蜂蜜博物誌

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舞台『Take Me Out 2018』(2018年)_感想

Take Me Out 2018

2018年思い入れの深い作品は多々あったけれどもカタルシスを得られた観劇は『Take Me Out』だけだったかもしれない。2016年の初演は私生活が慌ただしく機会を得られなかった。春先にようやく観ることのできた再演は最高だった。芝居・演出・音楽・脚本、どれをとっても質が高い。先日あらためてDVDで鑑賞したが、ブロードウェイにおける初演が2003年と知って驚いた。この間上演の契機が訪れなかったと言えばそれまでかもしれないが、たとえ条件に恵まれていたとしても、日本の観客の多くが「自分ごと」として捉えるためには10年以上の歳月が必要だったのかもしれないとも思う。

いち当事者としてLGBTQ・あるいはセクシャルマイノリティを巡る作品にそれほど多く触れてきたつもりはない。ジェンダーに動機を見出すことのできる「花の24年組」の少女漫画群、シスターフッドが心地よい百合、そしてボーイズラブ。これらはそれぞれに表現としての意義だったり愉悦だったりを備えているが、決して「LGBTQ・セクシャルマイノリティ」そのものを描いてはいないし、それ自体を巡る社会的なポリティクス(駆け引き)に焦点を当てるものではない。愛はすでにそこにあるものとしてだれにも否定されず、あるいは周囲の抑圧は愛を盛り上げるために存在する。その一方で「LGBTセクシャルマイノリティ」を「エグみ」として利用する作品やメディアも多々ある。昔の作品は同性愛やトランスジェンダーをグロテスクな味わいとして演出した。今でもマンガ・アニメ・バラエティにおける「オカマキャラ」「オネエキャラ」といえば、ピエロあるいは超越的な役割を期待されてるキワモノであって、それは一見似ているドラァグのエンパワメントと真逆の文脈を持っているように見える。まぎれもない当事者は番組づくりの中でキワモノとして演出され再構築されていた。断言するが、日本人として自然に触れることのできるカルチャーに「LGBTQ・セクシャルマイノリティ」はほとんどいなかった。

2016年『オフブロードウェイミュージカル bare』(原題:Bare:A Pop Opera)を観劇して目から鱗が落ちた。カミングアウトを巡る社会とのポリティクスを描くこの作品は、2012年アメリカで上演されている。自分自身の経験と重ね合わせて憑き物が落ちたような体験をした。

アリストテレスの所説は頻々と誤解を蒙っているようだが、要するに、演劇の機能が、感情を浄化して、怖れと憐みを克服することにあるというものである。だからオレステスオイディプスと自分とを一体化している観客は、その一体化から解放され、また精神的に昂揚された結果、宿命の盲滅的な働きを意に介しなくなる。生活上のさまざまな絆は、一時的ながら捨て去られる。なぜなら芸術が、現実とは異なった手立てでもって観衆を「魅惑」しているからである。そしてこの楽しい、つかの間の魅惑こそは、あの「愉悦」、すなわち悲劇作品からでさえもえられるあの喜びの特質なのである。―――『芸術はなぜ必要か』エルンスト・フィッシャー著(河野徹訳・法政大学出版局) 

 『Take Me Out』も同様に人々のカタルシスに訴えかける戯曲だった。あからさまな差別や連発されるFワード。観劇後はとにかく感動した覚えしかないのに、見返してみると台詞じたいは(現実にありふれている)ひどいものばかりで首を傾げた。ダレンと恋仲になるユダヤ人会計士・メイソンは最後に呟く。「本当に、悲劇だった」と。

芸術はなぜ必要か (1967年) (叢書・ウニベルシタス)

芸術はなぜ必要か (1967年) (叢書・ウニベルシタス)

 

DDD青山クロスシアターは地下の劇場らしく客席がステージを見下ろすかたちになっている。ステージは客席と客席の中央に位置する。それはスタジアムによく似ている。ただし、望むのは競技場ではない。ロッカールームを模した硬質な舞台装置で、密室の会話も、試合も、夜更けのバーも表現される。正面の観客の姿が常に視界にチラつくものの、「我々が彼らを覗き見ている」連帯と背徳感さえある。

ダレン・レミングはいわゆるパワーゲイの条件を満たした存在だが、周囲も自分自身も、彼がパワーゲイであることを許さなかった。白人の父親と黒人の母親から生まれたダレンはこれまで人種差別の対象になることはなかった。ダレンの性格は自己肯定力に満ちていて自分自身の能力や人格にぜったいの自信を持っていた。「自分がカミングアウトをしたところで自分が差別の対象になることはない。何故なら自分はダレン・レミングだからだ」―――一見傲岸不遜にも思えるセリフだが、ダレンは決して周囲の反応を予感していなかったわけではないだろうと思う。「カミングアウトをしたところで自分が差別の対象になっていいはずがない。何故なら自分は自分という人間だからだ」―――彼は何も間違っていない。ダレン・レミングはデイビー・バトルの言葉を受け、社会正義を信じて、祈るようにカミングアウトを決意したのだろう。

カミングアウト (朝日新書)

カミングアウト (朝日新書)

 

けれども当事者が考え、悩み、分析し、紡ぎだした哲学の蓄積に、世の中はおもしろいほどに追いつけない。アメリカ南部出身の白人であるシェーン・マンギッドが悪意なく有色人種を貶めたように、人間は自然に生きるなかで触れてきた価値観以上の視点を持つことができない。ダレンがリーグの最中「あえて」カミングアウトを決行したように、どこかのだれかが「あえて」議題設定を講じない限り、群衆には言葉も思いも届きやしない。チームメイトの無理解にダレンはあくまで正論を突き返していくのだが、これまで同性愛について真摯に考えたことのないトッディは、いまいち飲み込めないようで言葉のキャッチボールは成立しないのだった。

『Take Me Out』にあふれている差別的言動や振る舞いは、いずれかの差別に関心のある者であればどれも覚えのある典型だろう。ダレンのよき理解者に思えたキッピー・サンダーストームはシェーンの差別的言動を謝罪する「代筆」を行った。それは不遇な環境から学ぶ機会を得られなかったシェーンに対する同情だったかもしれない。裏を返せばキッピーはシェーンにこそシンパシーを感じて行動に移したが、一方で同性愛差別に関しては少なからず矮小化していたと思えてならない。賢く、優しく、ダレンに友愛を抱く彼でさえ、差別にまつわる社会関係への知見は疎かだった。群衆にとって同情されやすい特徴や美辞麗句をもって加害者は庇われやすく、対照的に被害者の困難は矮小化されやすい。同性愛差別に限らず、女性差別、障害者差別でもよく見かける典型だ。

思えばメイソン・マーゼックは不思議な存在だった。ダレンのカミングアウトに感銘を受けたゲイのひとりであり、ユダヤ人会計士というある種ステレオタイプな肩書を背負う彼は、ダレンの止まり木としての役割が与えられた。ホモソーシャルの権化のようなチームメイトたちと違って、メイソンは中性的なたおやかさがあって、知識欲に富みつつ、可憐で無邪気だった。これを「ヒロイン」と呼んでしまうのはジェンダーロールへの追従が過ぎるかもしれない。

劇中、ダレンのほかにはほとんど交流がないメイソンは、まるでダレン・レミングにだけ見えている妖精のようだ。『RENT』のドラァグ・エンジェルが仲間たちを結びつける「天使」であったならば、メイソンはメジャーリーグに関わるすべてをまなざした「預言者」だったのかもしれない。不遜なダレンは自分自身を神と呼んだけれども、預言者はきっとメイソンだった。野球における数字の符号を語る彼に、カバラ数秘術を想起するのは容易い。映像版でも抜き出された玉置玲央の表情は圧巻で、同時に謎も残した。愛し合うふたりが結ばれることはハッピー・エンドに違いない。それでもメイソンの慄くような余韻が、蠱惑的な悲劇がこれからも続いていく予感を抱かせる。

 

舞台『虹色唱歌』(2018年)_感想

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2009年に同じ紀伊國屋ホールで上演された作品の再演だそうです。初演は個人的に馴染みの深い入絵加奈子さんや椎名鯛造さんのお名前もあってびっくり。アフタートークで河原田巧也さんもお話されていましたが、舞台らしいテンポの速いセリフ回しが面白いコメディでした。

ベテランの俳優さんたちが多いこともあってセリフの間の長短がとても心地よかったです。幽霊の漫談から物語がスタートする舞台、はじめて観た(笑) 全体的にすごくくだらない感じの笑いだったんですけど、それがとても好きで。賑やかしの寿司屋とか尼さんとかジワジワ愛しい。あとカトリーナの振り切れっぷりがすごい。

三女の梅代役の須藤茉麻さんかわいかったな~!個人的にお久しぶりだったんですけど本当にかわいかった。割烹着ありがとうございました。萌え。三姉妹役の皆さんは三姉妹でありながら「潔子」の憑依先としてのオラオラしたお芝居も見られて二度おいしかったです。憑依されるときのスコーン!ガックン!みたいな演出、おもしろくて好き。キャラクターだったらHIROMUさん演じるミステリアス少年川嶋くんが大好き。

ただ、シナリオはとっ散らかってたかな?という印象。とにかく相関図に関わる情報が多くて観ながら処理するのがたいへん。次から次へと新情報来るし。だいじな設定なのかどうでもいい設定なのか判別つかないし。かと思えば重大な山場にかかる伏線がおざなりだったりして、物語の核になる一本道が見えづらいと感じました。

それからカトリーナの扱いも、うーん。わりとえげつない言葉の壁を標的にしたいじめが明かされたわりには、そんな関係の修復が為されるわけでもなく、彼女は最後まで虹川高校の「唱歌」に加われなかった。「お父さんはあなたのために温泉ファイブを用意したのにあなたは参加しなかった挙句デマクレームで潰したよなコンニャロー」的なこと言われても、カトリーナは自分をからかう集団に媚びてまで仲間にはなりたくなかっただろうし、校長の気遣いに気づいていたかはわからないけど、そんな連中が勝手に盛り上がってるのが恨めしかったんだろうな、と容易に想像がつく。おおよそコメディの作品なんだから「カトリーナとの溝」の原因はあんなにえげつないものである必要があったのかな、と思います。それでやっぱり大団円には彼女も参加してほしかった。みんなが歌ってるあいだもずっとカトリーナのこと考えて胸がチクチクしてたし。

それにしても主役は潔子だと思って観ていたんだけどパンフレット読んだら違った(笑)あと便利づかいされがちな姦しいおばちゃんキャラは女優さんたちが面白く演じてくれるから面白いだけで同じ女としてはステレオタイプでヤな感じ。

シナリオ周りの細かいもったいなさはたくさんあったけど、くだらない笑いはほんとうにくだらなくて大好きだし演出もお芝居も好きなので楽しい観劇でした。「死を乗り越えるのよ」あたりがほんと最高。

オフブロードウェイミュージカル『bare』(2016年)_感想

この記事は2016年7月にprivetterに掲載した感想に多少の修正を加えたものです。当時ありがたいことにTwitterのフォロワーさんをはじめ舞台のファン、「舞台は観ていないけど記事に共感した」という方から様々な反響をいただきました。今から思えば拙い点も多々あるのですができる限り当時のまま掲載しています。生まれてはじめて書いた観劇レポとして思い入れの深い文章です。(2018年11月)

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ameblo.jp

bareすごく面白かった!すばらしかった!ほとんど予備知識なく観劇したあとに公式ブログやパンフレットを読みました。2000年にアメリカで上演された『bare』が現地の学校でも上演されていることを知って、LGBTQの自殺率がきちんと問題化されているアメリカだからこそ、生々しいほどに真摯に当事者を描いた作品が生まれたのかなあと思いました。

ところでわたしはバイセクシャルです。

ここで「なんでいきなりカミングアウトしてんの?なにアピールなの???」と思ったひとはぜひ最後まで読んでくださいね。

さて、せっかくカミングアウトしたのはいいんですが、バイは「半分ヘテロじゃん」とあまり当事者扱いしてもらえません。しかも「バイならいいじゃん」みたいに思ったひとぜったいいるでしょ。読んでるひとのなかに。いやバイで「いい」んですけど!そういう問題じゃなくて!

でも、たしかに、「社会的に想定されている」異性愛も選択できる以上、世の中から爪弾きにされている感覚は、ゲイやレズビアンよりもやわらかなもので済んでいると思います。

それでも現実問題、バイセクシャルとして同性を好きになったとしても、なにもわからない他人からみれば、そんなことは関係ない「レズビアン」です。わたし自身、バイセクシャルというよりは「自分はレズビアンでありヘテロセクシャルである」という自認で生きています。加えて「どちらの性別の相手を好きになっても毎度なにかを騙している気分に苛まれる」おそらくわたし固有の不快感もあります。バイセク自認になるまでけっこう右往左往したし……それはいいとして……

『bare』のおおきなトピックはセクシャルマイノリティです。

けれども、根っこにあるのは、青少年のアイデンティティにまつわる葛藤や、それらと接する大人たちの人間模様です。ゲイであるジェイソンとピーターのみならず、すべての登場人物がそれぞれに生きているがための障壁を感じています。

それでも、セクシャルマイノリティだからこそ問題になる「固有の悩みの文脈」は、作品のなかでていねいすぎるほど描かれていました。それがほんとうにすごい。生々しい。勘弁してくれ。

こういう感想って、なんらかの近しいものがバックボーンにないと抱けないと思うので、せっかくだから、それについて解説を加えながら、個人的な読解を記していこうと思います。

初日、一回ポッキリの鑑賞でした。記憶違いがあったらご容赦ください。

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目次
1.ジェイソンが恐れた「アウティング
2. 苦痛を否認する大人たち
3.「クローズド」ジェイソンと「オープン」を目指すピーター
4.ぜんぶ世の中が悪い
5.「赦す」こと
6.BLとしての『bare』
7.登場人物それぞれと、俳優さんについて
8.『bare』には関係のない補足

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1.ジェイソンが恐れた「アウティング

カミングアウトと結果は似通っているようでいて、まるで意味が異なるものに「アウティング」があります。アウティングとは「ゲイやレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーLGBT)などに対して、本人の了解を得ずに、公にしていない性的指向性自認を暴露する行動のこと。(wikipedia)」です。

たとえば、レズビアンであることを打ち明けられた友人が、ほかの友人に「◯◯ちゃんレズなんだって~」と伝えてしまうこと。あるいは、性同一性障害のため社会的に男性として生活していたひとが、戸籍変更の手続きをしていないため、職場の書類で「女性」だと記載されている――――のを、公の目に触れるような場所に置かれてしまうこと、等です。

本編中でマットが周囲にピーターとジェイソンの関係を暴露したのは立派な「アウティング」です。ピーターがマットにジェイソンとの関係を打ち明けてしまったのも、ジェイソンの同意を得ないうちに行われた「アウティング」ということになります。本人の意思決定によるカミングアウトが当事者の尊厳の結果なら、アウティングは(たとえ本人がいずれカミングアウトをするつもりでいたにしろ)当事者に不信や絶望感を与えるには十分すぎるほどです。

だって、周囲が自分を見る目がいっさい変わってしまうんだから。

たとえるなら、小学生や、中学生の子どものとき、からかいの延長で、好きな人を友達に暴露されてしまったとか、そういうときの、どうしようもない気分。好きな人をバラされてから、まわりに「◯◯が好きなんだろ!」とはやしたてられるようになったときの羞恥心や、気まずさや、生活が一変してしまったことへの悲しさとか、そういうもの。

ジェイソンはカミングアウトを熱望するピーターに〈このときだけじゃない、永遠のものなんだよ〉と反論して、自分の評価が崩されることをひどく恐怖します。

「つまりセクシャルマイノリティに限らず、バラされたくないことをバラされるのは、怖気立つほどイヤなんだって話だよね!」という感想はきっと正しいです。共感をもつためには、人間普遍の心理として、思いを馳せてもらえるのがいちばんだなあと思います。

それと同時に、こういう問題に対して、まるで属性は関係のない事案であるかのように対処しようとする態度は、文脈によっては当事者の否定になってしまいます。たとえば先の感想が「バラされたくないことをバラすのはだれだってイヤなんだから、セクシャルマイノリティだからってそれが特別なわけじゃない」というような論旨にすり替わってしまった場合です。これは「社会的要因を無視した問題意識の否定」です。

なぜなら、どんなことでも、当事者が受ける打撃には、多かれ少なかれ社会の環境が関わっています。その塩梅によって「社会問題」は「社会問題」として取り沙汰され、個人対個人のそれを超えた議論の対象となっています。

この場合、同性愛が社会において「マイノリティ※」だからこそ生まれてしまう苦痛があるのは明らかです。それでも、こういう議論があるとしばしば社会的な側面をスポイルして問題を無化しようとする言論もしばしばでてきます。

(※「マイノリティ」とは単なる少数者という意味ではなく、社会構造を踏まえた上での言葉です。だから世の中で「マイノリティ」と呼ばれているものには、呼ばれるなりの社会的な合意があるので、自分たちの恣意的な感情から弱者アピールをしているわけではないことはご留意ください。)

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じゃあ具体的にどんなのが問題ある環境だってのよっていうお話です。

ほとんどのセクシャルマイノリティは共通して「無理解」「差別」「存在を想定されずに構築された社会」に囲まれています。

んで、めんどくさいことにだれよりも正確に現状を認識しています。

「おおげさだな悲劇の主人公気取りかよ、みんなつらいなか生きてるんだよ」と言ってくるひとたちもいますが、どんなに周囲が否定しても、大小具体例をあげればキリがないくらいの事実が、そこにはあります。こういうことにアンテナを巡らせていれば自然にわかることなので、具体例については割愛します。

このなかでアウティングされてしまう恐怖は「存在を(人生や生命を)脅かし得る恐怖」です。

ある日まわりがみんな自分をしらけた顔で見るようになったら? 好奇の目を向け始めたら? 「へえ……◯◯ってゲイなんだ! うふふ!」みたいなね。身に覚えあるひともいるかもわかりません。

ジェイソンはそれらにひどく怯えていました。〈我慢が大切〉とものわかりのいいふりをしてピーターを説得し、だれもが憧れるふるまいで周囲を魅了しながら、はじめからだれよりも怯えていたのは、ほかでもないジェイソンです。

いっぽうでピーターは、人生の今後や、自分の意志において、ジェイソンよりも自覚的な立場にあったのですが、それは後述します。

2.苦痛を否認する大人たち

「同性愛差別」がいまいちピンと来ないどころか、『bare』の「マットによるアウティング→みんながドン引き」シーンからのジェイソンのダメージに思いを馳せるのがむずかしかったひとも、なかにはいるんじゃないかしらと想像しました。

もちろんそれが悪いという話ではなくて、自殺に向かう負のエネルギーを前にすると、「なんでそれくらいで死んじゃうの!?!?(;_;)」と、当事者の苦しみを「否認」する心理も、あたり前の気持ちとしてあるだろうと思うからです。

ピーターのお母さん。それから、神父も、当事者の苦しみを否認した「あたり前の人々」でした。

ぶっちゃけ、いきなりカミングアウトされても、どう反応していいか困ると思います。だって、そんなこと言われても、打ち明けられた個人は「なにをすることもできない」んですから。

ところで、わたしがバイセクシャルであると書きましたが、フォロワーさんは率直に、どう思いました? そんなこと言わずに感想書いたらいいのにって、思いました? 特になにも思わずスルーしました? あと、知ってたわ〜〜とか。いろいろ思うか、べつになんとも思わなかったか、それぞれにあると思います。

もし日常の場面でカミングアウトされて、戸惑ったとしても、それはふつうの感覚だと思います。

そりゃあカミングアウトされたところで、聞いたひとはセクシャルマイノリティが受け入れられる社会にできるわけでもないし。応援するっていったって他人の恋路だったりするからラブイデオロギー鬱陶しいなって思うだろうし。

あるいは「解決できないのにそんな話を振られても困る」と思うのかもしれません。「アドバイスを求めてないのになんで悩み相談なんてするの?」案件と根っこは同じかもしれません。「わたしにどうしろっていうの? いきなり理解者ヅラしろって?」

人間は自分のストレスを回避するために「打ち明けられた苦しみを否認」します。

「望まない妊娠」の加害者になり、はてにはゲイであることをアウティングされ、追いつめられたジェイソンの告解を受けた神父は〈人はそういうとき解決を私に求める〉と自らの思うところを語りはじめました。

結論から言えば、神父は「ジェイソンが自分に解決を求めている」と感じ、かまえてしまったんだと思います。ただでさえ苦痛にボロボロの姿をみたら「なんとかしてあげなきゃ」と思ってしまうのは、人情として、当然ですよね。

でも、「なんとかする」ための言葉は単なる「指導」です。〈君は若い。未来がある〉〈卒業までは耐えろ〉と神父はジェイソンに「指導」します。これはジェイソンのような立場の人間のことを、これまで考えたことのない神父ができる、唯一の「助言」でした。

なんの解決にもなっていないことを、さも解決策であるかのように。

ジェイソンはそこで「シャットダウンされた」と感じたんだろうなあと思います。すがりついた壁にはなんの手がかりもなくって、つるつる滑るばっかりで。あとは真っ逆さまに落ちるだけ。

ならどうしたらよかったの?
神父はああいうしかなかったよね?
なにが不満だったの?
結果的にジェイソンは自死をしてしまったから神父が悪いことになったけど、わたしが神父だったらああ言う以外なかったと思う!

あんまり神父を責めていると、こんなふうに、逆張り論陣大好きマンのわたしが出てきて、勝手に脳内バトルをはじめちゃうんですが。

思い出してほしいのは、自らの黒人であるバックボーンに寄せて、ゲイであるピーターに心からの共感を示して、〈わたしはあなたの味方〉とはっきり宣言してくれたシスター・シャンテル。あるいは〈わかんないけどとにかくパパには言わないわ〉とジェイソンを抱きしめたナディア。そんなふたりと比較すれば、彼がなにを欠いていたのか、わかると思います。

それでも、神父が冷徹だったわけでも、とりたて悪人だったわけでもないと思います。ピーターのお母さんも同じです。

神父はキリスト教の教義において同性愛が罪である「原則的な」価値観で生きてきた人だろうし、あたりさわりのない言葉を口にすることだけが、彼の経験からできる「ふつう」の行動だったと思います。

また、ピーターのお母さんも、冒頭で、まるで偏見のようなゲイへのイメージを語っていました。(シングルマザーだから子どもがゲイになってしまったと言いたげな持論や、そのほか諸々)それは彼女にとっての「ふつう」だったと思います。

――――神父にとってあのときのジェイソンは苦しむ若い友人ではなく「罪の香りをさせた対処できない異物」でしかなかったのだろうし、母親にとってピーターのセクシュアリティは、「愛する息子にベッタリくっついた得体のしれない不可解」でしかなかったのだろうと思います。

それはひどくふつうで、当たり前で、常識の範疇で、悪人とは呼べません。

彼らは、ふつうに生きてきたなかで、あたらしい常識や良識や教養を、自ら学びに行くことなく、ふつうに得られるだけの価値観をもって、他者の苦痛を否認する、あたり前の感覚をもったひとたちでした。

3.「クローズド」ジェイソンと「オープン」を目指すピーター

ゲイであるジェイソンは生きている限り、いつヘイトクライムや排除を受けるかわからない恐怖のなかで揺らいでいました。

彼の動揺はピーターがカミングアウトを熱望したことにより徐々にあらわれましたが、ジェイソンはもともと自己に対して抑圧的で「自分がどう生きていたいか」という欲求には人並みに鈍感だったように思います。成績優秀で才能に恵まれて、愛する恋人ともいちゃいちゃしていたジェイソンは、父親の期待については複雑な気持ちを抱えつつも、現状に対して大きな不満は持っていなかったと思います。

ただし、それは「ゲイである自分を切り離した」なかでの順風満帆です。

だからこそピーターの希望により、カミングアウト後の社会との関係を想像することを迫られ、ひどく動揺したんだろうと、思っています。

いっぽうで、ピーターは「やんわりと自分を否定する母親」がつねに頭の片隅にありました。

母子家庭のピーターは母親を愛していたし、母親も自分を愛しているのを知っているけど、自分がゲイであることだけは受け入れてもらっていない。セクシュアリティはピーターの一部でしかないけれども、それを否定され切り落とされている事実に、母親を愛しているからこその葛藤があったと思います。

〈ママ、愛しているよ〉と母親の愛を何度も何度も問い直しながら、きっといつか受け入れてくれるはずだと、ピーターは折れそうになる意志を必死に繋いでいました。

ピーターは母を代表する他者と自分の未来に対して罪悪感を持ちたくなかった。だから追い詰められたジェイソンが「ふたりで逃げよう」と持ちかけても、彼は悲しそうな顔をして、断固として応じなかったんだと思いました。

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そういえば、前半が終わった休憩のとき、近くの客席から「ピーター落ち着いて!黙ってようよ!って思ったんだけど…」というような感想が聞こえてきたんですね。ピーターのカミングアウトの熱望は、一見すると聞き分けのない子どものように見えるのかもしれません。

わたしも実際、序盤にはそんな感想を抱きました。だってアウティングギリギリだったし、ジェイソンもかわいそうに、あからさまなくらいビビッてたし。「勘弁してあげてよ~!(笑)」みたいな反応、すごくよくわかる。言ってた人がゲイをオープンにできない気持ちに寄り添っていたのならすごくよくわかる。

でも、そうじゃなくて、「ゲイであることを黙っているのが大人」みたいな、マジョリティの立場からだったとしたら……?

それはやんわりとした抑圧にほかならないと思いました。厳しいこと言うと「差別」でよくある文脈だなあと思いました。

ピーターは他者や自分に対して誠実でありたかっただけなのに、それもわがままのように受け止められてしまったのだとしたら、現実のレインボープライドは、どんなふうに映るのかしら。ねえ、ゲイパレードみて、これを読んでる方は、どう思います?

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もちろんカミングアウトが必ずしも「正しい」わけではありません。

「クローズド」という生き方も、選択肢のひとつです。たとえ社会が遠回しにクローズドを強要するようなものであったとしても、「身を守る生き方」は肯定されてしかるべきです。本人の意思決定の結果であれば、尊重されてあたり前。

ピーターがカミングアウトを熱望しているのを察して、クローズドでいたい意志を伝えたジェイソンですが、ピーターにもピーターなりの「カミングアウトしなければいけない理由」があります。ピーターの存在や、未来にとって、それは乗り越えなければいけないことだったから。でもジェイソンはそれを受け入れません。

ジェイソンはそこで「クローズドである自分たちの未来」をきちんと伝えなければいけなかったんだと思います。将来設計みたいなもの。ピーターにとって、クローズドでいることは自己肯定の結果ではない。神さまはぜんぶ知っているのに、それでも黙り続けてることに、罪悪感ばかりが募って、悪夢ばかり見てしまう。黒人のマリアさまだって応援してくれるはずなのに!だから勇気を持って未来への布石を打ちたい。

しかし、ジェイソンが叫んだのは未来への展望や、クローズトを肯定する言葉どころか、〈言ってみろよ。君のママがオレの父親に電話して、父親はオレを殴って勘当して病院に入れる〉という強迫じみた反論でした。

彼はその強迫から、恐怖から、ほんとうの望みを見失い、周囲を傷つけて、アイヴィに対する決定的な「加害者」になりました。

ジェイソンがピーター以上に怯えていたのは、社会を通して、教条的で権威主義的な父親の陰を見ていたからだと思います。

彼は生まれたときから「自分を絶対的に否定する人間」のそばにいました。家族とはだれにとっても、いちばん最初にコミュニケーションの方法を学ぶ基礎的な集団です。

「人間関係における否定」をジェイソンは絶対的な父親からヒシヒシと感じていたんだと思います。

ジェイソンにとって社会は「理想的に振る舞えば認められて、そうじゃなければ徹底的に否定する」父親のようなものだったのかもしれない。遠回しに拒絶されながらも母親の愛を確信していたピーターほど、希望を持つためのエネルギーを、育むことができなかったのかもしれない。

得体のしれない強迫観念に振り回されて、罪を背負って、絶望して、理性がすべて意味のない境地に至ったとき、ジェイソンはやっと〈bare〉の安寧を得ました。

4.ぜんぶ世の中が悪い

公演終了後、ぼちぼち「ジェイソン被害者ヅラしてるけどいちばん可哀想なのアイヴィだよね……」というため息がちらほら聞かれました。すごくわかる。恋の代償にはあまりに重い。女体はしんどい。ジェイソンが日和ったばっかりに。なぜか避妊しなかったばっかりに。このやろう。

とはいえやっぱり、ジェイソンは加害者だけど、だから同情してはいけないなんてことはなくて、結局「世の中が悪い」と思います。

社会とか、世の中っていうのは、自分も含めたぜんぶ。「相手にとっての社会を形成している自分」という当事者意識がないために、他人を無意識に傷つけてる自分。無神経なことばっかり言ってしまう自分。相手に寄り添えない自分。ゲイであるその人が社会から与えられている苦しみを、まるで他人事のように語る自分。

目の前の人を「わたしの世界」の住人としか語れない自分。「いきなりレズバレしてくるってなんなの?どうしてほしいの?そんなこと言われても困るんだけど(苦笑)」みたいな態度の、常識人さま。ガチヘテロさま。

世の中が彼らの存在を想定したものであったとしたら、ピーターはうっかりアウティングに走ってしまわずに済んだし、ジェイソンは自分の愛を曲げて加害者になって死んだりしなかっただろうし、アイヴィだってただの切ない片想いで終われたんだろうと思います。

存在を肯定されないから、ロールモデルがないから、だれも正しい道を教えてくれないから、手探りで自分を律していくしかなくて、世間の価値観に動揺して、流されて、好きな人を傷つけて、笑いながら自分の気持ちに嘘ついて、斜め上の行動に走って、また世間の評価で嗤われる。

物語の文脈で「世の中が悪い」のは必然のような装置です。そういうオチの物語を、みんなが消費しています。
 
じゃあ、現実はどうかってお話です。
わたしや、ほかの人も含めて、現実社会だって、ジェイソンを殺すには十分な世界だって思ってます。これは制度の問題ではありません。

いつだか「同性婚が認められると切ないBLができなくなる」という発言が炎上したことがありました。

このとき、主流は「こういう馬鹿げた発言は内側から潰しておかねば未来のためにならねえ」というものでしたが、その話題が盛り上がるなかで、こういう体験談や持論、たくさん見かけました。

 「でも実際、同性愛者は自分たちのことを特別と思っている感じが鼻につく」
 「ファッションレズにこんな目に遭わされたことがある。メンヘラが多いのをわたしは知ってる」
 「同じように人間を愛してるだけなのに同性ってことでアピールしてくるのがわけわからない。同じものだって言えばいいのに」
 「カミングアウトされて悩みを聞いてあげたのに逆ギレされた。トラウマ」
 「あのときレズって言ってた子、結局結婚したんだよね~笑」
 「恋人のいない私たちよりリア充してるセクマイのほうが恵まれているんだから同性婚なんて敵に塩を送るようなもの」
 「子どももできない同性愛者が結婚で保障を得たいとか図々しいにもほどがない?」
 「同性愛者が生理的に無理なわたしを否定しないでほしい。逆差別だ」

うん!(笑)

えっと、こういう経験談や価値観について、否定するつもりはありません。そういうことがあったのなら、それが現実なんだろうなあと思いますし、そういう価値観なら、なんかもう感性とか良識とか教養とか法的感覚とか、そういう根本から違うんだなってことで、お互いにお近づきにならないほうがしあわせかなって思います……。

でも、それぞれへの感想はさておき、これがわたしの見えてる世界です。
そしてこんなことを言ってる人たちは、それぞれが大真面目に、あるいは無神経に、これを放言しています。つよい。

一点だけ反論するなら、人権やそういうレイヤーの話に「個人的体験」や「国への貢献」や「経済効果」ほど馴染まないものはない、ということです。

こういう人たちはおそらく自分たちが「事実」をフラットに話していると信じ込んでいますが、それは「偏見」というものが、絵空事から生まれるものではなく、個人的体験の積み重ねによるものであることを、きっと知らないまま生きてるんだろうな、と思いました。

なにより、その偏見に一縷の事実が含まれていたとしても、「人権を認められるのに人格は関係ない」のに、どうしてわざわざそんな話を、この流れで、持ち出すのかしら。なんの意図があって?

現実ってこんなもんなんですよ。

 

同性愛差別にいまいちピンと来なかったり。

ホモやレズという言葉は蔑称だと言われても「そんなつもりないし……」としか言えなかったり。

BL作品で「オレはホモじゃないけどおまえが好きなんだ」と言わせてみたり。

「キャラをホモにするのはキャラへの侮辱だ」と言ってみたり。

BLという言葉がまず先にあって作られた「NL」の単語をフラットだと言い張ったり。

 

そういうオタク界隈も、すごく「ふつう」だと思います。

ふつうで、現実で、そういうものだなあって思います。いきなり差別とか人権とか言われても、先生にいきなり杓子定規なこと言われたみたいな気分になるの、ふつうだなあって思います。あるいはそういうこと言ってるのはジンケン派で、リベサヨで、フェミで、PTAで、意識高い系、みたいな認識。でも日本にはそんなに差別はないって信じてるひとの、認識。世界観。みえてる世の中。ふつうの世の中。

アメリカが舞台の『bare』ですが、ついでに日本の与党が出してるLGBTについての見解がこちら。(http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/132489_2.pdf

ジェンダーフリーについてが、某極右団体のサイトにあるデマ記述の流用でびっくらこいたこと以外は、ふつうすぎるほどふつうです(極右団体は日◯会議で検索だ!)
 
どこがふつうかっていうと、「ついていけないなあ~じゃないよ!!!!どこ向け案内だよ!!あくまでパンピーさま目線かよ!!!カミングアウトという自己決定の側面はスポイルか~~~~!!!!」っていうあたりです。

でもこれってすごくふつう。国を運営してくれてる政府のふつう。国から大衆まで、これが当たり前。異物扱いのまま、まあアリなんじゃない、国際的にはそうだしね、みたいな態度。

『bare』も同じように、こんなふつうの世の中の物語です。特別悲劇的な世界観でも、なんでもない。ジェイソンを哀れみ、同情をよせる、ほかでもない観客のあなたがこの悲劇を生んだパズルのピースです。

5.「赦す」こと

ここまで書いて「そんなふうに世の中を僻んでるからセクマイさまが認められないんじゃないの(笑)」という仮想敵の声が聞こえてきました。いや、じっさいよくみかけるんですこういうの……あながち被害妄想じゃないの……。

でも、生きていく以上は、そういう世界を、自分が死なない程度に赦しながら、それなりに関係を繋いでいかなければいけないのは、ちゃんと知ってます。

ピーターは母親からやんわりと拒絶され続けました。これは「コミットしないことによる消極的な否定」です。ジェイソンはカミングアウトを望むピーターを〈夢でもみてるのか〉と怒りますが、まったく逆で、ピーターは「現実」を知った上で、これからのためにカミングアウトが必要であると確信していました。

そんなピーターを理解していたのはシスター・シャンテルです。

彼女は〈正義をおろそかにしちゃだめ!〉と歌います。キリスト教の福音でこそ同性愛は否定されていますが、いまは当たり前の「天賦人権論」はほかでもないキリスト教的発想の賜物です。神さまが与えてくれた人権という正義に基づく立場を明確にし、カミングアウトの欲求じたいをひたすら否定されてきたピーターに寄り添ってくれたシスターシャンテル。彼女は神さまによって与えられてるはずの黒人という属性を否定されてきたのだろうと思います。

愛する母親でさえ、ピーターの神さまから与えられた属性を(セクシュアリティ)をすんなり受け止めてはくれない。

でも、たしかに母子の愛情はあって、母親は決して自分を「切る」存在ではないと信じたい。

たとえゲイに対する理解はなくても、友達だし家族なのに変わりない。
それが自分たちを傷つけるものと同一であったとしても、愛も加害も紙一重で、人間どうしは生きていかなきゃいけない。

〈無言と 無音と 無情の 向こうは 心つなぐ 愛 そして 光 真実 響く 生の声〉とジェイソンを喪ったピーターが歌います。

終盤は、すごく残酷な筋書きにも見えます。けれども、あんなに怯えて自分を見失っていたジェイソンが、理性を喪ってやっと、〈偽りだらけの世界で見つけた本物〉であるピーターを素直に求められたこと。愛とかしあわせとか、そういうすべてを彼に託して、眠れたことは、うつくしい終わりだと、そう思いました。

6.BLとしての『bare』

大真面目なセクシャルマイノリティの話として『bare』を語って来ましたが、『bare』はBL作品としてもすごく楽しめるしセクシーだし、ドキドキすると思います。(すごくドキドキした)

なんでこんなことを書いたかっていうと、こういう話をしていると、同性愛作品をBLとして消費することに罪悪感を覚えたり、責められてるんじゃないかと感じる人もいるんじゃないかしらと思うからです。

細かいことはそろそろ書くのがしんどい感じなんですけど(徹夜でこれ書いてます)少なくともわたしにそれを責める意図はないです。

だけど、同性愛をBLだけで受け止めるのは、個人の自由だけど、ちょっと寂しいかなって思います。

セクシャルマイノリティに限らず、自分とはちがう視点で世界をみてるひともいて、 自分とはちがう、助けのいる、そういう人が、どんなふうに見えて、傷ついたり、絶望したり、自分を見失ったりするのか、『bare』にはたくさん、その手がかりが散らばってると思ったので、それぞれの感受性で受け止めても、すごく豊かな物語が得られるんじゃないかって、そういう意味で、味わう手がかりになってくれたら、もう、勢いでぜんぶぶちまけた甲斐もあるってやつ……。

7.登場人物それぞれと、俳優さんについて

■ジェイソン/鯨井 康介

登場した途端ぱっと視線を引く日本人離れしたフィジカルに、なんて華やかな役者さんだろうと打ちのめされる心地がしました。さすがジェイソン!そこにシビれるあこがれるゥ!されてる姿の、どんなにか似合うこと似合うこと……。お顔立ちは化粧映えする歌舞伎役者みたいだって思っていたんですけれど、はじめてこんなに間近で観て(TDCHの上階客席からしか拝見したことなかったのよ)、あのびっくりするほどスラッと長い手足と骨っぽい胴に小さな顔が乗ってるの。何頭身あるんですか。遠近歪むわ。

鯨井さんの伏せ目+流し目のコンボが最高にうつくしいと思うんですね。それで田村ピーターを背中から甘くホールドしちゃって、やんわりじっとりママとの電話を邪魔しちゃうの。キスで黙らせるのもお上手ですこと。なんだこれ洋ドラでも観てるみたい。いや洋モノだけど。えっちでした。

セクシーなのはもちろん、内面の部分、器用で人気者でコミュ力の高いと見せかけて、根っこは繊細で真面目な青少年が、ほんとうに板についてる。手嶋純太もね、そんな感じで演じてくださいましたね。加えてジェイソンには、揺らぐ気持ちのストレスから、男性的な傲慢さや横暴さを感じたんですけど、カミングアウトをあきらめないピーターに〈言えばいい!〉と声を高くしたり、妊娠のことを告げたいアイヴィを、しつこいと言わんばかりにうんざり振り払うの、いかにも「イラついてる男性」の怖い感じがあふれてて、いちいち客席でビクビクしてしまった。あ~……デキる男のこういう我の通し方すごく想像つく……。すごくわかる……。

ルーカスからデリバリーされたドラッグでトランスのうちに、いままでの見栄も、背伸びも、社会性も、ぜんぶなかったみたいに、ピーターに甘えて、愛しい気持ちでいっぱいになって、生涯をとじたジェイソン。あれだけ彼に対してイニシアチブを取りたがっていたのが嘘みたいに、ピーターに縋って、いまとなっては素気なくされて(だってほかでもないジェイソンがピーターにそういう態度を取りつづけていたのだから)、それでも、唯一の真実だった、彼への愛だけを残した、まるで純度の高いかたまりになって、世界が終わるの。

流れ落ちるみたいな終盤のそれを、痛みの蓄積を感じさせながら空気をじんわりやわらかくして、変化していくジェイソンに、照明じゃなくて舞台の色が変わったみたい。

そういえば、死後、真っ白い服を着てあらわれたジェイソンに、2012年版映画の『レ・ミゼラブル』のラストを思い出しました。今際のきわのジャン・ヴァルジャンのもとに、ずっと昔に亡くなった、アン・ハサウェイ演じるファンティーヌが、やっぱり白い服で迎えにくるの。鯨井さんがアン・ハサウェイになった…………って感じ入ったんですけど文章にするとよくわからない。

■ピーター/田村 良太

罪の意識を感じれば感じるほど「なんとかしなきゃ!!!!」っていうポジティブさがあふれてくる芯のつよい子。ジェイソンとは異なる意味で真面目で、夢想家で。きっと想像力が高くて空想に心をあずけられるタイプの少年だったから、現実の材料からじゃどう考えても絶望的な未来さえ、ふわっと羽ばたいて求めることができたのかもしれないなって思いました。

お顔立ちといい(鯨井さんと比べた)身体つきといい、歌声だって少年めいてかわいいんですけど、筋がピシッと通ってる印象が頼もしいくらい。ジェイソンが理性型だけど揺らぎやすい感情を抱えているなら、ピーターは直感型だけど向かうべき真理を本能ですっかり理解している感じ。家族や周囲を騙しながら生きている罪悪感と、それでも自分自身のこの魂が、なんら恥じるものではないと確信しているから、パワフルなマリアさまに熱く励まされる夢だって見ちゃう。それはおそらくジェイソンが自慢の恋人で、ピーター自身のぜんぶを賭けて「大好き」だって言えるようなひとだったから、「隠すなんてこんなおかしい話はない」と思う気持ちもあったのかもしれないね。

ところがどっこい、彼は先見の明があり過ぎたんだと思っています。カミングアウトにはいろんな動機があるけれど、当事者じゃない人にとって、カミングアウトはほとんど「自己PR」と理解されるんじゃないかしら。「わたしをわかって!」みたいな。でも、ピーターの場合は個人的なそれを越えて、「社会への還元」という使命感もあったと思います。どういうことかというと、自分自身が周囲に認知されるよう働きかけることが、ひいては社会のあらゆるひとや、同胞や、大切な恋人のためになるという信念。駆け落ちを提案するジェイソンに対して静かに〈隠してなんか生きていけない〉と言ったのも、自分が暗数となることがすなわち、社会的正義の不履行状態を先延ばしにすることに繋がると、なんとな~く理解していたのかもしれません。

とにかく賢さと迂闊さのハイブリッドみたいなたくましいピュアボーイだと考えたんですけど、めげずにカミングアウトを渇望できる姿に、だいぶ尊敬とか理想化したい気持ちを詰め込んでしまってるので、もう一度観たらまたべつの印象になるのかも……(しかし観れない)

■アイヴィ/ 増田 有華

皆本麻帆版アイヴィがぱっと見、ゆるふわセクシーな女の子なら、増田有華アイヴィはまあ~~~気位の高そうで気も強そうで男の子たちなんかみんなアッシーにしてるんだろうな!!!!くらいのツンと澄ますのがいかにも似合いそうなお嬢さんなのに中身えらいぴゅあっぴゅあやんけ。踊りに誘うマットにやんわり〈次の曲でね〉と断るやりとり、いくら想い人のジェイソンに心を傾けてウットリしていた最中とはいえ、ふつうにやわらかくて可愛くないですか。ビッチなんて周りに言われてるけど、女豹的なガッツキはいっさい感じられなくて、どちらかといえば自己承認欲求の結果として男が絶えないだけなんじゃ……と思っていたら、アイヴィはだれよりも「子ども」である自分を背伸びで隠してる、ただの歳相応の女の子でした。

少女漫画脳なのでてっきりマットとくっつくと思っていたんですよ。〈二番手〉の彼だけど、アイヴィを真実に愛しているのはマットだった!不毛に愛するより、健気に愛されるうちにエロスではないアガペーとしての愛情をマットに抱きはじめるアイヴィ……!まで妄想していたんですがマットがジェイソンとピーターのアウティングに走りやがったのでその空想はぜんぶおじゃんになりました。

でもナディアとのケンカ百合っぷるも同時進行していたのでなにも困ることはなかったです。ひどい男に恋しちゃって、ただの片想いに見合わない代償を払ってしまったアイヴィだから、もしもジェイソンの子どもを産むことに決めたのだったら、腐れ縁で親友のナディアとふたりでたくましく赤ちゃん育ててほしいなって思いました。そして、現れる不穏な陰――――アイヴィから子どもを奪おうと画策するのは、息子を喪い「代わり」を求めるジェイソンの父親だった!ナディアはアイヴィとその子どもを、愛するパパから護ることができるのか!?!?みたいな続編は脳内で妄想しとくね。

ところで、ジェイソンが避妊をしていなかったのは、ピーターとセーフセックスの習慣がなかったからかなあと思いました。あるいは、精神的に不安定だったからすっかり頭から抜けていたか、「アイヴィはビッチだからピル飲んでる」と偏見を抱いていたのか、まさか一回でそうなるとは思っていなかったのか。好きな人といい感じになったと信じてセックスしたらまさか避妊されてなくてリプロダクティブ・ライツ/ヘルスを犯された挙句に相手にその気がないとわかったアイヴィどれだけ可哀想だよ。つらいよ。やっぱりナディアとしあわせになるべき。

■ナディア/ 谷口 ゆうな

青少年である登場人物のなかでいちばん「悩みを過去においていくらか悟った段階にあるひと」。もちろん、ナディアだってコンプレックスの胸のチリチリから逃れられたわけではないんですけど、神さまがあたえた理不尽をまともに背負い込むステップは過ぎて、どうにかガス抜きできているような状態。谷口さんがこれまたパワフルですてきでいちいち笑わせにかかってくれるんですけど、これは笑わないとナディアに対して失礼だという気持ちと、笑ってしまうには根っこの重たさをヒシヒシ感じてしまって、いや結局笑っちゃうんですけど、「ギャグとして面白かったから」というよりも「彼女の存在が切なくて愛しいから」笑っちゃうような、とてもふくざつな気持ちにさせてくれました。

腐れ縁のアイヴィはナディアにとって愛すべき仮想敵だったと思うんです。自分が滑稽をウリにした女であるために、アイヴィはお高く止まっていけ好かない、それはそれはかわいいビッチであるべきだった。なのにアイヴィは女の不幸を背負い込んで、いつまでもナディアの仮想敵のままでいてくれない。

とはいえナディアは自慢の兄の古女房のようなポジションのおかげで、ささやかな心の安寧を得ていたと思うんです。だから、その兄すらもアイヴィに奪われたときは、さすがに傷ついてしまった。

それでもナディアはきっと、アイヴィの不幸な姿を見るくらいなら、自分が傷つくだけの未来のほうがよかったって、そう願うようなやさしい子だったと思います。だれよりも賢くてやさしいからあきらめだって早くって、自分の悩みだってたくさんあるのに、ちゃんと笑って友達や兄を抱きしめてあげられる子。

■シスター・シャンテル/ 入絵 加奈子

子供の頃に観ていた大好きなアニメ『ビックリマン2000』に声優として出演されていたのが入絵加奈子さんなんですね。個人的にはそんな感じで、入絵加奈子さんの生演技を観れたのがほんとうに感激でした。『bare』は鯨井さんが出ているからチェックしていたけど、よし観たい!!!!とまで気持ちを持ってこれたのは、入絵さんがご出演されていたから。そしてじっさいに、歌って踊っておどけて演じている入絵さんを目の前にして、そのパワフルさと「観客を楽しませてくれる」圧倒的なかんぺきさに、女神さまはここにいたんだって心震えるくらい。女神さまというかマリアさまだね。

シスター・シャンテルもマリアさまもピーターを導き鼓舞する存在です。現実の演劇指導においてはピーターを認め、幻想の夢のなかにおいてはピーターの迷いを晴らしてくれます。脚本のトリックとしては、まず「なぜかシスターに似てるマリアさまが夢に出てくる」ところからはじまり、その不思議はそのままに物語は進行して、「現実のシスターもまたピーターの味方である」と明かされて、ハイコンテクストにおいて夢と現実がリンクするきれいなオチ。これだけじゃなくて『bare』の脚本のなかには対人関係ごとにそれぞれ物語が用意されていて、それらが平行して進んでいくような印象を受けました。構成としてきれい。

すでに書きましたが、シスターが〈すべては神にとって必要なもの〉と説き、それが〈おろそかにしてはいけない正義〉と語るのは、既存の言葉を使うと「天賦人権論」にあたります。ひとがひととして受容されなくてはいけない「人権」の根拠は、なにかの役に立つからでも、なにかしらに優れているからでもなく、ただ「それが神に与えられた命」であるからです。

いまいち浮世離れしているみたいな論拠ですが、損得勘定や偏愛を伴わない、純粋な博愛とか、ひたすらにきれいなものは、決して人間の理屈ではつくれないものなのかもしれません。でも人間にはきれいなものが必要だし、それがなければ生きていけないから、キリスト教の信仰がなくたって、まるで現実には存在し得ないイデアを、大真面目な顔で、渇仰してもいいんじゃないかしらと思います。

 

8.『bare』には関係のない補足

※同性愛の話題になると定期的に「レズはメンヘラばっかり」「レズにこんな目に遭わされた」というツイートを見かけますがほんとうに御愁傷様です。彼女、ジェイソンみたいに自分を見失ってたのかもしれないよ。ぶっちゃけ正直わたしにも身に覚えがある。

※こうしてネットには書いてますけど、わたしがバイセクシュアルであることは家族にはぜったい言えないです。正確にいえば、十代の頃、母親になんとな~く「わたし女の子が好きかも…」と言ったら(当時はほぼほぼ付き合ってる女の子がいました)「思春期の気の迷いだよ^^」とバッサリ切られてしまったので、それ以降はお口チャックです。思えばたったささいな一言ですが、人生において決して口にしてはいけないことを思い知ったような気分だったし、こんなにネットで騒いでるいまでさえ、同性愛を自らの心体に関わるものとして、家族に発信する勇気はないです。たとえ打ち明けて否定されなかったとしても、その理解はきっと偏見を帯びたものであるだろうし、そんなことを考えると、とてもピーターのように「理解」を求めていく気力はない。活動家を揶揄する当事者、とても多いけれど、フリーライダーでいるからには先陣を切ってくれる人たちをバカにしちゃいけないよ。ピンクウォッシュについての批判はともかくね。

※カミングアウトされたらどうすればいいのって話があると思うんですけど、人それぞれとしか言いようがないなかで、踏まえておきたいのは「必ずしも自己PRが動機ではないよ」ということかしら……。「なにアピールなの???」とか思ってしまったら、それはもうフィルターがガッツリかかってる状態じゃないかと思うので、色眼鏡を外して目の前のひとの真意を汲んであげてください。やけっぱちとかその場のノリとか酒のいきおいで口に出しちゃうひともいると思うから。(ちなみにわたしが冒頭でカミングアウトしたのはこの記事を書くために必要だった、それ以上でもそれ以下でもないですからね)

※それからカミングアウトまで至るようなだいたいの人は「セクシャルマイノリティであること自体を悩んでるわけではない」どころか、自分なりの自認を持って生きてると思います。だから、一方的にカミングアウトしといて、わがままかもしれないけど、あんまりセクシャルマイノリティに対する自分の考察というか価値判断は挟まないで、等身大で受け答えをすればいいんじゃないかしらと思います。あらゆる自己開示を受けるときにも共通してるけど、人間それぞれの事情で生きてるのに対して、生半可に評論家ぶるのがね、いちばん相手を傷つけるから。とにかくうなずいて、聞き役に徹すればいい話。センシティブな打ち明け話はみんなそういうもんじゃないかしら。

舞台『スペーストラベロイド』(2018年)_感想

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遅くなりましたが2018年9月末から10月上旬にかけて上演された『スペーストラベロイド』の感想です。演劇集団イヌッコロの羽仁修さんが脚本を手掛け、2015年と2016年にも上演されたお芝居の再々演。これはもう面白さお墨付きだな!と期待をかけて臨みました。「ごまかし通す、自分のために。」――このキャッチフレーズだけですでにジワジワくる。ぜったいおもしろいやつ。このビジュアル本当に大好きなので部屋に飾ってます。

結論から言えば、テクニカルに練られた脚本がとにかく面白かった。羽仁さんがパンフレットに寄せていた「広大な宇宙で、ものすごく小さな人間関係のトラブルを描いています」そのコメントの通り、一人からはじまったひとつの「嘘」を守るためにやがて大勢の人の嘘と勘違いが積み重なっていく。

ひとつの「嘘」と整合性を図るために新しく生まれていく素っ頓狂な嘘。誤解があっても「嘘」を守るために訂正できず、そのまま加速される勘違い。そのかたわらで組織に属するパイロットたちの真摯な悩みや夢があって、シリアスに転ぶかと思いきや、ほのぼのした誤解がそれを許さない(笑) 登場人物のほとんどが勘違いな状況を受け入れている中で、観客だけが俯瞰してすべてを把握しているシチュエーションが面白いんですよね。久野木さん演じる火野さんがまあかわいい。

一方で本筋を取り巻く「笑い」はあまり好みではなかったのが個人的には残念なところ。見た目イジリとか、ゲイ/トランスイジリとか、現実にあるイジメを想起させてあんまり笑えないんですよね……。見た目イジリに関しては、メイサ役の牧田さんがクソミソ言われるに足る強烈な身体性を持っていたとは言い難く説得力を感じなかった。加えて、元々のメイサが女性型アンドロイドを予定されていたことは 2014年人工知能学会誌表紙を巡って提起された数々の問題点(リンク先:学会誌論文pdf)を思い起こさせて「2050年の発想じゃないな」とさえ思った。そしてセクシャルマイノリティを「笑い」に落とし込む問題点は以下のブログがとても参考になるのでご興味あればぜひ。「火野くんはコレなのかな?(手の甲そらし)」はだいぶキツイ…

www.ishiyuri.com

舞台『朱を喰らうモノの月』(2018年)_感想

szhuwo-stage.com

 応援している俳優・八島諒さんの初主演作品『朱を喰らうモノの月~標月島編~』を観劇しました。すっかり斜に構えた大人なのでタイトルが発表になった当初は「なんだこの厨二感は。えらいタイトルバイバイだな」と心配になったり不安になったりすることもありました。なにせ原作のない作品で、かつ劇団のように一定の評価がみえるものでもない。出演者への信頼のみで臨んだほとんど未知数での観劇です。

今となっては、そうやってファンが一方的にネガティブな気持ちを募らせているあいだにも、作り手は一丸となって作品づくりに励んでくれていたんだなあと反省することしきりです。朱月面白かった!!しばらくサボってた二次創作活動を再開したいなと思うくらいに!!

1.朱月ってどんな作品?

少年漫画です。誤解を恐れず言えば、昔懐かしい設定ガバガバな勢いで読めちゃう少年漫画。タイトルは高校生の作ったケータイサイトなんだけどフタを開けてみたら聖闘士星矢だった。題材はロマンチックなのに「ようは小宇宙なのです」で解決しちゃうアツい作品。島のつま弾き者だった主人公が仲間を守るために成長していく王道展開です。王道だからこそそれぞれのキャラクターの個性が立っていて、限られたシーンから登場人物のひととなりがよくわかる。

アクションシーンがメインの舞台を観たのははじめてでした。劇中の見せ場として申し訳ばかりに添えられた「カッコイイ」殺陣は知っていたけど、殺陣がこんなにアツいものだとは知らなかった。少年漫画のバトルシーンのようにアクションそのものが面白い。「生身の人間がCGもなく挑むアクションなんてたかがしれてるんじゃないか?スピード感や人のものならざる超越感は、とても殺陣だけで表現できる代物ではないのでは?」そんな先入観を吹き飛ばすくらい夢中で魅入ってしまいました。

登場人物は総勢19名。これだけの人数にも関わらず、シーンの切り替えに一切の過不足がない。ないがしろにされる人物はいないし見せ場もある。逆に、キャラクターのために存在してストーリーの足を引っ張るような蛇足はひとつもない。ネームとして完璧。ただし、そのぶん決定的な情報の不足も目立ち、意図的なのか片手落ちなのかは判断しかねる部分もあったのですが、そんな脚本の魅力と不完全さも昔懐かしのマンガっぽいなあと却って愛着を感じています。

2.登場人物について

 アラン(八島諒)

よそさまの感想を検索したら「標月島の天使」「太陽」「光」等々呼ばれていて最高だった。八島諒さん演じる、明るくて純粋でまっすぐな主人公。朱月のキャラクタービジュアルが発表されたとき、ご本人の人柄とかけ離れた役どころなのかな?と想像していたけれど、イメージぴったりのハマり役でした。

舞台『弱虫ペダル』以来、いろんな役を演じるのを見てきて、八島さんの不思議だなあと思うのはどの役柄もまるで八島さん本人と錯覚してしまうこと。もちろん普段「八島諒」としてファンに見せてくれる姿とまったく違う振る舞いなんだけれど、演技と一切感じさせない自然さがいつもあること。芝居っ気のある役者さんて一挙一動にエンターテイメント性があるけれど、八島さんは「生まれてからこういう風に成長したんだな」と錯覚させる役者さんなんだと思います。アランもご本人とは違うはずなのに、八島さんそのものに見えてしまう。『スペーストラベロイド』のときも「大ウソつきにも関わらずこのある意味まっすぐなところ、育ち方を間違えた八島さんだな……」と思ったし。

アランの他人を恨まない人柄は、八島さんだから説得力を持って受け止められたのかなと思っています。乱暴な言い方をしてしまうと、アランのキャラクターメイクは「加害者側にとって都合のいいマイノリティ」と受け止められかねないものでした。あきらめとはいえ自らの被差別性を受け入れていて、メギドナの有用性をもって島の仲間に貢献するアランは、そのやさしさのぶんだけ心無い人々に利用され易い。

設定だけ見ればだいぶ危うい描き方のように感じたものの、作中で「利用する他者」として人間が浮上したこと・彼らを無邪気に受け止めていたアランにラストわずかばかりの陰りが見えたこと・ほかでもない八島さんがアランに嘘のない命を吹き込んだこと、いろんな要素が重なって、斜に構えた自分でもすんなり主人公像が入ってきたのかもしれません。

本当に演じるのむずかしいと思うんですよ「いい子」って。悪性よりも善性のほうがあっというまに「芝居」を見抜かれてしまうから。でもアランは非の打ちどころもないほどアランで、完璧で、仕上がりが自然すぎて、観劇後言うことが浮かばなかったほど。だって彼は生まれながらのアランだったんだから。

はじめてメギドナを覚醒させて暴走したシーン。初見のまだよく世界観を飲み込めてなかったとき、一気に引き込まれるきっかけをつくってくれた大好きな場面。迫力があって、魂が込められていて、あらためて暴発する感情を表現させたら世界一だと思った。千秋楽のラストバトルも気持ちの込め方が尋常じゃなくて鳥肌が立った。八島さんのファンでよかった。立派な主人公で座長だった。世界一かっこよくてかわいい300歳児だった。ジュドがいつまでもアランを子ども扱いしちゃうの、わかる。

イザナ(松村泰一郎)・ローレル(騎田悠暉)・ジュド(登野城佑真)

イザナとローレルの関係がきらいな女なんていなくない…?て初日後のたうち回りながら過ごしてたらを回追うごとにふたりに萌え萌えしてる人が増えていったの今年最大の「ダヨネー!」でした。ローレルがイザナを在り方の異なるライバルとして意識してるの萌えるし、イザナがローレルをからかったりペリエに襲われてるのを楽しそうに傍観してるの萌えるし、仲悪そうで信頼しあってるところも萌える。エッずるい……なにこれ……禿げる……。

戦闘後イザナがおっさんみたいに「つかれたぁ~!」って言ってるのすごく好き。アランの頼りになる年齢不詳のおじさんって感じでとてもチャーミング。あの飄飄としたカッコよさ、みんな好きでしょ。演じる松村さんはカーテンコールのときに八島さんをいつも見守ってくれていたのが印象的でした。千秋楽で八島さんの涙にもらい泣きしてたのバッチリみたぜ。超超いい人。

ローレルを演じる騎田さんはビジュアルも立ち振る舞いもすべてが美しくて完璧なローレルそのもの。アランのことは邪見にしてたけど、彼の父親であるヴィラルのことは尊敬していて、人一倍島のことは想っていて、一匹狼で自由奔放なイザナとは対照的に忠誠心や帰属心の厚い人。一方でイザナやヴィラルの前ではアランの生まれを理由に責め立てるようなことは言わなかったと思うし、イザナもアランが凹んでいた理由を「シオンか」と断定していたし(「ローレルもだよ!?」ってめちゃくちゃツッコミ入れたかった)そういうところに人間関係が垣間見えて奥行きを感じました。保守的な正義感を理由にした排他性に、わずかでもヴィラルの息子であるアランを気に掛ける気持ちがあったのか、それはわからないけれど、なんだか可愛い人。

みんな大好き冷静で頼れる相談役ジュドさん。たぶん朱月いちばんの被害者。じつは島の禁忌おかしてるわ脅迫を受けるわ操られるわ「もっと冷静な人だと思ってました」とか言われちゃうわ散々なんですけど、その弱さを抱えた二面性、みんな大好きでしょ……。私は大好き……。

ブライに「一番吸血鬼らしい」と言わしめたのは月一回のお食事なんだろうけど、アクションもすごく吸血鬼っぽい。ゆったりとブレない足さばきや体幹、鎌首をもたげた蛇のような手つき、まるで拳法みたいで登場人物の中でも異質だったように感じました。そしてシオンの怪しげな「記憶をなくす」薬を利用する冷徹さがあると思いきや、「他者を操る薬」には抵抗を感じる心の柔らかさ。アランの力を拙速に利用しようとしてサトナに咎められるくらい余裕がなかったのだから、「他者を操る薬」くらい検討に入れてもよかったのに、それはできなかったんですよね。戦力増強と倫理観の板挟みになっていたジュドにとってアランの「おれを信じて」は救いの言葉でもあったのかなあと思いました。

イザナに比べるとアランに対して一歩引いたように見えたジュドだけど、怪我をみつけて心配したり、最初から最後まで彼を「子ども」と扱っていたり、アランからは「親父より頼りになる」と信頼されていたり、劇中に描かれなかった部分でアランと交流があったのかなと想像膨らみます。「子ども相手にムキになって」とか「子どもは早く寝ろ」とかアランを子ども扱いするの、あたたかくて本当に好きでした。でも、300歳って、ヴァンパイア的に本当に子どもなんだろうか……アランの成長が遅いだけとかないだろうか……

サトナ(小俣一生)・シオン(蔵田尚樹)・ヴィラル(浅倉一男

アランの親友サトナくん。ボウル被ってたり、父と子の話でギャン泣きしてたり、ペリエ戦で「やったー!」って昇竜拳してたり、なんかもうかわいい。あと脚が細い。少年漫画やアニメによくいる、熱血主人公の傍らに立つ頭脳派ボーイ。演じる小俣さんはスラッと大人っぽいのに劇中ではアランと同世代の子どもにしか見えなかった。事前放送の『りぷっthena』観てたけどぜんぜん印象が違った。

シオンは友人の言ってた「CLAMPの世界の住人」がこれ以上ないほどしっくりくるビジュアル。脚が小枝。世界観に欠かせないご都合主義的便利アイテムを提供してくれる朱月の屋台骨と言っても過言ではない。まったく戦えなさそうなところがまたかわいい!彼の発明は結局ヴァンパイア側の足を引っ張ってしまったし、アランをいじめるし、ぶっちゃけ外野でキャンキャン言ってるだけだし、そういうところがますます愛しくなっちゃうおいしいキャラ。最終的にカイルの面倒みちゃうのズルくないですか!?蔵田さんがTwitterにあげたアナザーストーリー動画やばくないですか!?ありがとうございます!需要をわかってる!

ヴィラルパパ。あいさつで「アランが成長したらこうなるんじゃないかと(八島さんを)研究していた」と話されていたんですが、父親役を演じるにあたりそういう役作りもあるのかと目から鱗でした。振り返ればたしかにお茶目だしちょっとふわふわしてた。アクションも歴戦の勇者の肉弾戦!血がたぎる!って感じでカッコよかったなあ。友人がツッコミ入れててコーヒー吹いたんだけれど人間から逃げ隠れる程度には身体が痺れていたのに女は抱けるその気合がすごい。パパやるじゃん。

ブライ(古川龍慶)・トール(酒井昂迪)・グリア(春川真広)

アランの叔父さんにしてラスボスのブライ。メギドナの力に価値を見出したり、できれば生かしておきたいとも取れるような言動があったりしたのは、彼の有用性に着目しただけではなく、わずかでも肉親の情があったらいいなあと願ってしまいました。「守られているアランが羨ましい」と言ったのは母親代わりの姉を殺されて独りになってしまった想いが込められていたのかな、とも。千秋楽のバトルの感情の猛りがすさまじくて鳥肌立った。

ただ「ヴァンパイアと食人鬼の500年に渡る戦い」と語られながら、ブライが食人鬼と化したのがアランの生まれた300年前だと判明したの、観ている人たちだいたい首を傾げたんじゃないかなあ。もしかしたら標月島の住人が認識している「ヴァンパイアと食人鬼の戦い」とブライはあまり関係がないのかもしれない。例えば、食人鬼はブライのように後天的に発生するもので、彼らのコミュニティはすでに出来上がっており、そこにブライは引き入れられた。ヴィラルへの復讐心を抱くブライとヴァンパイアに敵対する食人鬼たちの利害が一致したため、彼らは行動を共にしていた。そもそも、「人を食べることで人外の力を得る(=食人鬼になる)」「食人鬼に噛まれた人間もまた食人鬼になる」ことを最初に発見したのがトールだった……とか。いろいろ想像しちゃいました。

「食人鬼は500年ヴァンパイアと戦っていた」物語の根幹に関わる設定にも関わらず、その理由は明かされなかったり、明かされたブライの動機は私怨にとどまるものだったり、むしろブライの言うことが食人鬼VSヴァンパイアの真実ならかなり設定と矛盾しない?説明不足じゃない?と思わされたり。そういうところは朱月の脚本の爪の甘いところだなあと思いました。前述のとおり、続編や裏設定を見越しての意図的なものか、単なる片手落ちなのかは判断つきかねるんですけど。登場人物の露出に関わるバランスが神がかっているぶん、構築された世界観を観客に提示するテクニカル面での拙さは本当に惜しかった。

そんなこんなでトールは裏ボスだと思うんです!人間の仮装をするとき、カイルには七五三かってくらい気合を入れていたのにペリエにはローコストだったのが面白かった。歪んでいるかもしれないけど、トールなりにカイルを可愛がっているような印象を受けました。「ボクが立派な食人鬼にしてあげようねえ」くらい思ってたんじゃないかな…。続編が来たらトールはぜったいカイルをさらいにくるしワンチャン食人鬼に戻そうとしてシオンと対決するに花京院の魂を賭けよう。

グリアの体温を感じさせない食人鬼らしさがとても好き。かと思えばトリートメント云々、幽遊白書の鴉みたいな台詞で耽美さを醸し出してくるからあなどれない。単純に戦いが好きだったボルコや、働きたくないけど仲間への情で動いていたルークと違って、「ヴァンパイアとの対決」をいちばん意識していたのはグリアだったんじゃないかな。初出のビジュアルといちばん印象変わったのがグリアだと思う。テラシマさんモードのつなぎが好きです。

ボルコ(阿部大地)・ルーク(石井涼太)・ペリエ(久保田浩介)・カイル(船橋拓幹)

 ボルコとルーク、やんちゃな子猫の兄弟みたいで本当に可愛かった!ボルコ役の阿部さんは華奢な体格で強いボルコを演じることを不安に感じていたようなお話もあったんですけど、骨っぽくて華奢で小柄だからこそ(びっくりするほど顔が小さい)ファンタジーのキャラクターめいた異能さがハマったんじゃないかなと思います。それこそ阿部さん以外のボルコが想像できないくらい。戦闘ジャンキーみたいなキャラだけど死んだふりもできる二面性がすごくいいキャラ。朱月がジャンプのマンガだったら人気投票上位に食い込んでた。

ルーク役の石井さん、正直申し上げて女の子かと思った。えっ男ばかりの座組って言ってたし男性だよね…?と何度も目を疑った。しかも1987年生まれの30代だった。「ウソやん!!!!!だって女子校時代の同級生にあんな子いたよ!?!?!?」ってびっくりした。新しいもの好きで仲間想いのルークはかわいかったなあ。基本的に働きたくない現代っ子だけど仲間に流されがち。最期はまるでボルコを庇うように倒れたのが印象的でした。

みんな大好きペリエちゃん。「柴田亜美のマンガでこんなキャラ山ほどいたな!!雌雄同体ってイトウくんか!!南国少年パプワくんか!!」って思ってますます朱月が懐かし少年漫画のイメージに……。もちろん「性的にふるまうオネエキャラ」のステレオタイプな表象は当事者にとって必ずしも面白いものではないし、作り手にとっても「これを出しておけばウケる」イージーで便利なアイコンでしかないことは、作品に関わらず常に抱いている批判です。それでも演じる久保田さんが回を追うごとに「ペリエちゃん」に命を吹き込んでくれた印象があって、脚本だけでは表現できない奥行きが生まれたのかなあと感じました。特に千秋楽、サトナに「ブス!!」と言われて「知ってるわよ!!!!」「これでも頑張ってんのよ!!!!」と言い返したのは最高だった。世界中の女を代弁した。本当にいい女に仕上がったなあ。

カイルを演じる船橋さんはすごく上手い役者さん。カイルとしてあんなにおどおどしてるのに、いやあなたそれだけじゃないよね!?と初見で目を見張るくらい。可愛い子どものお芝居から一点して「血の匂い」と反応したり、「ぼくは人間だ」と叫んだりするところ、本当に人が変わったようだったし、セリフの裏返りもまるで声優さんみたいに安定してレベルが高い。あれだけで底力を感じるには十分でした。前述のシオンとのアナザーストーリー可愛かったなあ。次回作があったらトールにさらわれて食人鬼に戻されてアランと涙のガチバトルしてほしい。

福江健(久保瑛則)・桐森亘(黒木歩夢)・野崎誠(宮本圭介)・花栗モミジ(咲楽星太)・鮫瀬稔(隅田滉太郎)

初出のビジュアルをみたとき「妖怪研究会ではなく妖怪では?」と疑うほど写真から醸される圧の凄まじかった人間チーム。幕が開いたら妖怪じゃなかったけど別の意味で圧の凄まじかった人間チーム。見せ場のシーン、舞台を観にきたな~!って感じがあってとても好きでした。いきなり自転車漕ぎだしたときは「ペダステに出演している八島さんが主演だからかな?」と笑ってたんですけど間髪入れずにソニックランのフォームに入って音速を超えたので「これ中の人に西田シャトナーファンがいるぞ!!!!!!」と確信しました。面白いよね破壊ランナー。ざっくりした説明を肉声やマイムで表現するところもシャトナー作品っぽくて故郷に帰ってきたような安心感に包まれました。演じる側は緩急がとても大変だったと思う。

オンナやらカネやら欲望に忠実な人間(というか異性愛男性)は、標月島の気高い面々に比べるとしょーもないほど俗っぽくて、悪と呼ぶには愚かさの勝る汚さもあって。ひとりひとりは苦笑いしちゃうほどチャーミングなんだけど、心無いだけの俗物の集まりが、いちばんどうしようもなくて。ヴァンパイアたちが人間と対立したのは吸血行為だけじゃない、そういう価値観の違いもあったのかなあと想像させられました。

3.続編やって

「標月島編」と銘打っていたりあからさまに「To Be Continued....」な終わり方だったのでふつうに考えたら続編を仄めかしているように感じるんですけど、たぶんそれも含めた演出なんだろうなと思います。だから野暮とは思いつつ、いち観客としての気持ちを示しておきたい。

続編やって~~~~!!

応援する八島さんの初主演が朱月で本当に幸せだったなあ。終わり。

映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)_感想

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klockworx-asia.com

(原題:택시운전사)光州事件(1980年)の実話をもとにした韓国映画。日本がバブル経済に浮かれていた頃、知られるように韓国は1987年の民主化宣言まで軍事政権下にあった。独裁の厳しいなか続いた民主化要求は、1979年・側近による大統領の暗殺事件をきっかけに「ソウルの春」として盛り上がりを見せる。ところが、その後再び実権を掌握した軍部は、戒厳令を敷き野党指導者を拘束するなどの弾圧を行った。映画はまさにその時代。韓国内でも差別的な取り扱いを受けていた地方・光州の学生デモが軍と衝突、一方的な虐殺を受けた。40年近い月日を経て、今なお犠牲の全容が明らかになっていない凄惨な事件である。

映画評論家・町山智浩が本作を『マッドマックス』に例えていたが、なるほどカー・アクションとして観客を盛り上げるエンタメ性に長けている。光州事件は情報統制の最中にあり、現地の惨状を世界はおろか山ひとつ隔てた周辺の住人でさえ知ることはなかった。これが明るみに出たのはアジア特派員として日本に駐在していたドイツ人記者(ユルゲン・ヒンツペーター)が危険を顧みず取材を行った成果である。光州が軍により封鎖される中、彼の取材を助けたソウルのタクシー運転手の目線で本作は描かれる。町中のデモに対し「こんなにいい国はないのに、何が不満なんだ」とこぼすような小市民であった彼は、一人娘との生活のために金払いのいいヒンツペーターを車に乗せ、何も知らず光州の町に足を踏み入れるのだった。

町山智浩氏のようにあえて他作品に例えるならば個人的には映画『レ・ミゼラブル』(2012年)を挙げたい。「民衆の歌」の切実な祈り。「二度と奴隷にはならぬ者の歌」の誠実な高揚。映画館で首元まで濡れるほど泣き続けたのははじめての体験だった。『レ・ミゼラブル』のような歴史性の高い群像ドラマとして、『マッドマックス 怒りのデスロード』のような娯楽性と気骨に溢れる物語として、未だ爪痕の深い史実を扱いながらも誠実な描き方に徹した本作は、娯楽映画としての出来栄えも一級だ。ドラマティックで壮大な映画を求めるすべての人におすすめしたい。

 余談だが、2000年前後の生まれの女性であれば、韓国コスメやファッションやスイーツへの憧れからアジア蔑視も実感の湧きづらいものになっているだろうが、それこそ積極的に文化に触れていかない限り、日本人は欧米を除くすべての国に対して差別意識を逃れることができない環境にあると感じている。特に旅行好きに顕著な傾向だが、「物価の安い国」として、「トイレの汚い国」として、「治安の悪い国」として、娯楽先としての快適性をもって他国を判断し、あまつさえこれをそのまま国の価値のように語ることがある。会話をしていると甚だ居心地が悪い。

はたして他国へのまなざしがそればかりでいいのだろうか? 我々にとっては旅行先でしかないその場所は、人々の生活の場であり、これまでの歩みの末でもある。消費のためではなく、政府方針レベルの利害ではなく、他国の歴史を知り、共感と尊敬を抱くことは、それほど難しいことだろうか。ソウルを出立したタクシー運転手と同じ、いまだ何も為していない平凡な人間として。その歴史に至る責任の一端を担う、ひとりの人間として。

舞台『PHOTOGRAPH51』(2018年)_感想

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あらすじ

世紀の大発見をしたのは彼女。ノーベル賞をもらったのは彼ら―――女性科学者が殆どいなかった1950年代、ユダヤ系イギリス人女性科学者ロザリンド・フランクリン板谷由夏)は遺伝学の最先端を誇るロンドンのキングスカレッジに結晶学のスペシャリストとして特別研究員の座を獲得する。当初、彼女は独自の研究を行う予定でキングスのポストを引き受けたのだが、同僚ウィルキンズ(神尾佑)は、出合い頭、彼女を助手として扱う。この雲行きの悪い出合いが、その後彼女たちの共同研究のチームワークの歪みを作るきっかけとなる。(公式サイトより一部引用)

www.umegei.com

 

1.ロザリンド・フランクリン

舞台・公式サイトのイントロダクションを引用する。「男性社会の科学研究室。研究に没頭し続ける孤高のリケジョ、ロザリンド・フランクリン“世紀の発見”ともいわれる、DNAの二重らせん構造の発見に貢献。」

担当者の意図的なものか無意識によるものか「孤高のリケジョ」という表現は彼女の置かれた状況を現代の問題として再現することに成功している。無意識であればまさしく皮肉だろう。この言葉が可視化するものは、ただ科学に邁進する者を、他でもない他者が性別によって分断する好奇の目そのものといっていい。本作は史実を元にしたフィクションである。

www.kagakudojin.co.jp

www.sogensha.co.jp

 

2.「孤高のリケジョ」のふれこみに潜む物語の本質

2015年、ニコール・キッドマンを主演に上演された本作だが、本編を通してロザリンド(板谷)の刺刺しさが目立つ。ウィルキンズ(神尾)が話しかける前からツンケンしていたようにも見えるが「気の強い女性」の表現だったのだろうか? とはいえ、ウィルキンズと出会ってからの彼女の頑なさには十分な「正当性」がある。

まず前提として、人間同士、思いやりのあるコミュニケーションの中で、目的意識を共有し、相互一致となって仕事をするに越したことはない。劇中でも繰り返し「あのとき協力しておけば」というような趣旨の俯瞰的なモノローグが挿入される。しかし、それはあくまで「お互いを尊重できる関係」での話に過ぎない。

断言しよう。もしロザリンドが「優しい女性」だった場合、ウィルキンズは彼女をあくまで補佐的な役割に留め、助手として扱い、彼女の成果を元に自分の論文を仕立てていたことだろう。それこそクリック(中村亀鶴)やワトソン(宮崎秋人)の登場を待つまでもない。

いや「優しい女性」は適切な表現ではない。「微笑みを絶やさず、明るく、男性を立てながらも出しゃばらない、仕事における女性一般と同じように、補佐的な扱いに甘んじる存在であったら」……ウィルキンズは後悔なく、彼女を助手として取り扱っていただろう。その裏づけに以下の記事を引用する。これは現代日本における女性研究者を取り巻く課題だ。「男性上司が、女性の学生、ポスドク助教などを秘書のように扱うケースがある。」と記載がある。女性たちの思いやりのあるコミュニケーションは男性にとって「奉仕」に歪められるのである。

科学に挑む女性研究者たち キャリアパスの現状と課題にせまる | Nature 日本語版 Focus | Nature Research

これを考えるとロザリンドがピシャリと跳ねのけていたのは賢明だった。現在の日本でこの有様なのだから、よっぽど周囲に恵まれない限り、まともな態度で女性研究者の独立など望むべくもない。

ところがウィルキンズにとってはそんなロザリンドの態度も青天の霹靂だ。「何か悪いことをしたわけでもない」のにいきなり不機嫌な態度を取られてしまう。さすがに同情せざるを得ない。また、ウィルキンズはこうも考えたかもしれない「いや、助手扱いしたのは確かにちょっと悪かったかもしれない。しかし、口が滑っただけだし、自分はすぐに考えを改めた。そんなに引きずることはないじゃないか? まったく、とんでもない女だ……」事実、この時点での彼らのやりとりだけ取り上げるなら、ロザリンドの過剰反応にさえ見える。

しかしながら実態は「この社会における女性科学者の扱いの結果」としてウィルキンズの発言があった。つまり、彼にとってはオリジナリティがあったかもしれない言葉も、ロザリンドにとってはここに至るまでに受けた様々なアンフェアの一部に過ぎない。ウィルキンズの助手扱いに「またか」とうんざりしたことは想像にかたくない。

むしろ友好的と言わんばかりのスパイスを交えてきたぶん質が悪い。ときに、あからさまな女性蔑視よりも、好意的に見せかけた無自覚の差別のほうがよっぽど厄介なものだ。公式サイトのイントロダクションで使用されていた「リケジョ」という言葉もまさしく「無自覚の差別」の典型だろう。

「リケジョという言葉が嫌いだ」

「リケジョ」という言葉に対する雑感まとめ - Togetter

 
3.信頼関係は社会構造の文脈の上に成り立つこと

〈ならば、ウィルキンズはロザリンドを「尊重」していなかったのか? 頑なな彼女と打ち解けようと努力をしていたにも拘わらず?〉

ロザリンドの警戒心にもめげず、ウィルキンズはアプローチを絶やさない。それは苛立ちを覚えながらも「良好な関係を築きたい」彼の善性であったと思う。それでもロザリンドは彼に心を開かない。そんな中、若いアメリカ人科学者・キャスパー(橋本淳)に、ロザリンドは手紙を通して心惹かれていく。この違いはどこから来るのか?

残念ながら、人間関係である以上、ああすれば信頼されるとか、あいつと同じことをしても信頼されないのはおかしいとか、そういう質の話ではない。恋の話であれば「あいつは恋人になれたのに自分がなれなかったのは不公平だ」なんて言う人がいたら「こいつはヤバイ」と一目瞭然なのに、ひとたび信頼関係の話題になってしまうとチーム形成のむずかしさから人は目を逸らせてしまう。本作ではロザリンドとウィルキンズがチームとして協働できなかったために「敗北」したので猶更である 。二人の関係形成の問題点をテーマのように錯覚しなかったかといえば嘘になるが、「この異性は信頼できるがこの異性は信頼できない(好き嫌いに関わらず)」という判断は女性として生きていれば身に覚えのある人も多いのではないだろうか?

男の価値観は女の人生を左右する。社会の方向性を定め、仕事場の決定権を握り、女性の被害を品定めし、経済的にも優位な立場にある。社会構造上、男性はそのような立場にある。この時代であればその傾向は顕著だろう。

故に女性にとって目の前の男性がどのような考え方をしているかは死活問題だ。ロザリンドの研究生活はウィルキンズの胸ひとつだった。下手をすれば助手として扱われていたし、研究者用の食堂に女性が入れないことについては無批判だった。その時点で彼がどうコミュニケーションを取り繕おうと手遅れなのはあきらかだ。そしてロザリンドが彼を信頼できなかったことを証明するように、ウィルキンズはワトソンたちに彼女の大切な成果を開陳してしまう。

これは意地の悪い考えだが、もしも、ウィルキンズのパートナーがそりの合わない男性だったら?ウィルキンズは愚痴のついでに彼の研究成果を開陳しただろうか?「怒るのではないか」「尊重するべきものの侵害ではないか」と想像が働いたのではないか?

ウィルキンズは決して悪意のある人間ではない。ロザリンドの成果を見せてしまったのも、彼女を怒らせたいとか困らせたいとか、そんな意図があったわけではない。無意識の油断だった。むしろそんな当たり前のことに「無意識でいられた」のが彼の差別意識であったのかもしれない。彼はロザリンドと友好関係を築きたいと願っていたし、惹かれてすらいたけれども、彼女を尊重することに気づけなかったのかもしれない。

それはウィルキンズも不平等な社会の被害者であったことに他ならない。彼の離婚の原因はあきらかにされていないが、今も彼を激昂させる妻とのすれ違いは、多かれ少なかれ男女の社会構造上の不平等も関わっていたはずだ。彼は今度も女性との関係の構築を誤った。誤らざるを得ない社会環境だった。社会に生きている以上、現状の誤った「社会常識」を内面化することは避けられない。間違いのない時代などない。それにいかに自覚的でいられるかが、誤りを正す鍵となるが、彼は「間に合わなかった」のだ。ロザリンドの生きているあいだには。

本作はウィルキンズの記憶の物語だ。ウィルキンズはロザリンドの観た舞台『冬物語』(シェイクスピア)に自身を重ねる。妻のハーマイオニの不貞を咎め、死においやったレオンティーズは、真実を知った暁に後悔をする。史実におけるウィルキンズは、ロザリンドの死後、ワトソンが著書で語る不当なロザリンド像に抗議をした。

 

4.作り手がテーマを理解すること

物語のコンテクストを担う脚本家や演出家が作品のテーマを理解することは必須である。一方で、演じている俳優はどうなのだろう? 一か月という短い稽古期間で高度な要求をこなしている彼らに、必ずしもそれらを期待するのは、酷なことだろうか。

観劇した日のアフタートークショー。そこで、とある男性俳優の一言が気になった。「女性差別とか、そういうのはもうないかもしれないけれど」

おおむねそういうニュアンスの発言である。本題とは関係のない前置きの言葉に過ぎないが、観劇後のカタルシスに水を差されたようで、げんなりしてしまった。

日本社会は「差別」という言葉に臆病だ。足元の差別や、その歴史を習わずに育つから、なにが差別でなにがそうでないかのモノサシがわからないのだ。日本にある女性差別が見えない、平均的な若い男性の発言は、公式サイトの「リケジョ」表記といい、『PHOTOGRAPH51』という作品を「今、この日本で上演する意味」への無理解に他ならないと感じてしまう。

パンフレットには『今、PHOTOGRAPH51を上演する意味』として翻訳家の芹澤いずみがコラムを掲載している。舞台に関わらず、時代背景を異にする作品が受け入れられるのは、そこに現代にも通じる問題をみるからだ。その普遍性に惹かれて観客は足を運ぶ。個別の問題から生まれたテーマは、作品として昇華されたとき、一過性の現象を超えて私たちの目の前に立ち現れる。

芸術には社会性がある。人間関係も、芸術も、社会構造の文脈の上に成り立つ。「いまこの時代、この場所で上演する意味」を、作り手はあらためて考えてほしい。理解できなかったのならば、せめて、口をつぐむだけの優しさを。