを改めた。そんなに引きずることはないじゃないか? まったく、とんでもない女だ……」事実、この時点での彼らのやりとりだけ取り上げるなら、ロザリンドの過剰反応にさえ見える。

しかしながら実態は「この社会における女性科学者の扱いの結果」としてウィルキンズの発言があった。つまり、彼にとってはオリジナリティがあったかもしれない言葉も、ロザリンドにとってはここに至るまでに受けた様々なアンフェアの一部に過ぎない。ウィルキンズの助手扱いに「またか」とうんざりしたことは想像にかたくない。

むしろ友好的と言わんばかりのスパイスを交えてきたぶん質が悪い。ときに、あからさまな女性蔑視よりも、好意的に見せかけた無自覚の差別のほうがよっぽど厄介なものだ。公式サイトのイントロダクションで使用されていた「リケジョ」という言葉もまさしく「無自覚の差別」の典型だろう。

「リケジョという言葉が嫌いだ」

「リケジョ」という言葉に対する雑感まとめ - Togetter

 
3.信頼関係は社会構造の文脈の上に成り立つこと

〈ならば、ウィルキンズはロザリンドを「尊重」していなかったのか? 頑なな彼女と打ち解けようと努力をしていたにも拘わらず?〉

ロザリンドの警戒心にもめげず、ウィルキンズはアプローチを絶やさない。それは苛立ちを覚えながらも「良好な関係を築きたい」彼の善性であったと思う。それでもロザリンドは彼に心を開かない。そんな中、若いアメリカ人科学者・キャスパー(橋本淳)に、ロザリンドは手紙を通して心惹かれていく。この違いはどこから来るのか?

残念ながら、人間関係である以上、ああすれば信頼されるとか、あいつと同じことをしても信頼されないのはおかしいとか、そういう質の話ではない。恋の話であれば「あいつは恋人になれたのに自分がなれなかったのは不公平だ」なんて言う人がいたら「こいつはヤバイ」と一目瞭然なのに、ひとたび信頼関係の話題になってしまうとチーム形成のむずかしさから人は目を逸らせてしまう。本作ではロザリンドとウィルキンズがチームとして協働できなかったために「敗北」したので猶更である 。二人の関係形成の問題点をテーマのように錯覚しなかったかといえば嘘になるが、「この異性は信頼できるがこの異性は信頼できない(好き嫌いに関わらず)」という判断は女性として生きていれば身に覚えのある人も多いのではないだろうか?

男の価値観は女の人生を左右する。社会の方向性を定め、仕事場の決定権を握り、女性の被害を品定めし、経済的にも優位な立場にある。社会構造上、男性はそのような立場にある。この時代であればその傾向は顕著だろう。

故に女性にとって目の前の男性がどのような考え方をしているかは死活問題だ。ロザリンドの研究生活はウィルキンズの胸ひとつだった。下手をすれば助手として扱われていたし、研究者用の食堂に女性が入れないことについては無批判だった。その時点で彼がどうコミュニケーションを取り繕おうと手遅れなのはあきらかだ。そしてロザリンドが彼を信頼できなかったことを証明するように、ウィルキンズはワトソンたちに彼女の大切な成果を開陳してしまう。

これは意地の悪い考えだが、もしも、ウィルキンズのパートナーがそりの合わない男性だったら?ウィルキンズは愚痴のついでに彼の研究成果を開陳しただろうか?「怒るのではないか」「尊重するべきものの侵害ではないか」と想像が働いたのではないか?

ウィルキンズは決して悪意のある人間ではない。ロザリンドの成果を見せてしまったのも、彼女を怒らせたいとか困らせたいとか、そんな意図があったわけではない。無意識の油断だった。むしろそんな当たり前のことに「無意識でいられた」のが彼の差別意識であったのかもしれない。彼はロザリンドと友好関係を築きたいと願っていたし、惹かれてすらいたけれども、彼女を尊重することに気づけなかったのかもしれない。

それはウィルキンズも不平等な社会の被害者であったことに他ならない。彼の離婚の原因はあきらかにされていないが、今も彼を激昂させる妻とのすれ違いは、多かれ少なかれ男女の社会構造上の不平等も関わっていたはずだ。彼は今度も女性との関係の構築を誤った。誤らざるを得ない社会環境だった。社会に生きている以上、現状の誤った「社会常識」を内面化することは避けられない。間違いのない時代などない。それにいかに自覚的でいられるかが、誤りを正す鍵となるが、彼は「間に合わなかった」のだ。ロザリンドの生きているあいだには。

本作はウィルキンズの記憶の物語だ。ウィルキンズはロザリンドの観た舞台『冬物語』(シェイクスピア)に自身を重ねる。妻のハーマイオニの不貞を咎め、死においやったレオンティーズは、真実を知った暁に後悔をする。史実におけるウィルキンズは、ロザリンドの死後、ワトソンが著書で語る不当なロザリンド像に抗議をした。

 

4.作り手がテーマを理解すること

物語のコンテクストを担う脚本家や演出家が作品のテーマを理解することは必須である。一方で、演じている俳優はどうなのだろう? 一か月という短い稽古期間で高度な要求をこなしている彼らに、必ずしもそれらを期待するのは、酷なことだろうか。

観劇した日のアフタートークショー。そこで、とある男性俳優の一言が気になった。「女性差別とか、そういうのはもうないかもしれないけれど」

おおむねそういうニュアンスの発言である。本題とは関係のない前置きの言葉に過ぎないが、観劇後のカタルシスに水を差されたようで、げんなりしてしまった。

日本社会は「差別」という言葉に臆病だ。足元の差別や、その歴史を習わずに育つから、なにが差別でなにがそうでないかのモノサシがわからないのだ。日本にある女性差別が見えない、平均的な若い男性の発言は、公式サイトの「リケジョ」表記といい、『PHOTOGRAPH51』という作品を「今、この日本で上演する意味」への無理解に他ならないと感じてしまう。

パンフレットには『今、PHOTOGRAPH51を上演する意味』として翻訳家の芹澤いずみがコラムを掲載している。舞台に関わらず、時代背景を異にする作品が受け入れられるのは、そこに現代にも通じる問題をみるからだ。その普遍性に惹かれて観客は足を運ぶ。個別の問題から生まれたテーマは、作品として昇華されたとき、一過性の現象を超えて私たちの目の前に立ち現れる。

芸術には社会性がある。人間関係も、芸術も、社会構造の文脈の上に成り立つ。「いまこの時代、この場所で上演する意味」を、作り手はあらためて考えてほしい。理解できなかったのならば、せめて、口をつぐむだけの優しさを。